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#371 現代人に求められるネガティブ・ケイパビリティ

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。最近、割と注目され始めてきた言葉だと思うので、聞いたことはある、という方も多いかもしれません。

「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、「どうにも答えの出ない、対処しようのない事態に耐える能力。あるいは、性急に事実や証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」のことを指します。

はじめは、「どうにも答えが出ない事態に耐える能力」という考え方が、日々のマネジメント業務に不可欠になってきたことを感じて読み始めた本ですが、読んでいくうちにマネジメント以外への適用範囲が広いと感じはじめました。

そこで、マネジメント業務におけるネガティブ・ケイパビリティの重要性は次回の記事に譲ることにして、今日は、ネガティブ・ケイパビリティがより現代社会を生きる自分たちにとって必要な概念ではないか?と感じた部分について言及しながら話していきたいと思います。

ネガティブ・ケイパビリティとポジティブ・ケイパビリティ

ネガティブ・ケイパビリティ

「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、1817年にイギリスの詩人ジョン・キーツが弟たちの手紙の中で初めて使った言葉で、その170年後に精神科医ウィルフレッド・R・ビオンが再発見した概念とされています。

元々は、「物事の意味や理由を理解しようとしないで、ありのままを受容する」という考え方で、絵画や音楽といった芸術の分野を指して用いられたようですが、ビオンは精神分析の分野でこの考え方が不可欠と考えます。
というのも、精神科医にとって、普段接する患者の問題はほとんどが解決策を見つけようにも見つからない、手のつけどころのない悩みが多く含まれているからです。精神科医にできることと言えば、ほとんどが「それは大変でしたね」という共感の言葉をかけてあげるくらい。この宙ぶらりんの状態をそのまま保持し、間に合わせの解決で帳尻を合わせず、じっと耐え続けていくしかありません。

私たちの脳は常に「分かりたがる」ようにできているため、この宙ぶらりんの状態はかなりストレスが大きいです。だから、ネガティブ・ケイパビリティを意識していないと、ついつい患者の表面的な言葉から無理やり問題を特定し、表層的な解決策を提示しようとしがちです。しかし、そんなことをしても問題の本質にアプローチできないのは明らかで、何なら本質とはズレた解決策を提示したところで逆効果になる可能性の方が高い。だから「今、自分はネガティブケイパビリティを試されている」と自己認識することで、耐える力を強化することが推奨されています。

ポジティブ・ケイパビリティ

「ネガティブ=答えや根拠を出すことに消極的」なのに対し、ポジティブ・ケイパビリティは、問題の原因や事実を特定し、積極的かつ早期に問題解決を図ろうとする考え方です。
このアプローチが上述した精神科医のケースに適合しにくいのは理解しやすいと思いますが、ビジネスの世界では、ポジティブ・ケイパビリティが求められるシーンは多いです。
全ての仕事の目的は、誰かに対する価値貢献であり、特に民間企業の立場で資本効率の改善を図りながらそれを実現していくとなると、どうしても生産性を向上する方向に向かいます。生産性は、投下した時間やコストに対するアウトプットを最大化することで良化が図られますが、コストカットや時短は分かりやすく他人からも理解されやすい(=評価しやすい)ことから、「早く早く」「安く安く」が良しとされてきました。

これまでの問題解決では、解決できない問題

一方で、仕事をしていてよく感じるのは、いわゆる「社会問題」と呼ばれるものが明らかに高度化・複雑化しているということです。
私のキャリアの中心にあるIT業界におけるビジネスの変容を見ていても、少し前までは「効率化のIT」ということで、単純にアナログなプロセス、人手や紙に頼っていた業務フローを電子化することが、ビジネスとして成立してきました。

