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埼玉が膨張した夜

 空気が「膨張」している。六万人の静寂。十二万の眼は本田圭佑へと注がれる。

 いくばくかの運も味方し、オーストラリアは敵地で先制した。近くに座っていたオーストラリアのサポーターが一人立ち上がる。漆黒の夜空。照明を受けて輝く芝生。青い海の中から突如姿を現した黄色の男と雄叫び。その光景は一枚絵として脳裏に焼きついている。

 空気が焦りを醸す。時計の針が止まることはない。焦燥感が身体を支配していく。ワールドカップは鼻先にあった。しかし、眼前に靄が立ち込める。

 鈍い痛みを感じながら、その笛は鳴った。後半ロスタイム。日本にペナルティキックが与えられる。埼玉スタジアム2002で壮大な劇のアンコールが始まった。髪を金色に染めた背番号4は舞台へと身を移す。

 「静寂の熱狂」がここにある。僕は観客だ。当事者ではない。しかし、本田圭佑の身体に意識が乗り移ったかのように、全身に震えが走る。息苦しくもなる。一生の中で、ここまでじかに衆目の期待を浴びることはないだろう。ワールドカップを懸けた決闘。命運はその左足に託された。

 沈黙は永遠のように感じられた。本田が動き出す。刹那、白のネットは揺れる。六万人が一斉に立ち上がる。膨張した空気は爆発的に弾けた。カタルシスはボールがネットに触れた瞬間を頂点に、穏やかさを帯びていく。熱狂を引き受け、渦を創出した本田圭佑。内に秘めたる、底知れないマグマのような力を感じずにはいられない。

 そして、熱に覆われながらも、この試合は確たる冷気を含んでいた。結果は出したが、理想ではない。沈黙の日本。それは、ブラジルの地で一年後に眼にすることになる悲劇の序章のようにも感じられる。楽観に支配された悲観。振り返れば、この試合は日本と僕のワールドカップへと向かう意識を決定づけたものでもあったのかもしれない。

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