希望という果実を 皆に我に礎に
第38週 12月22日〜12月28日の記憶。 それを探る試みです。
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。
今週は、クリスマスですね。しかし、先生からは浮かれ気分に釘を刺すようなシャキッとするメッセージが贈られています。明るい時にこそ暗い部分をみつめ、暗い時には明るい部分をみつめる。そうすることで人生のバランスがとれてゆくのかもしれません。
では、読み解いてまいりましょう。
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気が滅入るかもしれない
でも胎内に宿りし記憶は
心の輝きでしかない
大いなるものの清らかな詞を孕む
希望という天空の果実は
世界の果てで歓喜に満ちたものへと変容する
わたしの存在理由の礎から
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アドバンテージ
クリスマスの浮かれた雰囲気と反比例して、この世の不条理に気が滅入り、厭世的な気分になることはありませんか。いきなりネガティブな感じですみません。
しかし、その不条理の中にもアドバンテージ、好都合な点、有益な点、強み、長所、優位点など、つまり“よい部分”をみいだすのだ。とよくいわれますよね。
世界で起きている出来事や状況、人生においても、必ずネガポジの表裏一体の二面性を持つコインのようなものなのです。受け入れられない感情とともに不快な苛立ちや不安、落ち込み、恐怖にかられ攻撃的になることがあるかもしれません。でもそのようなときこそ、軽々とコインの裏側の世界に乗り移ることが大事なのです。
一行目の「Ich fühle wie entzaubert」直訳すると「わたしは幻滅している」とか「わたしは、意気消沈している」という意味になります。しかし、過去の翻訳を観ると「魔法を解かれたかのように」というニュアンスのものが多いのです。その背景には、このようにネガポジ反転の理由があったのだと思うのです。
まさに、それは魔法を解かれたかのように、物事への視点や意識が変わり、覚醒したかのように動きだすグッドタイミングであることが、促されているのかもしれませんね。
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クリスマスは、家族や友達と共に過ごす喜びや温かさに注目しがちですが、すべての人々が同じように幸福な状態下にあるわけではありません。紛争や困難な状況に直面している人々がいます。孤独や挫折、不安を感じながらその日を迎えているのかもしれません。この一行目には、クリスマスが喜びや幸福だけでなく、失望や孤独といった気が滅入るような出来事に対して、現実をいかに受け止めるのか、という問いが隠されているのです。
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夜と霧
ふと、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』という本が頭に浮かびました。この本では、著者自身が戦時中の強制収容所での経験から導き出した、人生の意味や人間の精神についての洞察が描かれています。
“何のために生きているのか”という問いに対し、あなたが主体的に何かをしなくても、生まれたときに、すでに与えられているのです。
あなたが成すべきことは、人生を開拓するのではなく、逆説的に人生から送り届けられてきている“意味と使命”を発見し、表現していくことなのです。
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人生に、どのような意味が与えられ
どのような使命が課せられているのか
見つめ淡々と日々を生きよ。
それ以上でも以下でもないのだ。
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人生に意味はあるのか?
大いなるものに意味はあるのか?
それは、あなたが発見し決断し育ててゆくのだ。
そのためには、“希望という意志”の導きで、
無意識の中の小さな輝きに“希望の詞|《コトバ》”を与え、
表現し、つながりによって歓喜に導かれる。
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クリスマスを迎える日にむけて、最高のメッセージなのです。
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美とは
もうひとつ、『夜と霧』の中で心が揺さぶられる一篇です。
あなたに与えられている、“意味と使命”とは何でしょうか?
“美”とは何でしょうか?
考えさせられますね。
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紅葉も終盤に向かい、木々は、すべてをそげ落とし、眠りについてゆくかのようにみえます。公園を歩いていても見渡しがよく太陽の光が地面まで届き風景が違うものに変容したかのようです。
けれどもアドバンテージ的に観れば、これは寂しいことだけではないのです。不義かもしれませんが、『戦争の傷跡』などの写真などを観るときに、神々しさを感じてしまうことがありませんか。
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たとえば、9.11などのレポートなどで観た遺構の写真などには、どこかの神殿を思わせるものがあり、美しさが潜んでしました。そのようなことを感じてしまう疚しさもありましたが、ただ漠然とその風景に浸っていたような記憶があります。それはどういうことなのでしょうか。
廃墟美 (死のエステティクス)という概念があります。崩壊した物体が生み出す非日常的な形状や、風化した質感に、神秘的なものが呼び起こされます。これが、神殿のようだと感じる理由の一つかもしれません。この感覚には、破壊そのものを美しいと感じるわけではなく、その中に潜む“静けさ”や“畏怖”を受け取っていたのだと思います。
同時に、壮大なものが失われたという深い感覚が象徴するのは、人間の営みの儚さや、文明の栄枯盛衰といった普遍的なものなのですね。ツインタワーが限られた人類の夢や西側の繁栄の象徴であったことと重なる部分があったからでしょう。
美しさを感じることへの疚しさは、それらが破壊や死の前触れであることを予知していたためかもしれません。そのようなことを感じてはいけないという自己否定には、倫理感や道徳心が関係しています。
しかし同時に、否応なしに人間は美を感じる能力を持つがゆえに、そうした感覚に直感的に引き寄せられる存在でもあるのです。美を感じること自体は自然な反応であり、それが必ずしも無関心や軽視を意味するわけではないのです。
あなたもあの日、そこに宿り今日という未来につながった、“美と喪失の同時性”に対して(まさにコインの表裏です)、畏敬の念を抱いたのではないかと想像してしまうのです。
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悲劇や廃墟などが語る物語に対する感情は、あなたの在り方そのものが映し出されています。そのため、それらを、“美しい”と感じてしまうことは、人間が持つ感受性や想像力の豊かさの表れだと思うのです。
あなたは、経験や想いを通じて、その感覚に、“共振”し、“表現”することができます。それらが持つ美しさ、疚しさ、そして崇高さは、人類の歴史や感情、存在の本質に触れるようなものではないでしょうか。
詞を通じて
それを共有できることに感謝いたします。
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シュタイナーさん
ありがとう
では、また
Yuki KATANO(ユキ・カタノ)
2024/12/22