Q、ブッダの真の悟り、解脱の体現が起きた後、自己は消滅したままになるの!?
Q、
ブッダの真の悟り、解脱の体現が起きた後、
自己は消滅したままになるの!?
A、
縁に触れて自分と自分以外の認識が戻ってきて、
様々な思い、考えがハッキリしたあとも
宇宙の発露として浮かびますが、
たとえ出ているものがどんなに悪いものだとしても、
何ひとつ自分の意思でネガティヴなものを
発生させているのではない事をハッキリと自覚し、
それが自分ではないし、
その思いが自分のものでもない事もハッキリして、
自分を中心に立て、
思いの中に深く入り込めなくなり、
思い患い悩めなくなってしまうので、
生活上で人間的にどんな深刻な状況下だろうと、
自分について考えて、
自分の事や過ぎた出来事を問題視して、
想いの中をグルグルと輪廻するものが消滅し切って
落ちたままになり、
元の綺麗な1枚に戻るので、
生老病死の無数の問題を
良い、悪い
好き、嫌いと
考え方で取り上げて、
問題だとして扱い、
どうにかしようと奮闘して
改善しようとする事はなくなります
何事もこの身に起きている事も都合通り、
理想通りに一切コントロール出来ない事がハッキリし、
この身を自分だと認識し、
身体を思い通りにとコントロールしようと奮闘していた
もともと実体のない
幼少期からの自己が消滅したままになるので、
思い通りにしようと奮闘する事はなくなります。
それまでの身体側に自分がいて、
身体側から見たり聞いたりしていた
錯覚が造り出していたクオリア的体感覚が消失し、
もともとの六根の自然な働きのままになります。
縁に触れて認識が戻り、
その後、
「どう一生懸命考えてみても、
自分があるとは思えないのです。」
このこともハッキリすると、
悟りを開き、解脱の体現に与ると、
絶対に悟る前には戻らない点の一つです。
だからといって、
心身の不調や病気、
何かしらの現実的な問題を
そのまま何も一切対処しなくなるのかと言えば、
そうではありません。
何かしらの
対処する事は宇宙の発露として
自然に身体と呼ばれているものが
赤ん坊のように
動いていく事が無為に起きてきます。
幼少期から損得計算して
考えで自分や相手、
状況を思う通り、
理想通り、
都合の良いように
コントロールしていると思い込んできた、
実体のない架空の考えそのものの
自己が対処しようとするのではなく、
縁に従い、
無為自然と対処する行為が自然と起きてきます。
人間の社会生活は、
言葉と考えで構築されている概念世界であり、
それがある種の頭の中で膨らました
完全な妄想の世界である自覚が生まれ、
人間の概念世界と、
一切観念フィルターのない、
あるがままの禅の今の事実の様子のキワが
ハッキリとし、
その事を自覚したまま過ごす事になります。
完全に決着してハッキリすると
元に戻る事はないのですが、
決着していないと、
「自分が存在していて、
この心身が自分で、自分が生きている」
と言う思い込み、
自分と自分以外の対象が
「ある!」
と錯覚している
概念世界の人間的在り様、
「人間の見」
に引き戻されて、
「無明」の
実体のない思い込みの世界観、
観念そのものの
実体なき自己が中心に立ってきてしまい、
想念が膨らみ、
想念が身体を引きずって、
自然な法性としての在り様からの宇宙の動きと
混ざった動きで身体が働くことになってしまいます。
もともと考え方で作り出した
すでに物理的に存在していない
架空の自己なのですから、
概念世界は全て、
後付けの後追いの記憶の認識、解釈、
出来事が流れ去ったあとから、
後追いで言葉にして説明している
頭の中の実体のない架空の世界観に入り込んで
迷って苦悩しているのであって、
出来事が流れ済んでから、
わざわざ言葉で意味をつけて説明したがり、
出来事が済んだあとから、
感想を口にするものこそが、
仏道における
消滅すべき自己の働きそのものなのです。
そもそも物理的に今も実在していない、
自分が考えや身体を働かせて
自己実現や願望実現を
果たしているのではないのです。
想念が膨らんで、
想念が身体を引きずり、
工事現場に怒鳴り込みに行ったりしてしまっている
無明の動き、
すでに自他の対象のない宇宙の一部の発露として、
身体の中に固定的な自分はすでにいなく、
膨らんだ想念が身体を引きずった人間的在り様と、
すでに自他の対象のない宇宙の法としての
法性如来としての無為自然な身体の動きの働きと、
悟り、解脱の体現に与っていない
ほとんどの80億人の人間は、
二つの行為作用が混ざって、
身体と呼ばれているものが
生活の中で動いて働いているのです。
この場合、
想念が膨らんで、
想念が身体を引きずって、
戦争に赴き、
目の前の相手は相手ではなく、
変化する
常に新しく生じている
「今」の
見えているもの
聞こえているものの
事実自体の様子に成り切ってしまっていて、
その見えちゃっている、
聞こえちゃっているものの方こそが
「本当の自分」
なのですが、
戦争で対象のある相手だとして認め見立てて、
「本当の自分そのもの」
を殺戮してしまう、
人間の見、
人間的在り様は、
完全に悟りを開くと綺麗な元の1枚に戻りきり、
自他の対象のない「如来の見」が通常運転になるので、
自他の対象のない
「純粋な宇宙の発露」
として、
身体の行為が
無為自然に働いて
動いて生活するようになります。
「動画に夢中になっている時、自分いますか!?」
自分なんて感じていないし、
自分が観ているだなんて思ってもいませんよね。
認識が完全に一度停止し
悟りを開いて解脱の体現に与っていなくとも、
自分が存在している
と言う思い込みがありながらも、
すでに
開いてはいませんが、
無我無心で悟っていて、
自分は物理的に存在していないのです。