現代には神も仏もいないので
現代には「風神」も「雷神」も「龍」も「仏」もいないので、私は基本的には自分では描きません。
文様染の仕事の依頼で、描かなければならない時がありますが、その時には「染め物の文様として最善」は尽くしますが。。。
昔の名品で今も残っている、神や竜や仏が描かれた時代には、神や仏が人々の精神に存在していたんですね。
【実物は存在しないとしても共通の感覚、認識として機能していた】わけですね。
だから、過去の風神雷神、竜、仏像などはとても生き生きしていて威厳があって、時に幼児のように素直で、素晴らしい。
しかし、現代人の精神にはそれが存在していないので、いくら過去の模倣をしても、気合を入れて制作しても、その水準には絶対に近づくことはないのです。
今は、神も仏もいないので。
なので、もし、そのようなものを現代描かなければならないのであったら「現代の神や仏」を、現代の形式で、描かなければならないわけです。
私自身は、現代「いわゆる神や仏と言われている形式で描く」ことに必然を感じないので描きません。また、その形式では描けません。
私は、具体的な神や仏を描きませんが(というより描けない)作品の背景に「霊性・仏性・神の息吹」のようなものが表れれば良いなあ。。。とは思っています。
ようするに、過去の素晴らしいものが生まれた時代には、その素晴らしいものの元になる何かが確かにあって、それを描いたから良いものが生まれた。また、その時代に「素材としてあるもの」を素直に使ったから、神や仏が説得力を持って制作物に顕現したのだと私は考えています。
現代でもその構造は全く同じだと思います。
現代、物体としてあるものでも、精神の中にあるものでも「確かに存在するものを描くしかない」「手元にあるものを使うしかない」。。。人間にはそれ以外に出来ない。
人間は神ではないので「無から有をつくることは出来ない」からです。
(精神のなかにあるものも、公共的なもので機能しているものは存在です)
個人的には現代の創作品において
「仏つくって魂入れず」
というのは精神論ではなくて、構造的に当たり前なことだと思っています。
昔と同じ形式に現代、無自覚に倣っても、昔と同じ仏性は入らない。
もちろん「あるものを使うしかない」というのは、限定を意味するのではなく、それをジャンプ台にした発展は無限であり「今あるものをキチンと観察し把握し発展させる」という意味です。
むしろ、悪い意味での昔の模倣は、創作を萎縮させてしまうと考えています。
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