「ゆるさ」と「キツさ」の狭間で
1月29日(月)
結葵(ゆうき)と申します。
「緊張と弛緩」より「緊張と緊張が緩むこと」と言うほうが分かってもらえそう。
「ゆるく」語る、とはどういうことだろうか。
「ゆるく」語る、とは、
「読者を聞き慣れぬ固有名と難解な専門用語で圧倒し、世界のすべてが理論で切れるかのように錯覚させる、ある時期の思想書の(…)抑圧的なスタイル」
の逆をとるスタイルであると言える。
すなわち、
「聞き慣れぬ固有名に頼らず、読者(や聞き手)が聞き慣れた日常のことばを使って対話し、自分の語る理論など鈍らにすぎないという態度をわきまえた、どの時代の思想書にも見られない(かもしれない)、解放的なスタイル」
いささかまとまりのない言い方になってしまった。
誰が言っていたのか、以前Twitterで、学者や研究者が言いたいことを一人でにツイートするのは、現実に会話する相手がいないからだ、と言っていた。
どういう意図でこういうことを言ったのかは不明だが、実際に、人文社会系の学者や研究者のつぶやきを見ていると、確かにそのような印象を受ける。
生真面目な語り口で、辛辣な表情を伺わせながら、威風堂々たる態度で語る。
そんなツイートは読む気にならないし、連ツイだとなおさらである。
互いに面と向かって、あのような語られ方をするとほぼ間違いなく怯む。
(ちなみに、鬱陶しいとさえ思うようになったので、健康のためフィルターにかけて全部消した。)
この「ゆるさ」の欠如、限りなく理路整然として感情を排した冷ややかな印象。
「ゆるさ」には、「ふざけている」ような感覚、張り詰めた緊張感がなく、暖かくて朗らかな空気に包まれているような感じ。
何もない平和な日常の連続として、ゆったりとした時間が流れていく感じ。
『訂正可能性の哲学』にも、「アーレント」や「ローティ」をはじめとして数多くの哲学者の名前が出てくるが、これは実際、その通りである。
事実、アーレントの『人間の条件』や、ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』に目を通してみても、古代ギリシャより近代までの哲学者ほかの名前が幾度となく繰り返される。
恥ずかしながら、アカデミズムにつま先ほんのちょっとだけしか突っ込んだことのない僕からすれば、このような論じ方以外の哲学というものを知らない。
著者は、このように言っている。
「人文学はこのようなスタイルをとる」が、「現在では否定的に評価されることが多い。」けれども、「人間はそもそもそのようにしてしか思考できない。」
*
「ゆるく」語る。そのためには、
固有名と専門用語に頼らない、謙虚で柔らかいことばを使う必要がある。
しかし、
哲学は、アーレントはこう言った……、ローティはこう言った…… という過去のアイデアの蓄積を活用し、テクストを読み替えることでしか思想を表現できない。
この矛盾を避けることができないのならば、この狭間で悪戦苦闘するしかない。
つまり、程度の問題として考える。
読者や聞き手を圧倒しない程度に、固有名や専門用語を使いながらも、説明はその固有名や専門用語をまったく耳にしたことがないひとが分かるまで噛み砕き、柔和な語り口と言葉選びかつ、謙虚な姿勢で、相手からの疑問や反論の余地を残しながら対話する。
果たして現実に、それは実践可能なのだろうか。
たしかに、世間に名前も顔も割れている著名人たちは、ゲンロンカフェをはじめとする公開場で文字通りに、「ゆるく」語ることができる。
実際、ゲンロンカフェでのイベントは、テレビとはまったく違い、連続で3〜4時間は配信し続ける。そこには、出演者どうしが、長い時間「ゆるく」語ることによって、視聴者も「ゆるく」考え続けることができるという意図がある。
しかし、そういうインターネット空間がなければ、いかなる発言権も与えられないような顔のない素人たちは、その「ゆるさ」はなかなか実践できるものではない。
肝心のインターネット空間には、もはや哲学や政治について「ゆるく」語ることのできる余地は残っておらず、互いに罵詈雑言を浴びせることでしか息ができない。
友人や、距離の近い親しいひとたちとの会話も、似て非なる空間である。
たとえ「ゆるく」語ることを実践しようとも、素人が、アーレントは……、ローティは………という話を始めただけで、聞き手は(きっと)辟易し顔をしかめる。
「ガリ勉君、意識高い系の知識マウントだ」と。
それこそ、Twitterにいる生真面目な学者・研究者を鬱陶しいと思ったように。
結局、固有名すら一切出さないで、もっと言えば、「用語」というものを一切使わないで、世間話と同じモチベーションで語るほかないのかもしれない。
杞憂なら、ひたすら嬉しい。哲学を「ゆるく」語る環境をつくりたい。
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