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「原案 / 対案」からの脱却 ― 「批判」の必要性とダイナミズムについて。

批判をするなら対案(代案)を出せ。

この言葉、一度は聞いたことがある人もいらっしゃるのではないでしょうか。

私自身、この言葉の言わんとしていることも分からなくもないです。しかし、得も言われぬ違和感があるのです。

結論から言えば、たぶん私はこの言葉には懐疑的です。
そこで、なぜ私がそう思うのか、自分自身の整理を兼ねて書いてみます。

1. 「批判することは誰でもできる」わけではない。

何かを「批判」するということは「文句」とは異なり、莫大なエネルギーを要します。

すなわち、その物事について多少なりとも認識し、何かしらの問題意識があるからこそ、批判ができるのだと私は思います。

私は大学院にいるので、大学生活の中で常に批判的思考を求められています。そこで実感したのは、当たり前といえば当たり前ですが、物事を批判的に思考するということは、それについて知識や経験がある程度必要なのです。それらがないと、見当外れなことを言ってしまうかもしれません。

経験や知識も一切なく不条理な愚痴を押し付けてしまえば、それはもはや「批判」ではなく「文句」です。この「批判」と「文句」の線引きは確かに必要です。

人によって経験や知識に差があること自体はごく自然なことであり、「熟知」していることが必要かどうかはケースバイケースでしょう。しかし、「最低限の知識や経験」は「自身の問題意識を明らかにする」ために必要である、というのが私の認識です。

もっとも、「最低限」ということは相対的な概念であることを、強調しておく必要があるでしょう。

小括すると、誰かの提案について批判するということは、「自分の問題意識がどこにあるか」を認識している必要があるということが前提として必要であるということです。すなわち、問題意識の有無が「批判」と「文句」の分水嶺であると思います。

2. 「原案」も「対案」も結局はアンバランスである。

では仮に原案が批判されたことで、反対の立場の人が予め用意した「対案」を採択したとしましょう。その時、どのような問題があるのでしょうか。

このような事例について考察しているnoteがあったので、有難く参考にしつつ、私なりの意見(批判?)を書かせていただきましょう。

この議論では次のような仮定を置いています。

1. ある1つの案は良い面と悪い面のみを持つ。
2. 良い面が100%の案は存在しない。
3. 一度場に出された案は、その後内容を変更できない。

そして、相対的に良い案が「原案 (A)」として提案されたとします。しかし、その原案には多かれ少なかれ「悪い面」を抱えています。そして、原案に反対の立場の人がその「悪い面」を批判してしまうと、結果的に相対的に悪い「対案 (B)」が選択されることになる。そういうロジックで上記の記事は議論を進めています。

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さて、私が上記の記事を批判的に検討するに、2つの問題点があります。

1. 「対案」への検討(批判)が行われていない。
2. 「 一度場に出された案は、その後内容を変更できない。」という仮定は妥当ではない。

まず1点目について。

批判によって「原案 (A)」に多少問題があることが明るみになりましたが、だからといってホイホイと対案のBやCを採択するというのは健全な議論ではないということです。つまり、批判されたからといって原案を無条件に棄却する必要はなく、「対案」も同等に批判の対象であるべきです。

それは結局のところ「原案」も「対案」もアンバランスだからです。いずれの案も異なる立場の人からの提案です。立場が異なれば意見に偏りが出ることは自然なことであり、それを否定する必要もないでしょう。すなわち、「どちらかが絶対的に良い / 悪い」という二元論で考える必要はないし、原案にも対案にも何かしら問題を抱えていることは何ら普通です。

続いて2点目について。

私が思うに、原案も対案も、所詮は「案」です。「案」とはもっと流動的でダイナミックであるべきだと思います。つまり、案を修正したり削除したりすること ―― つまり「模索」すること ―― は、議論を行う上での重要なプロセスだと思います。

誰も絶対的な正解を知らないからこそ「案」を「模索」するのです。にもかかわらず、案を修正しないということは、誰かしらが「絶対的に正しい案」を提示可能だということを暗に仮定しています。しかし、「絶対的に正しい案」というのは存在しません。言わば「オクシモロン」なのです。つまり、誰もそのような「絶対的に正しい案」を示すことはできないのです。

例えばあるラーメン屋にて、今のラーメンには何らかの問題点があることが「批判」によって明らかになったとしましょう。しかしこの時点ではまだ具体的な改善案はありません。

そこでさらなる「批判的検討」の結果、「麺とスープは問題なかった。ただチャーシューに問題がある」ということが明らかになれば、「ではチャーシューをどう改善すればよいか」を考える必要があります。しかし、最初から「絶対的な解決案」を持っている人はいません。だからこそ「議論」や「批判」が必要なのです。

まず「何が問題なのか」を知る。これがより良い案を創出・模索するための重要なステップなのだと思います。そして、そうした問題点は「批判」によって明らかになるのです。

ここで、さらに「チャーシューの何が具体的に問題なのか」を批判的に検討すること様々な案が出てきます。

「豚の銘柄が問題なのかもしれない」
「調理法が問題なのかもしれない」
「スープとの相性が問題なのかもしれない」

このような新たな「修正案」の「模索」が始まるのでしょう。これらの修正案は「値段への影響はどうか」など、さらなる批判的検討の対象となる・・・という批判的検討の循環のうちに、以下のような具体的な案へと変化していくのです。

