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どこの部分で苦しむか

苦しみが足りてないと言われた時、ものすごく違和感があった。
こんなに苦しんできたのになんでそんなこと言われてしまうんだろう、何度も死ぬことを考えてきたくらいなのに、それでも苦しみ足りないとはどういうことなんだろうと苛立っていた。
だけど、苦しみが足りないって、相手が言いたいのはそういうことじゃないのだと思えてきた。

生きることは、きっと苦しい。
それは誰でも程度の差はあれ苦しい。
ただ、苦しい現状を苦しいなぁと思いながら耐え続けるか、その先をより良い未来にする可能性にかけて少し違う方向で苦しむようにするか、その違いが、苦しみ足りていないと相手に映ってしまった要因なのだろう。

クラスに上手く馴染めなかった時、私はバランスがとれていないからこうなってしまうのは仕方がないことなのだと自分に言い聞かせて納得させていた。
そうすることで、私にとってとても苦しい"自分から人に話しかけること"から逃げていた。
でもそれで、クラスに馴染めないまま時間を過ごすという苦しみ方をしている。
結局苦しみから逃げた結果苦しんでいる。

それを、馴染めないことは苦しいから、今は苦しいけれど頑張って自分から人に話しかけようという働きかけをしたとする。
そうすると今度は、そう頑張ったことで上手くいかないという苦しい結論になったり、そもそも自分から人に話しかけるということが思うようにできなかったり、といった苦しみがある。
苦手なことに取り組まなければならず、その結果良くなるかどうかもわからない。
だけどこっちの選択肢は、その結果が良くなる可能性を孕んでいる。

結局、苦しい。
だけど、どこの部分で苦しむかによって、また見え方が変わってくるのだと思う。
苦しい現状を苦しみ続けるか、苦しい現状を打破できる可能性にかけて動くか。
私は後者が圧倒的に足りていないけれど、人生がより良くなるのは明らかに後者の選択肢の方に思える。

みんな苦しい中頑張っているけれど、より良い人生の結末に向かうために選びたいのはどちらか、考える時間をつくってみてもいいのかもしれない。
目の前の行動を変える方が一時的な苦しみは大きいけれど、人生は自分次第というのはきっとこういうことなのだ。

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