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“超現実”を感じた日本映画2本

この数ヶ月のあいだに、2本の日本映画を観に行った。外国作品を観ることが多いわたしにしては、ちょっと珍しいことだ。

ひとつは昨年12月1日。この日は“映画の日”で映画館の観覧料が安くなる。幸いにも週末と重なったので行くことができた。出かけたのは池袋の初めて行く映画館だった。そして先日2月11日、建国記念の日。観覧料は安くならないけれど、週末以外の休みがそうさせるのか、ここ数年たてつづけに2月11日に映画を観に行っている。しかもいずれも日比谷の同じ映画館。最早わたしにとって、この日はもうひとつの映画の日だ。

12月に池袋で観たのは井土紀州監督の『痴人の愛』。言わずと知れた文豪谷崎潤一郎の同題小説が原作だ。そして2月に日比谷で観たのは吉田大八監督の『敵』。こちらも筒井康隆の同題小説が原作。

『痴人の愛』を観たあと、ちょっとした感想ぐらい書いておこうかと思っていたのに年末年始の慌ただしさにかまけてそのままになっていた。このまま記憶の奥底に沈澱させてしまうコースかという感じだったのだけど、先日『敵』を観たことで、いろいろと思うところが出てきたので、書き留めておくことにした。以下、それぞれの映画について公式サイトにあるあらすじを引用したうえで 、その思うところを書いておきたい。まずは直近の『敵』から。

◆◇◆

『敵』

渡辺儀助、77歳。大学を辞して10年、フランス近代演劇史を専門とする元大学教授。20年前に妻・信子に先立たれ、都内の山の手にある実家の古民家で一人慎ましく暮らしている。講演や執筆で僅かな収入を得ながら、預貯金が後何年持つか、すなわち自身が後何年生きられるかを計算しながら、来るべき日に向かって日常は完璧に平和に過ぎていく。収入に見合わない長生きをするよりも、終わりを知ることで、生活にハリが出ると考えている。

毎日の料理を自分でつくり、晩酌を楽しむ。朝起きる時間、食事の内容、食材の買い出し、使う食器、お金の使い方、書斎に並ぶ書籍、文房具一つに至るまでこだわり、丹念に扱う。

麺類を好み、そばを好んで食す。たまに辛い冷麺を作り、お腹を壊して病院で辛く恥ずかしい思いもする。食後には豆を挽いて珈琲を飲む。食間に飲むことは稀である。使い切ることもできない量の贈答品の石鹸をトランクに溜め込み、物置に放置している。

親族や友人たちとは疎遠になったが、元教え子の椛島は儀助の家に来て傷んだ箇所の修理なども手伝ってくれるし、時に同じく元教え子の鷹司靖子を招いてディナーを振る舞う。後輩が教えてくれたバー「夜間飛行」でデザイナーの湯島と酒を飲む。そこで出会ったフランス文学を専攻する大学生・菅井歩美に会うためでもある。

できるだけ健康でいるために食生活にこだわりを持ち、異性の前では傷つくことのないようになるだけ格好つけて振る舞い、密かな欲望を抱きつつも自制し、亡き妻を想い、人に迷惑をかけずに死ぬことへの考えを巡らせる。 遺言書も書いてある。もうやり残したことはない。

だがそんなある日、パソコンの画面に「敵がやって来る」と不穏なメッセージが流れてくる。

いつしかひとり言が増えた儀助の徹底した丁寧な暮らしにヒビが入り、意識が白濁し始める。やがて夢の中にも妻が頻繁に登場するようになり、日々の暮らしが夢なのか現実なのか分からなくなってくる。

「敵」とは何なのか。逃げるべきなのか。逃げることはできるのか。
自問しつつ、次第に儀助が誘われていく先にあったものは――。

映画『敵』公式サイトより

モノクロ映画である。色がない。端整な生活を続ける主人公、渡辺儀助のつくる料理がモノクロ映像でもとても美味しそうに見えるから不思議だ。どこかで効果的にカラーが使われたりするのかもと思っていたけれど、全編を通してモノクロームだった。

