4,苦手だったクロスカントリーの話。

私は基本的にアルペンスキーを滑っていたが、学校ではその他にクロスカントリー、通称「クロカン」の授業もあった。

私はこのクロカンが大の苦手だった。同じスキーでもアルペンスキーとは用途や滑り方が全く異なる。オリンピックで競技を見たことがある人は分かると思うが、クロカンは「滑る」のではなく「歩く」と言った方が近い。その為、スキー板はとても細く、踵部分は固定しないし、靴は防水性の運動靴みたいな感じで安定感が非常に悪い。アルペンスキーではなくクロカンから先に始めた方が要領を掴みやすいかもしれない。アルペンスキーに慣れてしまうと、あまりの違いに困惑するからだ。

クロカン授業は学校の裏にある巨大なコースをぐるぐると回るだけだった。そこは校庭とはまた違う。だだっ広い雪原に円形のコースをこしらえただけの天然練習場だ。苦手意識が強かったためか、今その練習場の風景で私が覚えているのは悪天候の時の風景だ。吹雪で何も見えない中をひたすらぐるぐると回らされ、何が楽しいのかさっぱり分からなかった。

それでも、ぐるぐる回っている内に段々と上達していく。そうすると、今度はクロカン遠足に連れて行かれるのだ。この遠足に関して、私のテンションは半々だった。母が作ってくれたお弁当を持って大自然の中に飛び込んでいく楽しさと、苦手なクロカンを履いて歩かなければならないという不安。

コースというコースはない。学校の裏を出発し、雪深い林道の中をひたすらクロカンで歩いていくのだ。夏でいうと人も通らない獣道をひたすら進んでいる。そんな感じだ。先生が数人、クロカンに慣れた中学年と高学年が確か対象だったように思う。(もしかしたら低学年もいたかもしれないが忘れた)それから、学校の近くに住んでいる一人のおじさんが毎回同行してくれた。彼は正式な用務員ではなかったが、昔から学校の近くに住んでおり先生や生徒達から慕われる、とても優しくて愛想の良いおじさんだ。このおじさんとのエピソードも色々あるのだが、それは今回は割愛する。

先生と生徒はクロカンを履いていたが、おじさんが履いているのはクロカンではなかった。スノーシューと呼ばれるものだ。靴の周りに器具が装着されており、雪山を歩く時に使われる靴である。履いたことはないがクロカンよりも歩きやすそうなその靴に、私は憧れた。恐らく、おじさん用のクロカンが学校にないために自分で持参した靴だったと思うのだが、そんなことは知らない当時の私は「おじさんばかり楽してずるい」などと思っていたのだった。

整備されていない雪道をひたすら進むので、とても大変だった。中でも突然現れる急斜面は恐怖だった。冒頭にも書いたようにクロカンはアルペンスキーと違って板がとても細く、踵が固定されていない。安定感がない。だから、急斜面をスピーディーに降りていくことに向いていないのだ。コントロールの上手い子はアルペンスキーの滑降スタイルで急斜面を滑り降りていくが、私は途中でバランスを崩して派手に転んだ。怪我をすることはなかったが、全身を強打するのでとても痛いし、雪まみれになる。それがとても嫌で仕方なかったのだ。

しかし、私には楽しみがあった。母が作るお弁当だ。いつもリクエストを聞いてくれたので、フレンチトーストを入れてもらうことがマイブームだった。当然、食べる時には冷え切っているのだが、苦労して辿り着いた目的地で温かいお茶と共に、それを食べるととても美味しく感じられたものだ。

学校からかなり離れた山奥に「半月湖」と呼ばれる湖があった。名前の通り半月の形をしている。クロカン遠足の目的地はこの「半月湖」だった。正直なところその記憶は定かではない。見た風景も全く覚えていない。しかし「クロカン」と聞くと必ず「半月湖」という名前を今でも思い出すのだ。と、いうことはその湖は少なからずクロカン遠足と深い関係性があったように思うのだ。

アルペンスキーと違って、小学校を卒業すると同時にクロカンをやることはなくなった。当時は心底ほっとしたのだが、今思えばあの経験もまた貴重だったのだ。だだっ広い雪原をぐるぐると回るだけの練習も、急斜面を滑り降りて派手に転んで嫌な思いをしたことも、冷たいフレンチトーストと温かいお茶も……全て、今では私の心の中に良い思い出として刻まれている。

5に続く。

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