こういうことだったのか に気づきはじめる秋
第29週 10月20日〜10月26日の記憶。 それを探る試みです。
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。
今週は、さまざまなギフトとも呼ばれるような体験を活かしてゆくために、自らの思考による解釈力が求められているようです。起きている出来事に対して、よりフラットに観察し、洞察し、熟成させ、信念に展開してゆくヒントが隠されていると感じました。
では、読み解いてまいりましょう。
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思考が輝きを放ち
心の奥で照らし出され
体験が意味づけされてゆく
大いなる者の諸力は
夏に賜り
秋には寂然とし、冬に宿望となる。
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こういうことだったのか
万物の天才と称されるレオナルド・ダ・ヴィンチ。
アートやサイエンスにとどまらず、多方面で才能を発揮し、天文学や物理学などのさまざまな分野で才能を発揮しました。
『モナ・リザ』や『最後の晩餐』などの名作を残し、盛期ルネッサンスの写実主義と古典主義の中心的人物ですが、残された解剖の記録やさまざまなアイデアのメモなど、超越的でミステリアスな印象があります。
ダ・ヴィンチの特筆すべきところは、“観察魔”というところではないでしょうか?。歴史上まれにみるマルチプレイヤーとして、さまざまな分野における緻密な観察記録が数多く残されていますね。単なる天才ではなく、観察への途方もない努力と執着からもたらされたのだと思うのです。
わたしも若い頃にデッサンを学んでいるとき、ダ・ヴィンチの描き方を模写してみると勉強になると聴き、ホンモノを観なければと美術館に足を運んだことがあります。『手』を写実したものなど、いっけん、さらっと簡単に描かれているように観えるのですが、線や陰影のつけ方などに、まったく隙がなく的確に五感を使って描かれたことが、うかがい知れるのです。
描くときには観ることが基本になります。必要な情報を観極め、的確に捉え、物事を理解することです。 対象をただ写し描くことが写実ではなく、五感を通して知覚し、自分なりに解釈した世界が描かれることに価値があるのですね。
絵は、思い込みや観たつもり、知っているつもりでは描けません。 物事は“見る”のではなく“観る”ことが重要で、 対象をいかに読みとき、理解して自分なりの解釈によって表現することが大切になるのです。
ダ・ヴィンチの解剖図などを観ると、解剖図が生理学的な精密さを超えて、人間の本質を理解しようとしていた表れであるのです。ただの学術的な研究にとどまらず、人間存在への深い洞察の中から、
ダ・ヴィンチ自身の
「あっ、こういうことだったのか!」
という発見の歓喜が伝わってくるように感じるのです。
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解釈力
観察力は、視覚的なものを越えたところにまでおよびます。対象に集中して繊細に観察することは、“見えないものを観るチカラ”、つまり解釈力も高まると思うのです。
オカルトとかスピリチュアルめいた話ではなく、“眼で見えないものを皮膚で観る”とでも表現すればよいでしょうか。五感を通して第六感を刺激するとでもいえばよいでしょうか。カラダに入ってくるものを冷静にキャッチして、心で観てみるのです。
思考が輝きを放ち
心の奥で照らし出され
体験が意味づけされてゆく
あなたの体験が意味づけされていく過程において、
この解釈力がとても大切になってくるのです。
大いなる者からのメッセージとして、何かの課題を積極的に解決しようと思考をめぐらしているとき。ふと何気ないひらめきや直観や新しい発見がもたらされる瞬間がありますよね。
それは、偶然ではなく、あなたが意識して能動的に考えていることや、受動的に無意識にでも取り込まれているものによってもたらされている。と考えられませんか。
たとえば、パズルのピースを一つずつ拾い集めていくようなものです。最初はバラバラのピースがただのパーツでしかなくても、考えを巡らせているうちに、ある瞬間、そのピース同士が自然とつながり、全体像が見えてくる瞬間がありますよね。
そのひらめきや発見は、偶然に見えるかもしれませんが、実はあなたが意識して探し続けていたからこそ、ピースのはまる瞬間が訪れたのです。また、無意識のうちに周囲から得られるものも、すべてが必要不可欠であり、その瞬間を支えているのです。
ですから、暮らしの中においても、これは与えられているものかもしれないという観察力と感謝を忘れてはいけないのです。そして、その意味を自分の思考によって解釈して、ピースを埋めてゆくような感覚が大切なのです。
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ダ・ヴィンチは、イノベーションの先駆者、リベラルアーツの知識人のようにあつかわれ、アート×サイエンスのお手本のようにいわれています。しかし、まず創造の解像度を高めるためには、愛のある物事の捉え方と観察の体験がカギになるという実践者としての認識も広まってほしいなと思うのです。