健康に配慮して日々を過ごし、来たるべき日“Xデー”に備える。静かに余生を過ごしながら、過去の記憶や欲望と向き合う。この生き方(死に方)は合理的ではあるけど、どこか味気ない。なんとなくフランス近代演劇史の専門家らしい、人生を俯瞰的に見た発想のようにも思える。劇中、仏文科の大学生菅井歩美との会話でプルースト『失われた時を求めて』が出てくるのも、どこか説得力があった。

映画では、そのXデーのおそらく数日後までが描かれている。儀助がどのようにしてその日を迎えたのかはぼかされているものの、とくに病を患っているわけでもないし、途中、寝室で首を括る予行演習をしたシーンがあったから、そうして自ら終止符を打ったのだろう。遺言書も自死を仄めかすように改められていた。医師幇助自殺が非合法な本邦では、それが最もあり得そうだ。

この映画の面白さは半ばからの、シュルレアリスム的な展開とその演出にある。現実と夢と妄想のシーンが矢継ぎ早に現れ、それらの境界が徐々に曖昧になっていく。彼の人生は、自らの意思とはかかわりなく混沌とした認識のなかで終わってしまったようにも見える。

77歳であっても執筆や講演をこなし、手の込んだ料理をつくる儀助は、高齢者にありがちな認知症とは無縁そうだ。あの現実と妄想の混同は、むしろ統合失調症と解釈した方が理解できる。いつしか食べ物も出来合いのものが増えていたし、もうこの世にはいないはずの人びとの幻覚が現れる。鍋を囲むシーンや病院のシーンでは自我障害のような演出が顕著だった。

先立って久しい父や愛妻への想い、現役時代の輝かしい日々の記憶、内に秘めた肉欲……抑制的な日常に対して合わせ鏡になっているような人間臭い要素。これらが儀助の認識する世界にごく自然に姿を現しはじめる。

スパムメールに端を発した「敵が来る」がやがて具体的になる。幻視幻聴となって増幅する。ぼんやりとした恐怖心も、漠然とした“敵”の存在から、やがて難民や軍人の姿を借りて現れる。その様子にはとてもホラーみがあって、そこは映像化の真骨頂といったところだ。

通りがかった女性が連れていた飼い犬の名前がバルザックだったのは、この作品がフランス近代文学に通じることを匂わせた遊びか(『人間喜劇』に似た場面がありそうだけど、思い出せない)。女性が犬をバルザックと呼んだ時に、観客席では笑いが起きていたので、ほかの入館者にも同じことを連想した人がいたのだと思う。

現実と夢と妄想が、徐々に混じり合ってゆく。その様子の表現が秀逸で、他人から見れば奇妙で異常なことも、儀助本人にとっては真実なのだ。知覚できることも、心の奥底にあるものも、はたまたどこにあるかわからないものも、ある時ある人に感じられるものには真実がある。まさに超現実。シュルレアリスムそのものではないか。

それにしても、この“敵”とは何者なのか。明示的に現れる難民や軍人風の男たち、戦乱。儀助の年齢からすると、育ったのは戦後の物資不足の時代。親世代からの話でこうした姿は身近な恐怖だったはずだ。“敵”は、逃れられない老いなのか、気取っていながらも向き合わざるを得ない死への恐怖なのか、はたまた端整さを装う自分の恥部なのか。

鑑賞後、わたしにも得体の知れない“敵”が迫っていそうな不気味さを感じて映画館を後にした。

『痴人の愛』

かつてシナリオコンクールで受賞したものの、未だプロデビューを果たせずにいる脚本家志望の男・河合譲治(大西信満)。

ある日、同じシナリオ講座に通う若者たちと入った寂れたバーで、譲治はナオミ(奈月セナ)と名乗る美しい女性と出会う。店で働きながら俳優を目指しているという彼女に「シナリオ講座の講師」と勘違いされた譲治は苦笑しながらも、自身の身の上を明かす。

やがて譲治は、シナリオ講座の講師・椿(村田雄浩)に「自分の代わりに映画の脚本を書いてみないか」と誘われる。原作は、谷崎潤一郎の『痴人の愛』......譲治は二つ返事で依頼を引き受け、今度こそ成功してみせると脚本を書き始める。