しかし、単体の業務プロセスをITで置き換えるというビジネスは完全にレッドオーシャン化しており、ITの導入が進まない原因は技術そのものではなく、使う側の人のリテラシーや技能にあります。また、個社に閉じた業務プロセスを電子化するだけであれば調整のハードルも高くないですが、グローバリゼーションが進み、あらゆるサプライチェーンが広く連結している現在において、全体で足並み揃えて実現できるスキームを描いた上で社会実装していかないと、IT化の効果が出てこないことばかりです。

普通に考えれば、元々問題の数が100個あったとして、あらゆる企業が問題解決を行なっているので、解くのが簡単な問題から解消されていきます。残っているのは、解決が一筋縄ではいかない問題ばかりです。

言い換えれば、ポジティブ・ケイパビリティのアプローチで解決できる問題の量が減り、「すぐには対処ばかりか、原因の特定すらできない問題」の量が相対的に増えているということです。
このような問題には、拙速に問題の原因を特定せずに、じっくり対象を観察しながら、針の穴を通すようにして解決の糸口を探るネガティブ・ケイパビリティのアプローチが必要になってきます。

教育におけるネガティブ・ケイパビリティ

世の中に残存する多くの問題が、「すぐには答えが出せない問題」ばかりになり、よりネガティブ・ケイパビリティが求められるようになっている一方で、現状の教育システムがそれに追いつけているとはなかなか思えません。

これまでの教育は、問題を早急に解決する能力の開発だと信じられ実行されてきました。筆者の帚木さんが指摘している論点でとても共感したのは、「問題解決があまりに強調されると、問題設定の段階で問題そのものを平準化してしまう弊害」です。

単純な問題であれば解決も早いので、どうしても対象の事象の複雑さを削ぎ落としてしまいます。しかし、簡略化されたものはリアリティを失うため、現実世界から乖離していきます。結果、そこから導き出される解決策も机上の空論に終わってしまいます。

複雑な物事を理解するのは、当然脳にストレスがかかります。だから、複雑な物事を分かりやすく説明できる人は頭が良いとされ、評価も得やすい面があります。一方で、複雑な物事を簡略化せずとも理解できる人こそやはり頭が良いと感じるし、そこに向き合っていかないと、分かりやすさだけが重視されると頓珍漢な解決策ばかりになってしまうのではないか?と危惧しています。

帚木さんが南仏のマルセイユ在住の際、子どもを通わせていた小学校で、1年生での学習水準に達しなかった子が「自分は覚えが悪いので、何年か1年生をしている」と当然のように話していたエピソードが紹介されていました。

学習スピードに個人差があるのは当然で、1年生で分からない部分に蓋をしたまま2年生になって解決されているわけもなく、段々分からないことが多くなり、学習そのものが嫌になってしまうのは当たり前ですよね。マルセイユの小学校のエピソードは非常に合理的な考え方だと思いますが、日本の教育は基本的には落第がなく、全員が一つずつ上級学年に上がる画一的なものです。そこで、学年ごとに建前上の「到達目標」と「達成度」が採用されているわけですが、これも、ある意味個人差という「複雑性が排除された問題解決」といえます。

学校教育の出口となる社会が、「早く問題を解決する」ポジティブ・ケイパビリティでは太刀打ちできない問題ばかりになっていることを受け、文科省を中心に探究学習の推進を図っています。しかし、実際に現場で教える先生側が、探究学習のテーマを「解答を手早く教えられる、狭い問題に誘導してしまう」と、世の中には解決できない問題の方が何倍も多いというリアリティが抜け落ち、教育そのものがちっぽけなものになってしまいます。

答えの出ない問題の解を探し続ける挑戦こそが、本来は仕事や教育の面白さです。

繰り返しになりますが、答えが出ない問題に向き合い続けるのはストレスがかかります。だから、「そもそも一筋縄ではいかない問題ばかりなんだ、そういうもんなんだ」ということを認知しておくだけでも、日常の見え方が少し変わったりするのかな、と感じています。

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林 裕也@IT企業管理職 ×「グローバル・情報・探究」
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