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毒親育ちゆえに、わたしは幸せに執着する。
わたしの基本理念は、
「あらゆる制限とは本当は無くてもいいもの」
たぶんそれはきっと母親から、厳しく躾けられたせいだと思う。
だからその逆張りで生きている。
母の教える躾が、必ずしも世間的には正解でないこともあると大人になるにつれ気づいたし、
母親は躾、あるいはマナーやルールというものを大事にしすぎて、それから外れた人を攻撃する習性があるとも気がついた。
結局のところ、
母の躾は、「社会や他人とよりよく関わるための取り決めについて理解しておく」というスタンスではなく、
「生きるとはこういうこと」という型にはめることで『生存の確約された安全圏』を作りたいだけのことで、
そこに自分や自分の子供や他人がちゃんと当てはまっていれば安心だし、はみ出したら「常識がない!」と発狂するんだと今は思っている。
母の生き方が、嫌いだった。見ていて苦しかった。
いつも我慢して、ヒステリックで、文句ばかり言っていて、そんなに嫌ならやめればいいのに辞めない。
アドバイスは聞かないし、どれだけ手助けしても要求は高まるばかりで、母を幸せにしたくて始めた親孝行も、望む結果が得られそうもないと思ってすっかり心が折れてしまった。
母はたぶん幸せになる気がないのだ。
幸せになることを、自分に許せてないのだ。
母の生きていた幼少時代を思うと、そんなふうに自分を厳しく罰するトラウマがあってもおかしくはない。
けど、わたしは母と同じには生きないし、絶対に幸せになるんだと決めている。
幸せに生きるということは、大いなる社会貢献だ。
神様を喜ばせたかったら、日々の暮らしを豊かで満たされていて、充実しているものにすることが大事だ。
そう信じているから、わたしは「幸せにならない」生き方をする人たちを、好きになれない。
勝手にやればいいとは思う、でも関わりは持ちたくない。きらいだから。
昔の自分を見るようで、悲しくてつらくて堪らなくなるから。
みんな、幸せになろう。
土の時代はおわった、風の時代がもう始まっている。
辛かった生き方を強制されたのは、何もかも土の時代のせいにして、新しい生き方を始めよう。
時代が変わった、季節は流れた、いつまでも暗いところにいてはいけないよね。
みんなで幸せになれるから、みんなで幸せになろう。
はじめの一歩は、「わたし、幸せになるね。」って自分と約束するところから。
その約束ができない時は、「幸せになっても、いいのかも。」ってぼんやり思ってみるところから。
あるいは、「世の中には幸せというものがあるらしい、それってどんなものか、わたしも感じてみたいなあ。」って願うところから。
新しい明日を、一緒に生きよう。