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つくりたいものがあって、技法が選択されるのが自然

私は、いわゆる伝統系の染色技法を用いて仕事をしておりますし、工芸における技術は誠実で高度であるべきだと思っていますが、しかし自分が使う技術を「これがホンモノの伝統技術」などという考えは全くありません。

しかし、一般的には、例えば友禅染だったら「これが真糊で染料挿しのホンモノの糸目友禅」などと主張し、まるで真糊友禅であることで、作られた染物の美的価値まで約束されているかのような態度なのが、いわゆる伝統染色の世界です。

(真糊=餅米で作った糊で糸目糊を置いて描いた文様染。本格的な友禅染とされる)

一方、博物館で名品とされているものたちは、そういう決まりごとや価値観とは無縁です。

「こういう文様染が欲しい」それが始まりで、それを当時の技術でどうにかこうにか形にしただけなのです。

だから「技術的に〇〇だからホンモノ」なんて感覚がそもそも無いのです。

例えば、糸目友禅で言えば、昔は全て天然素材で染めていましたから、現代のように簡単に染まりません。だから、まずは絞り染で色を染め分け、絞りの跡のシワを完全に伸ばし、それから糸目糊で文様の輪郭線を区切り、顔料で彩色して、絞り染で染め際がガタガタしているのを消すために刺繍を入れたりして「どうにかこうにかして作っていた」わけです。

例えば、疋田絞りを使った染め物で、大部分は絞り染による本疋田で染まっているけども、部分的に木の葉の形に疋田が欲しい、となった時には、そこは、本疋田ではなく「描き疋田」「擦り疋田」で顔料を塗ったり擦り込んだりするのです。

そういうものは現代視点で言えば「B反」、ごまかし、と叩かれてしまいます。

しかし、そんなことは全然関係なく、その着物は豪放でエレガントで、かつ繊細で美しく、現代人には到底制作出来ない品性を持っているのです。

どうしても欲しいものがあって、それを得るために技術を開発し、洗練させる。

だから、自由で、奔放で勢いがあります。

成果物である布も、それを実現するための技術も、どちらも美しいのです。表現と技術に乖離がない、必然性があり、それは摂理であり、全体で一つであり、自由なわけです。

そういうものが良いものだと私は思っているのです。

私が使う文様染の技術は、糸目友禅とロウを使った技法が殆どなのですが、しかし「糸目友禅作家」でもなければ「ローケツ染」作家でもありません。

(私はロウを併用することが多いため、糸目糊は真糊ではなくゴム糊を使います)

単に、自分が欲しいものを誠実な技術で作ろうとしているだけ、です。

私は、むしろ

「糸目糊を”糸目友禅”という固定概念から開放する」

「ロウによる染色を”ローケツ染”という概念から開放する」

「和装を”呉服調の美意識”から開放する」

ことを意識しています。

それは、新しいことをやる、という意味ではなくむしろ「昔の良いものの波長に戻るため」なのです。

しかし、それが結局、傍から見ると新しくみえるようです。

むやみに昔は良かった、というつもりはありませんが、しかし日本の工芸においては、江戸時代、そして江戸時代以前のものに私は惹かれます。


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