星名雪子
日常、夫婦生活、家事のことなど日常生活に関するエッセイの詰め合わせです。
小説を書く上で思っていることなどを綴ったエッセイの詰め合わせです。
別サイトへ過去に投稿したエッセイ集。音楽や映画の感想文詰め合わせです!
アマチュアシナリオライター兼 作家見習いをしている主婦です。 一歩も外に出ずに、PCと文章力(アイデアと表現力含む)だけで生計を立てる方法を私自身の備忘録も兼ねてまとめました。 ※私個人の見解を含みますのでご了承ください。 (随時更新予定)
現在、北京オリンピックが開幕中。私の大好きなモーグルとアルペンスキー競技を見て思い出した当時の色々な話を綴ってみました。 1、育ったのは北海道の田舎町 2、スキーの色々な話 3、スキー場にあった不思議なコースの話 4、苦手だったクロスカントリーの話 5、ペンションに来た居候たちの話 6、大人になった今、思うこと 6本立てです。
【私が日本人アーティストで初めてファンになったPUFFY】私は当時、小学6年生~中学1年生だった。ファンだと認識したのがいつの曲頃なのかは覚えていない。しかし、自分の部屋に彼女達のポスターを貼っていたことは今でも覚えている。 そんな私が当時繰り返し聞いていたのが3rd「JET CD」でこれはロック色の強いアルバムだ。手持ちの曲がなくなってしまった奥田民生が自分の人脈を辿って色々なミュージシャンに声を掛け、曲提供を呼び掛けたことで多彩な曲が集まったのだという。 PUFFYと
最近、90年代のJ POPを聞いている。当時は数々のミリオンヒットが生まれたJ POP全盛期だった。当時私は小学生だったのだが、ちょうどJ POPの良さに目覚めた頃。我が家は当時、北海道でペンションを営んでいたのだが、有線でJ POPチャンネルをカセットに録音して楽しんでいた思い出がある。 好きなアーティストは色々いたが、たぶん一番最初に「私はこの人のファンだ」というのを自覚した日本人アーティストはPUFFYだったと思う。(因みに海外勢ではビートルズ)しかし、それよりも前に
他にも当時の思い出は色々ある。しかし、全てここに書くにはもっと時間が必要だ。それと、中にはここには明かせない恥ずかしい話もある・笑 その為、エピソードを厳選した。 高校を卒業と同時に関東に出て来てから、スキーには全く行っていない。毎年、冬が来る度に行きたいなと強く思うがなかなか実現できない。旦那を誘うこともあるが「寒いから嫌だ」と一蹴されてしまう。信州のスキー場へのバスも出ているが、一人で行く勇気はない。しかし私はいつか必ずスキーに行きたいと思っている。たった一度だけでも
当時、家族で営んでいたペンションは経営は厳しかったものの、スキーが盛んな冬になると観光客が全国から押し寄せた。そのため、人手が足りずアルバイトを募っていた。アルバイトというよりも「居候」だった。それはペンションで働く合間にスキーができることが大きな魅力だった。その魅力に惹かれて各地から男女問わず色々な人が居候に訪れた。 皆、当時、子供だった私と妹を可愛がってくれてとても良い人達だった。しかし、中にはペンションを訪れた途端、外見がチャラいと父に怒られる人もいた。頑固で職人気質
私は基本的にアルペンスキーを滑っていたが、学校ではその他にクロスカントリー、通称「クロカン」の授業もあった。 私はこのクロカンが大の苦手だった。同じスキーでもアルペンスキーとは用途や滑り方が全く異なる。オリンピックで競技を見たことがある人は分かると思うが、クロカンは「滑る」のではなく「歩く」と言った方が近い。その為、スキー板はとても細く、踵部分は固定しないし、靴は防水性の運動靴みたいな感じで安定感が非常に悪い。アルペンスキーではなくクロカンから先に始めた方が要領を掴みやすい
スキー場には様々なコースがあった。その中で私が好きだったのが「ファミリーコース」だ。何故この名前なのかは分からない。が、恐らくどんなレベルの人間でも一緒に滑ることができるからではないかと思う。しかし、とても簡単なコースという訳ではない。スキー場の端っこの林道を切り開いて作られた非常にひっそりとしたコースで、夜は薄暗くて少し怖かった。他のコースの殆どが真っ直ぐな斜面であることに対し、ここはアップダウンやカーブが多く、基本的に道が曲がりくねっている特殊なコースだった。 片側は崖
当時、学校でのスキー授業はもちろん、所属していたスポーツ少年団や友人との遊びに私はよくスキーをした。スポーツの中で一番思い入れがある競技は?と聞かれたら、間違いなく「スキー」と答えるだろう。それぐらい私にとってスキーは特別なスポーツなのだ。 ペンションの経営はとても苦しく、その影響で好きなものはあまり買ってもらえなかった。しかし、両親はスキー関係のものはよく新調したり、揃えてくれたし、友人とスキーに行くと言うとリフト代(回数券)もきちんと用意してくれた。スキー場では1シーズ