脚本執筆に苦戦する中で、譲治はナオミと再会し、二人の関係は急速に近づいていく。しかしそれが、ナオミと執筆との間で身を引き裂かれる、甘く、苦く、狂おしい時間の始まりだった......。

映画『痴人の愛』公式サイトより

こちらは原作から100年が経っており、原作と現代とでは時代背景があまりにも異なる。それゆえ大胆な再解釈とリメイクがされていて、谷崎文学の映像化というよりも同じタイトルの別作品ととらえたほうが良さそうだ。

大正時代のダンス倶楽部は令和のシナリオスクールに場所を変え、堅実なサラリーマン河合譲治は脚本家デビューを目指すフリーターの中年男に、浅草のカフェで女給として働く数え15の美少女ナオミは元劇団員のバー店員に。ナオミの年齢は谷崎作品の設定よりもひと回りほど上に見える。譲治と遭った時点ですでに大人の女性なので、養育する過程は存在しない。このヒロインはもっぱらファム・ファタールとして譲治を翻弄する。

原作の、ナオミを淑女に育てようというマイ・フェア・レディ的側面は、大正時代のフェミニズムが台頭しようとする時代背景に影響されていた(のだと思う)。それから1世紀が経った令和の現代はどうか。現代女性を象徴する運動はMetooだろうか。とうぜん“男に養育される少女”なんてものが入る余地はなかったのだろう。谷崎のナオミは譲治に見初められるような出会いだったけれど、映画ではナオミが譲治に積極的にアプローチする。主従関係の逆転も顕著ではない。

ナオミの奔放な逸話は、過去の劇団でのサークルクラッシャーとしての話で仄めかされるほか、シナリオ講座の受講生熊谷からも「誰とでも寝る女だ」との発言がある(この熊谷をはじめ登場人物の名前が谷崎の原作と同じなので、ナオミと熊谷にまつわる展開が見えてしまった)。しかしながら、官能的なシーンは譲治との絡みのみで意外と抑制的だ。

本作では劇中劇として『痴人の愛』を扱う入れ子構造になっている。その中身は谷崎による大正時代の話ではなく、映画同様に現代版にアレンジされた内容のようだ(別の役者の演じるナオミは同じ衣装で登場する)。もしも譲治が手がけた脚本がもっと谷崎の原作の要素を踏襲しているのならば、ナオミとまわりの男たちとの乱痴気騒ぎが描写されていたのではないかと思う。この映画にはそんな場面はない。独白の形をとる以上は譲治の視点でのみ描かれている。この映画の“痴人の愛”は、一人の男の性愛のあり方以上の意味はなさそうだ。

ナオミが譲治を馬にするシーンは、おそらく『痴人の愛』を象徴する場面として原作から採用されている。原作と映画のナオミの年齢の違いからか、そのシーンの意味合いは変質していて、言葉でのみ示されるナオミの交友関係と谷崎の原作から、この馬役の譲治の姿は倒錯行為のメタファーではないか。とすると、きっと劇中劇の『痴人の愛』(河合譲治による脚本)では、あの『エマニュエル夫人』シリーズのようなシーンばかりだったのではないか……などと想像(妄想?)した。

あの手のシーンが令和の現代にセンセーショナルになるかどうかはさておき、最後に「『痴人の愛』が評価され、しばらくは仕事が来た」とあったので、劇中の譲治の脚本はこの映画のように抑制的ではなく、もっと過激だったかもしれない。そもそも谷崎の原作はもっとフェティシズム的要素が濃厚だ。

フェティシズムが乏しいのに“痴人の愛”と題されているのは、意地の悪い見方をすれば、文豪の名を借りた便乗行為である。良心的に見れば、100年前に問題作を書いた文豪へのある種の遠慮であり、オマージュとして、フェティシズムの領域には敢えて踏みこまなかったともいえる。この100年で女性の立場も性愛のあり方も大きく変わったから、同じ表現は必要なくなったということを、このリメイクで示しているともとれる。