「麺やスープは国産原料にこだわっているのに、味玉やチャーシューなどの具材については十分に検討されていなかった。お客様からの声や従業員からの味の感想をもとに社内で議論した結果、チャーシューの食感がパサパサしており、ラーメンとミスマッチなのではないかという問題点が浮き彫りになった。さらに議論を進めた結果、色んな解決案が浮上したが、まず豚の仕入先を変更した上で、チャーシューの調理に圧力鍋を使ってみよう、ということになった。一方で、豚の仕入先や調理法を変更すると原価が上がってしまうという意見 (批判) もあったが、この点についてさらに会社として議論した結果、当ラーメン屋では安さよりも味を重視する客層が多いので、回転率を上げるより客単価を上げるほうが収益につながるのではないかという結論に至った。・・・」

しかし、案の修正を認めないということは、「麺、スープ、チャーシュー、全ての要素を作り変えた上で新たに対案を出す」ということです。この結果、そもそも何が問題だったかを認識できなかったり、変えなくて良いところまで変えてしまい、却って状況が悪化してしまうこともあります。あるいは、実際はチャーシューだけ再検討すれば十分だったものを、従来から問題なかった麺やスープについてまで再検討を余儀なくされ節約できたはずの時間が割かれてしまいます。

このように、私が思うに、案というものは批判を通じて変化していくものなのだと思います。つまり、「原案」や「対案」を修正することは、実効性の観点からも経済合理性の観点からも重要です。

要は、原案も対案も、「案」なのです。仮に案に「絶対的な正解」があるとすれば、「提案」なんてすることなく実行すればいいわけです。しかし実際には、案というものには「実行する / 実行しない」「受け入れる / 受け入れない」というオプションが存在します。だからこそ、当事者同士で協力して、各々の視点から案の長短を吟味することが重要なのだと思います。「案」というアンカー (錨) を下ろしたり引上げたりしながら、一緒に「much better」を模索しましょう、ということです。

3. 批判は「より良い案」を協力して模索するプロセスである。

異なる立場からの批判に耳を傾けることで、より良い案を模索することができると考えられます。

Aさんは麺のプロフェッショナル、Bさんはスープのプロフェッショナル、Cさんはチャーシューのプロフェッショナルです。各氏は全員同じ「ラーメン」という土台にいますが、専門や得意不得意があります。従って、各氏の案には偏りがあります。

もし「対案なき批判」を認めないとすれば、どの人の案が選ばれたにせよ、偏ったラーメンが出来上がってしまいます。例えばAさんが提案するラーメンは麺だけが突出しており、他の要素には何かしら問題があります。Bさん、Cさんも同様です。どの人も必ずしも完璧な案を出せていません。

一方、各氏は自身の立場から「他人の案のどこに問題があるか」は分かります。そこで、Aさんの案をベースに、BさんやCさんからの批判を反映した修正案を出すことで、各氏が単独で案を出す場合に比べてより良い案を創出できるでしょう。

このように、AさんBさんCさんの各氏が協力して当初の案を批判的に検討し、何が問題(論点)になるのかを明らかにすることで、当初の案に対するより良い「修正案」を示すことができます。これが私の考えです。

すなわち、「原案」の問題点を明らかにするために批判は必要であり、「批判を更に批判的に検討する」という循環を通じて、原案が「修正案」へと発展していくということです。私流にいえば、これを「批判のダイナミズム」とでも言いましょう。

4. まとめ: 「Debate」から「Discussion」へ。

以上までの私の考えを簡潔にまとめると、こんな感じです。

「批判するなら対案を出せ」という主張には以下のような問題点がある。

第一に、「対案も批判的に検討しなくてはならない」という視点が欠落していること。
第二に、批判は「問題点を明らかにする」「異なる立場の意見に耳を傾ける」という重要な役割を担っている以上、対案がなくても批判はできること。
第三に、「原案 / 対案」という対立関係ではなく、批判的検討の循環のプロセスにすべての議論参加者が協力することで、より良い「修正案」を模索し発展させること (批判のダイナミズム) が不可欠であるということ。

なお、対案を出すこと自体は有益ではあると思います。何故ならば、原案の立場の人に自らのスタンスを示すことができるからです。つまり、自身の問題意識を他人に説明するための材料として対案は有用であると思います。
ただし、「対案を示すこと」と「批判すること」は一旦切り離して考えたほうがよいのではないでしょうか。

また当然ながら、問題意識のない「文句」までも正当化するものではありません。すなわち、「批判」には問題意識を持つことが不可欠であり、この点において文句と区別すべきでしょう。

結局のところ、「批判」することも「議論」することも「対案」を示すことも、いずれも「手段」であり「ゴール」ではありません。

私としては、異なる立場の人を打ち負かす議論としての「Debate」ではなく、異なる立場の人々が協力しながらより良い案を模索する議論としての「Discussion」へとシフトすることが、現代社会においては必要なのではないかと思います。


Fin.


※ 補足

ここでの私の主張のバックグラウンドとしては、恐らく以下のような視点が関連しているかもしれません。

・ 進化経済学
・ 比較制度分析
・ 協力ゲーム理論
・ シナジー効果
・ 「場」の理論 (経営学)
・ SECIモデル
・ 認知バイアス
・ イノベーション

以上は直接的かつ完全に依拠しているというよりは、裏側でうっすらと関連のあるようなないような、そんな感じだと思います。

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