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吉田篤弘 著『鯨オーケストラ』|それぞれの過去が重なり合い、やがてひとつの物語になる。
こちらの書評は、本と文芸のニュースサイト「ナニヨモ」様にて、連載「出会いを楽しむ~『本』が広げてくれる世界~」(2024.10~2024.12)を行った際の記事になります。
書店でさまざまな本を眺めていると、その黒く品の良い装丁が目に留まった。そして、ページをめくり少しだけ物語の世界に触れた時、「この方が選ぶ言葉がとても好きだ」と感じたのだ。それが、筆者と吉田篤弘氏の物語との出会いであった。
そんな筆者にとって、記念すべき一冊目となった『鯨オーケストラ』(角川春樹事務所)は、声優や朗読など声の仕事を生業にする青年、曽我哲生(そが てつお)の視点で描かれている。ある日、担当する深夜のラジオ番組で、17歳の時にモデルをした絵が行方知れずになっていると話したところ、視聴者から一枚の葉書が届く。その葉書をきっかけに、物語は静かに動きだす――。
本書においてとくに印象に残っているのが、作中に登場する、曽我が主人公の声を担当した映像作品『レインボー・ファントム』のとある場面である。
主人公は、わけあって天国で六角レンチを探していたが見つからずに困っていた。そこに天国の案内係が現れ、「生前、六角レンチを使って作業をしたことはあるか、触れたことはあるか」と問う。それに対して主人公がないと答えると、案内係は「あなたの天国に六角レンチは存在しない」と言い、理由をこのように話すのだ。
天国というのは、あなたが生きていたときに、じかに触れたり、たしかに経験したことによって、つくられているんです。認識だけでは駄目なのです。
たとえ、あなたが六角レンチというものを認識していたとしても、一度も使ったことがなく、触れたこともないとなると、あなたの天国にそれは存在しません。
天国や案内係が実在するか否かは、一旦横に置いておくとしよう。注目したいのは、「認識していたとしても、一度も使ったことがなく触れたこともない場合、あなたの天国にそれは存在しない」という部分だ。確かめようがないため真実かは分からないが、筆者はこの部分がとても興味深いと感じた。
何かの名前や存在を知っただけで、すべてを理解したと錯覚してしまうことは意外と多い。世の中には、見て、触れて、使って(体験して)みないと、分からないことが山ほどあるというのに、だ。筆者もつい知れたことに満足し、その先を疎かにしてしまう時がある。そういった意味でも本書は、体験することの大切さを思い出させてくれた。
このほかにも作中には、日常をほんの少し楽しくするヒントや生きていくうえで大切にしたい言葉が、至る所にちりばめられている。このヒントや言葉たちは、人生に不可欠というわけではない。あまりにも些細なものゆえに、普段は見過ごされてしまうことも多い。しかし、「じつは、そういったものほど大切なんだよ」と、著者は優しく時にユーモアを交えて伝えてくれているような気がした。それらを見つけ拾い集めていく楽しさも、本書の魅力といえよう。
そして、本書の魅力を語るうえで忘れてはならないのが登場人物たちの存在だ。主人公である曽我のほかにも、本書には個性豊かで愛おしい人々が登場する。彼らも曽我と同様に忘れられない過去を抱えて生きている。曽我が彼らと出会いそれぞれの過去が重なり合う時、いくつもの小さな奇跡がおこり、やがてひとつの物語になってゆく。
彼らについては、同じく角川春樹事務所から刊行されている『流星シネマ』と『屋根裏のチェリー』にも描かれているため、ぜひともそちらも手にとってもらいたい。もちろん『鯨オーケストラ』のみでも楽しめるが、この二作を読むことによって本書では語られていない彼らの素顔や、過去の出来事を知ることができる。彼らを、より身近に感じられるだろう。筆者も二作を読了後、改めて本書を読んだ時、深く物語の世界に潜ることができた。
一枚の葉書をきっかけに動き出した物語は、さまざまな人と出会い、数々の小さな奇跡をおこす。その奇跡を本書を通して目にするたびに、胸が優しく温かなもので満たされてゆくのを感じた。自分だけではどうにもならないことも、誰かと一緒なら叶えられるかもしれない。『鯨オーケストラ』は、そんな希望を抱かせてくれる優しい物語である。
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![鶴田 有紀](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/145780733/profile_05610be4f14851acb6806c397c353799.png?width=600&crop=1:1,smart)