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フットボールの記憶

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魔法の十分間

 セレステ・イ・ブランコのフィエスタが長く続くことはなかった。56分、エルナンデスのクロスが流れ、右サイドバックのパヴァールへと弾みながらボールが流れていく。パヴァールはトラップすることなく、上から下へと鉈を振り下ろすようにしてボールに回転をかける。  そのボールは細い紐に乗って前へと進んでいく独楽のように、ゆっくりとゴールの右上へと吸い込まれていく。そのボールが蹴られた瞬間に「入る」と僕は確信した。ボール以外のすべてが、動きを止めたように感じられる。そのあまりの軌道の美し

生き返る希望

 勢いそのまま、ついに日本が同点に追いつく。33分、香川が下がって昌子からボールを受ける。相手の意識を引き寄せる。セネガルが引いて構えようとしたところ、柴崎からまたも意表を突いたロングパスが放たれる。長友の飛び出しについていけないサールとワゲ。日本を序盤に苦しめていたコンビだ。長友のトラップが内側へと流れる。フリーの乾が瞬時にシュート体勢へと入る。振りは小さく的確に。そのボールにK.エンディアイェは左手を目一杯に伸ばすが、触れることができない。狙い澄ました一撃は燃え上がる炎の

呪縛からの解放

 強い日差しに照らされたカイザースラウテルン。歓喜に沸く、サッカルーズ。そして、悲嘆を映す青き侍たち。明るい世界の中で、黄と青の対比は鮮やかであり、激しい悔恨を僕の内に残した。忘れられぬ傷。その傷を癒す旅は二〇〇六年から始まった。  二〇〇七年と二〇一一年のアジアカップで勝利した。しかし、内なる感情が浄化されることはなかった。ワールドカップの舞台で生まれた傷。それは、ワールドカップでしか癒すことはできない。最終予選で繰り返される接戦。二〇〇九年のメルボルンでは敗れ、舞台を横

Is there a fire drill?

 そこはロンドンの北。地下鉄のヴィクトリア線沿線にあるセブン・シスターズ駅。ロンドンは洗練と異国の香りが共存している街だ。しかし、セブン・シスターズの周辺は丸みを帯びていた融合が刺激へと様変わりする。人々が違う。雑多な音が重なり、その音量も大きい。ヴィンテージデニムのような風合いではなく、煤のような汚れがあらゆる場所に付着している。  僕はホワイト・ハート・レーンを目指す。そこでトッテナムとウェストハムはダービーを戦う。「ボックス型」という言葉通り、そこは箱のようなスタジア

気高きトリコロール

 ウェンブリーの象徴、アーチ。その日、それはトリコロールに染まっていた。  二〇一五年十一月十三日。僕はカーディフにいた。雨に打たれながら、ウェールズとオランダによる親善試合を観戦した。帰路で買ったフィッシュ・アンド・チップス。それを包む紙パックに油の染みが広がる。雨粒がついたプラスチック袋をテーブルに置いた。異国で宿の部屋に身を落ち着けると、錠がかかったように安心が体内を駆け巡る。  テレビをつけた。その音で静寂を埋めたかったのかもしれない。試合の余韻と安心が同居する僕

夢を叶える時

 死ぬまでに叶えたい夢があった。チャンピオンズリーグをこの眼で拝むこと。強豪が集う、至高の舞台。高らかに鳴り響くアンセム。その音色を全身で浴びたかった。  夢を達成するまで、それは果てしなく長い道のりのように思えた。しかし、僕はそのチケットを引き当てた。二〇一四年のリスボン。決勝は情熱のマドリード・ダービー。「光のスタジアム」を意味するエスタディオ・ダ・ルス。澄み渡る空に高く昇るポルトガルの太陽。それは、この日のためにすべての雲を払ってくれた。  席から三六〇度眺めても、

カンプ・ノウ

 どんな言葉を使ったとしても、その素晴らしさを言い表すことはできない。僕はカンプ・ノウにいる。そこは僕にとって完璧な場所だ。乾いた空気。透き通るような日差し。僕は全身でバルセロナを吸収する。  青、赤、黄。カンプ・ノウは主の色に染められる。涙が頬を伝う。カタルーニャの誇り。フットボールへの愛。その象徴としてのFCバルセロナ。”SOM EL BARCA”。「我はバルサ」。純度の高い思いが、その言葉に凝縮されている。  ゴールラインとハーフウェーラインに立ち、寸分なきリフティ