また、人体の機能は宇宙の動きと関連していると信じていたそうで、『ウィトルウィウス的人体図』に描かれている、人体の外側に描かれている正方形は物質的な存在を象徴し、真円は精神的な存在を象徴している。という見解もあるそうです。(シュタイナーとの関連性もありそうですね…)
ドローイングを描き続けることで、観る眼と感覚がひたすら研ぎ澄まされ、千里眼のような解釈力によって完成度の高い緻密な絵画や先見性に満ちた未来的な創造へとつながっていったのでしょう。
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時間の同時性
次に、時間軸のお話のヒントです。
大いなる者の諸力は
夏に賜り
秋には寂然とし、冬に宿望となる。
この部分。少し、難しい解釈が必要になってくるなと感じました。
過去の体験をいかすのは、現在と未来を含み同時に、諸元の源として存在しているかもしれないという仮説です。
夏、秋、冬という時間の流れ。時間は過去から未来への流れとして私たちは認識しています。しかし、シュタイナー思想の中では、時間そのものが空間に持続的に存在している。過去から未来へ流れているものではなく、過去・現在・未来が同時にそこにある。過去から未来にいたるあらゆる瞬間は,等しく実在している。といったような。現代の量子力学的な捉え方をすでにしていたといわれています。
一週間単位である暦の中で、夏、秋、冬の関係性がざっくり描かれているのは、そのような理由があるのではないかと推測できるのです。
夏という過去、そして今は秋、そして冬という未来。という一見、流れにそった“時間”というものを理解しようとしてしまいますが、
量子力学的に、“時間は無い”
と、いいきれる時代なのです。
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あなたは“時間が流れる”と当然のように思っているはずです。たとえば、朝起きて、ご飯を食べて、夜に寝るまで時間が進んでいると感じる。そして、時間に追われている…。
でも、一部の科学者は、
“実は、時間なんて存在しないかもしれない…。”
といっているのです。
どういうことかというと、変わっているのは『物の配置』や『状態』だけで、時間自体はただの錯覚に過ぎないという…。
少し想像してみてください。ジグソーパズルを作っているとします。最初はバラバラだったピースが、次第に組み合わさって完成する。
でも、このとき、パズルが“変化”していくっていうのはわかるけど、“時間”がどこにあるのか?と考えると、見つからない。あるのは、ただパズルの“状態が変化する”ことだけ。
この考え方を宇宙全体に当てはめると、時間というのは実際に流れているわけではなく、ただ、宇宙のいろいろなモノの配置や状態が変わっているだけ。かもしれないということになります。たとえば、太陽が沈んで夜になるのは、“時間が進んだ”からではなく、地球の“位置が変わった”だけ。ともいえますよね。
では、何故あなたは、“時間が進んでいる”と感じるのか?
それは、“物が変わる順番を頭の中で整理している”からなのです。ご飯を食べたことが次に寝ることより前だった、と覚えているから、時間が流れているように感じるのですね。自分が感じている時間は、脳の錯覚なのです。でも、もしもこの順番を記憶しなかったり、別の方法でみたら、時間はあまり意味を持たないかもしれない。
ですから、時間が存在するというのは、あなたが世界を理解するためのルールみたいなものかもしれないのです。実際には、宇宙のいろいろなモノがある状態から別の状態に変化しているだけで、時間自体は存在していないかもしれない。まるで、パズルのピースがバラバラになったり完成したりするだけで、時間などというものを使わなくても変化は起こっているのです。
夏に賜り
秋には寂然とし
冬に宿望となる
ということを時間的にではなく
ただの必然的な“自然の変化”であると捉えれば
焦らなくてもいいのです。
無理に抗わなければ、自然とそうなるのです。
そう考えると少しだけ
気が楽になりませんか?
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すこしばかり難しい話になってしまいましたが、
こうした時間への視点は、“今”をどう感じ、どう生きるかに新しい風をもたらしませんか。時間がただの“状態の変化”であり、過去・現在・未来が同時に存在しているとするなら、焦りや不安も手放しやすくなるのかもしれません。何かが叶うのも、何かが終わるのも、すべてが自然の中にあるのです。
今いる場所をただ味わい、流れに身をゆだねる――
そのような生き方が、あなたに本来の調和をもたらしてくれるのではないでしょうか。時間に追われるのではなく、変化をただ見つめ、あるがままに受け入れること。それが、夏の実りも、秋の静寂も、冬の希望への一歩かもしれませんね。
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シュタイナーさん
ありがとう
では、また
Yuki KATANO(ユキ・カタノ)
2024/10/20