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自信がない理由

自分に自信がない。
それは今うつだからとかではなく、もとから自信がない。
自信があったことが、人生のどの段階でもほとんどなかった。

自信があったことというのは、多分学生時代に模試でランキングに載ったとか、少し難易度の高い曲を発表会で仕上げたとか、そういう"頑張ったことで成果をあげることができ人から認められたこと"だ。
逆に言ってしまえば"人から認められた"結果がないと、私は自信を持つことができない。

簡単に、圧倒される。
この人はこんなにもこれができるのに私はなぜこんなに駄目なんだろう、あの人はこれを卒なくこなすのに私はなぜこんなにてこずっといるのだろう。
みんなの普通に、どうして私はなれないのだろう。

ここで出てくる"みんな"は私の周りを作っている人たちで、それは同僚や恋人、大学時代の友達を指す。
この人達のレベルに達することができないなら、劣っている。
それはもっと大きな枠組みから見たらそうではないのかもしれないけれど、私はその世界で生きているのだから思考だけそこから出してみたところで意味がないと感じてしまう。

"普通"は"みんな"が私から見て卒なくできていることで、例えばその場で考えて話すとか、一発で理解しきるとか、常識的な振る舞いを当たり前のように備えているとか、考えて動けるとか、泣かずに毎日を過ごせるとか、だ。
それは"みんな"のうちの全員ができているわけでは多分ないのだけれど、ぱっと見できているように見えること、だった。

じゃあ私は、何だったらできると自信をもっていえるだろうか。
これは、何もないが答えだ。
誰かに評価してもらっても、その場は嬉しくても後から他の人から見たらそれは全然だろうから意味がないと受け取ってしまう。
人から評価されないと自信が持てない上、評価されて言葉に出してもらってもなお、その程度で自信を持ってはいけない、上には上がいると自分を戒める方向に走ってしまう。
何をやるにしても上には上がいるのだから、そんなことを言っていたって余計自分を苦しめるだけなのに。

比較的、できるかもしれないことを考える。
でもそれは、1年前の私はできていたことでも半年前の私はできていないことばかりだ。
1年前の私ができていたことは、例えば周りをみてできることを探して動くとか、周囲の忙しさに気を配って担当外の業務も引き取るとか。
でもこれは明らかに慣れから出てきた余裕による産物で、私がどうこうというわけではない。
やっぱり私は、何もできないのかもしれない。

何もできない自分に諦めて努力できていないから私は駄目だというのがきっと正しい理論で、駄目だから駄目じゃなくなるために頑張るというのが求められる最低限の条件だ。
じゃあ何ができるようになったら駄目じゃなくなれるだろうか。
それはきっと、とにかく慣れるしかない。
何ができないのか、それができるようになるためにはどうしたらいいのか、考えて実行してできるようにして、そうする以外は全て気休めにしかならない。

今何ができない・これもあれもできないと思うのではなく、何が足りないからそれを補うためにどうするか、こう思考を変えていかないと私は、永遠に自信がもてないループから抜け出せない。
できない自分を諦めずに向き合うことは苦しいけれど、そうでもしないとこの問題は、最早どうにもならないのだろう。

じゃあまず何を、できるようにするための準備を始めようか。

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