埼玉が膨張した夜

 空気が「膨張」している。六万人の静寂。十二万の眼は本田圭佑へと注がれる。  いくばくかの運も味方し、オーストラリアは敵地で先制した。近くに座っていたオーストラリアのサポーターが一人立ち上がる。漆黒の夜空。照明を受けて輝く芝生。青い海の中から突如姿を現した黄色の男と雄叫び。その光景は一枚絵として脳裏に焼きついている。  空気が焦りを醸す。時計の針が止まることはない。焦燥感が身体を支配していく。ワールドカップは鼻先にあった。しかし、眼前に靄が立ち込める。  鈍い痛みを感じ

美しき花々と血の香り

 初めての一人旅はワルシャワから始まった。ポーランドとは「平原の国」を指す。徐々に高度を下げる機窓から田園風景が眼に映る。それは彼方まで続いていき、どこまでも深く、立体的な緑色は途方もなく遠い場所へと身が運ばれたことを僕に実感させた。  「洗練された熱狂」。僕はEUROをそう評したい。欧州の澄んだ気配。その中で繰り広げられる情熱の発露。画面越しに映るEUROを食い入るように眺めながら、実際の光景を一度はこの眼に焼きつけたいと願う自分がいた。二〇一二年の夏。その願いを叶える時

4が刻まれた日

 “KING OF ASIA”のバナーが踊る。アジアの王として臨む、ワールドカップ最終予選。大陸を席巻した煌びやかな攻撃。その攻撃は本田圭佑や香川真司といった名手たちによって彩られる。その華やかさは緊張という名の冷水によって引き締められ、高揚感が埼玉スタジアム2002を包んでいた。  すべての動作が流れるようでありながら、同時に止まっているように見えた。優雅な舞を連想させる、軽やかな余韻。今野から前田へ。前田から香川に落としてリターン。スペースへと駆け出す長友を追うようにボ

青と赤に染められたグラスゴー

 銀色の空が頭上を覆う。その下をエスパニョールの青と白、セビージャの赤が差す。グラスゴーへの再訪。半年の間に大西洋を二度も渡るとは思わなかった。モダンな趣と伝統を伝える街。その街も、この日はスペインの情熱によって染められていた。  リヴァプールから夜行バスに乗った。車内に満ちた疲れのようなものを身体はまとう。列車に揺られ、色に導かれた歩みの先にはハムデン・パークがそびえる。空から舞い落ちる雨。それは、三色からほとばしる熱と明確な対比を生む。しかし、その熱が失われることはない

中村俊輔がかけた五秒の魔法

 普段よりも空気の密度が高く感じられた。日差しが照りに包まれていた。人々のざわめきもウィンドチャイムのような音色を耳に残す。  大西洋を越えて、僕はセルティック・パークにいる。画面越しに見た熱狂の舞台。世界の広さと狭さを同時に感じた。照明を受けて輝く緑色の芝生。その一本一本が呼吸をしている。青さをも帯びる鮮やかな緑。この日、僕は本物の緑色と出会った。  あれほどまでに肌触りの良いパスを見たことがない。中央でボールを受けた中村俊輔は左へと流れる。黄色の衣をまとったキルマーノ

フットボールの記憶|鈴木隆行の雄叫び

「世界の壁」「惜敗」 見慣れた言葉が頭に浮かんだ 日本代表にとっての大舞台は糸を張ったような緊張感に包まれていた 57分、ヴィルモッツが巨体を宙に預け、舞い降りてくるボールを真上から振り抜く 揺れるネットに呼応するように、身体中に苦味が広がっていく ゴールの残像が残る中、辛い展開となることを覚悟して再び画面に眼を向けた 劣勢に立つ日本からは連想できないほど優雅なボールが小野の右足から放たれる 自陣奥深くからのロングボール 緩やかな放物線からは得点の匂いは感じら

フットボールの記憶|マラドーナの咆哮

僕は十歳の時にマラドーナと出会った 記憶は定かではないが、「世界の名選手たち」のようなタイトルの雑誌を僕は開く そこには「セレステ・イ・ブランコ」に身を包んだマラドーナがいる 彼は母国をワールドカップの頂に導いた英雄として紹介されていた 野生的な風貌と寸胴のような体型が印象に刻印を打つ マラドーナは「選手」でありながらも、僕にとっては「歴史上の偉人」と表現したほうが肌になじむ テレビを通して初めて目撃したワールドカップ アメリカの大地を色とりどりのユニフォームで