手作りという魔法は無い
私は、現代において「手で作る必然のあるもの」によって「いわゆる手工芸品」では到達出来ない創作性を「現出」させ、美をたたえているものを作りたいと思っています。
昔から、最上品はそうでした。
それは手作りだから良いとかそういうことは関係なく、良いのです。
昔の工芸品の素晴らしいものを、天然素材だから、手作りだから、苦労して作ったから、技術が素晴らしいからとか、そういう面で感動する人はいないと思います。
それは理由なく人々の心を打つものだから、飽きられることもなく長年ずっと愛され、素晴らしいわけです。
工業製品であろうと、時代に要請され、養成され、そこに叡智が注がれ、形になったものは美しいです。それは人々の心を打ちます。「美」にはカテゴリは存在しません。どんな場にも現出するのが美です。
だから現代において、本質的には手作りである必然のない
「いかにも手工芸品らしい」もの=その必然が無いのに手作りのもの
と、
「その周辺を物語化して【売り】にするもの」
は、
それがいかに精緻なものであっても、それはただ手作りであるという価値しかなく、実はそれは本質的にはたいした価値はないわけです。
美しいもの→天然素材で手作りだった
は、ありますが
天然素材をつかった手作り=だから美しい
は、成り立ちません。
が、それを強弁する人は多いです。
それは「手作りであるということに依存している」=「手作りによってしか出来ないことの実現の放棄」になるわけです。私はそういうものに興味がありません。
作りたいものが手で作るより他無かった、というものや、現状では手で作るのが最も良い結果になるということなら、それは手づくりへの依存ではありません。それは必然です。
実は思考停止して、ただ漫然と手を動かしているだけ、そして思考的手癖で作っている(いつも同じようなものを漫然と手を動かして作っているだけ・何かしらの権威が設定した固定した価値観に合致するように意識して作っているだけ)に過ぎないものなのに、それを職人のこだわりや伝統と称して物語にし、商売する、そういう成果物には独特の濁りと腐臭があります。
単なる創作的停滞を、伝統と称し、権威化して、価値とする。
そこには「必然=生きていること」がありません。
そのようなものは「創作的な良いものを作ろう」という意識よりも「天然素材で手作りであること」に意識とエネルギーが使われて、そこに心理的安心を得ているのですから、創作的であるわけが無いのは当たり前の話なのです。
それはまるでゾンビをつくっているようなものです。
それは腐った食べ物と似ています。
腐ってしまった食べ物は「元は食べ物だった」ものであって、それはもう食べ物ではありません。
それを食べると病気になったり死んだりします。
必然のない天然素材賛美や、手作り賛美には、そういうところがあります。
私は、現代の作り手として、そういうものを作ったり広めたりしないようにしたいと思っております。
【手作りという魔法は無い】
【天然無添加という魔法は無い】
のです。