現在、北京オリンピックが開幕中だ。 私は夏大会よりも冬大会派である。何故なら雪国で育ち、スキーをやっていたからだ。そのため、冬大会の中でもスキー競技……特にモーグルとアルペンスキーがお気に入りである。 私は北海道の小さな田舎町で育った。町にはふたつのスキー場があって片方は家からも近かった。ふたつの内、ひとつのスキー場は街中にあり、大小の真っ赤なジャンプ台があった。もうひとつのスキー場は街中から少し離れた山奥にあった。「パウダースノー」と呼ばれる良質な雪が降ることが世界的に
もうすぐ50歳になる旦那は昔、お笑い芸人を目指していた。 その話を初めて聞いた時はとても驚いたが、普段の旦那の姿を見ていると「ああ、確かに芸人とか目指してそうだな」と、妙に納得してしまうのである。何故かというと、彼は普段から常におしゃべり、しかも会話の半分が冗談もしくはボケなのだ。しかも天然ではなく、狙っている「ボケ」である。 そんな私はというと、人から「天然ボケ」とよく言われる。自分ではあまり分からないのだが、よくツッコミを受けるのできっとそうなのだろう。だから、お笑い
※こちらでは公開が遅くなりましたが、節分の翌日に他サイトに投稿したエッセイです。 2/3は節分。 今では、対象の方角に体を向けて恵方巻きを食べることが当たり前のようになっている。が、私は一度もやったことがない。恵方巻きを買って来て食べることはあったが、切って食べていた。もはやただの太巻きである。 広島県出身の旦那曰く「恵方巻きを食べる風習は西日本では昔から盛んだった」とのこと。私は神奈川県出身なので馴染みがないのは当たり前かもしれない。 そんな旦那が仕事帰りにスーパー
「この家族はなんで団地に引っ越しして来たんだ?一軒家を売ったのか?」 これは、あるドラマを見ていた旦那が何気なく言ったひとことだ。 そのドラマはお節介な主人公が団地の住人に迷惑がられながらも信頼関係を結んでいく物語だ。旦那の疑問はこのメインテーマには全く関係がない。なので、私は思い付きもしなかった。旦那は他にも 「小学生の子供がいる若い家族がどういう理由で団地に越してきたのか」 「この団地は分譲なのか?賃貸なのか?」 など、物語には関係のない疑問を次々に挙げていた。ド
日曜日の朝。私はよく旦那とモーニングに行く。近所にそれらしい喫茶店があればいいのだが、特にオシャレな店はない。なので、行くとしても大抵は牛丼屋で朝の定食メニュー、もしくはファミレスで洋食メニューを食べるのである。 その後どこかに出掛ける用事がある時は牛丼屋で手っ取り早く済ます。が、特に用事がない時はファミレスに行き、ドリンクバーでコーヒーや紅茶、ココアなどをゆっくり堪能するのが好きなのだ。我が家は和食派なので、基本的に家では食パンを食べることがない。なので、こうしてたまにフ
夫の精神年齢。それは間違いなく10歳以下であると私は思う。 夫は私よりも10歳以上年上だ。これまで波乱万丈な人生を歩んで来た夫。当然ながら人生経験は彼の方が上である。しかし、豊富な人生経験を積んでいるわりに彼の言動は子供じみているのだ。 スイーツやお菓子が大好きで、チョコレートやスナック菓子は常に手元にストックしている。関東では販売終了となってしまったカールを西日本への旅行中に見つけた彼は、なんとそれを一箱分購入した。私はその時、一緒に行くことができず留守番していたのだが
「あるよ」 「暇か?」 「〇〇と〇〇、どっち?」 この台詞にピンと来た人は恐らく相当なドラマ好きだろう。 「あるよ」はキムタク演じる検事が大活躍するHERO 「暇か?」は刑事ドラマシリーズで人気の高い相棒 「〇〇と〇〇、どっち?」は現在放送中のミステリードラマ、真犯人フラグ この3本のドラマに出てくる名脇役達のお馴染み台詞である。 ドラマに限らず映画、小説、漫画やアニメ、ゲームには必ず脇役が登場する。彼らの存在は決して目立たない。時には主人公の影に隠れてしまうこと
【大の料理嫌い】 私の父は元料理人である。しかし、その娘である私は驚くほど不器用で料理がとても苦手だ。今でこそ主婦として、ある程度の料理は作ることができるようになったが、実家にいたほんの3年程前までは全くといっていい程、料理ができなかった。 いや、できなかった、というだけではなくやろうとすらしなかったのだ。どんなに母がキッチンで忙しそうに動き回っていても、手伝いをしようと思ったことは殆どなかった。(食後の片付けぐらいはしていた)何故かというと、それはやはり私の中で料理に対し
去年の秋。急性肝炎で救急車で運ばれ、そのまま約10日間、入院をした。私自身、幼い頃から体がとても弱く、体調を崩しがちだった。しかし、入院は小学校低学年の時に一度しただけだった。だから、今回の入院騒ぎはその時以来。当時の記憶は殆どないのでほぼ初めてに等しい体験であった。 このご時世ということもあり、病院の対策はとても厳しいものだった。事前に別病院で検査を受け、陰性だったのだが、入院先の病院で行う検査で陰性反応が出ないと自由に入院生活を送ることができないという事で結果を待つ間、