印象的なシーンはいくつもあったものの、なぜ“痴人の愛”なのかが見えづらいと感じた映画だった。

◇◆◇

このように、実は『痴人の愛』については、どうしてこのようなリメイクがされたのかという疑問が鑑賞後に残っていた(だからすぐには感想をnoteに書けなかった)。

たぶんこれは谷崎の『痴人の愛』を知っていたがゆえの疑問で、さらにはリメイクが原作からかけ離れていたからこその疑問なのだとは思う。もし原作を知らなかったら、ある種明快な“ダメ男とファム・ファタール”を描いた映画の世界にもっとすんなりと入れたことだろう。

しかし、本noteの冒頭に書いたように、現実と妄想の境界がわからなくなる『敵』を観た後で思うところが出てきた。先述のとおり、わたしはこの映画にシュルレアリスムを見ていた。

映画『痴人の愛』もシュルレアリスムではないか、つまり、虚構と現実がシームレスに織り交ぜられた世界なのではないかと思ったのだ。それでいてなにか真実を描こうとしているのではないかと。

思えば、映画の最初と最後に、ナオミを写した写真が波止場で海に沈むシーンがある。これこそ、ナオミは実在しないことを仄めかしているのではないか。その写真を撮影するシーンもなかった。ラストには譲治の声で「今も僕はナオミを待ち続けている」とあった。

ナオミを演じた奈月セナについては、わたしはまったく知らなかった女優さんなのだけれど、彼女には現実離れした美しさがある。それは劇中劇で別の役者が同じ衣装で演じるもうひとりのナオミと比べても違いが明らかだった。ナオミは譲治がピグマリオン的に生み出した理想の女性像だったのではないか。

ハイハイドウドウの馬ごっこにしても、谷崎の原作から現代向けの脚本を起こすための譲治の想像の産物だったとしたら。谷崎『痴人の愛』の主役は奇しくも自身と同姓同名の“河合譲治”……ナオミも熊谷も浜田も、皆が譲治が脚本を書く過程で、谷崎の原作を参考にして生み出した虚構だったのではないか。

虚構を取り去ってみると、そこに残るのは自身の才能の限界を知りながら苦悩するだけの不器用な中年男。挙げ句は妄想に逃げる弱さ。シュルレアリスム的に解釈すれば、“痴人の愛”とは愚か者の自己愛のことだったのかもしれない。

話を『敵』に戻す。

あのモノクロ画面で描かれる渡辺儀助の家は、それこそ谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を想起させる。日本家屋の陰影の美があるし、一昔前の古き良き日本の姿がある。“敵”の潜む様子は、なんだか妖怪でも出てきそうである。

谷崎潤一郎には『瘋癲老人日記』という老人の性愛を扱った作品がある。この作品の主人公も77歳だった。実はわたしは筒井康隆の『敵』は未読なのだけど、この映画にはどこか谷崎的な要素を見てしまう。

このnoteを書いていたら、スマホに通知が届いた。ニュースサイトのものだった。『敵』でもメールの通知で不穏な“敵”の存在が知らされていたんだったなと思いながら通知内容を見たら、なんと筒井康隆さんの記事ではないか。

これには苦笑してしまった。やはり我々はデバイスに監視されているのか。“敵”ここに居たり。

90歳になられた現在、筒井さんが終の棲家として高齢者施設を選んで転居された話である。なにも小説家が小説のような生活をすることはないのは承知の上だけど、断筆宣言事件の厳しい印象があって、わたしは勝手に『敵』で渡辺儀助を演じた長塚京三さんとイメージを重ねてしまっていた。

わたしの勝手な思い込みこそ虚構である。そしてこの記事の高齢者施設で生活する筒井康隆氏こそ現実の姿である。しかし、その筒井氏が『敵』の渡辺儀助を生み出したのである。そこには、やはり虚構に託した真実が隠れてはいまいか。

何が虚で何が実か。そこを分けることにはあまり意味はないのかもしれない。これがここ数ヶ月にこれら2本の映画を観たうえで、わたしのなかで収斂しつつある落とし所になっている。

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