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希望という果実を 皆に我に礎に

第38週 12月22日〜12月28日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、クリスマスですね。しかし、先生からは浮かれ気分に釘を刺すようなシャキッとするメッセージが贈られています。明るい時にこそ暗い部分をみつめ、暗い時には明るい部分をみつめる。そうすることで人生のバランスがとれてゆくのかもしれません。

では、読み解いてまいりましょう。


 

  

M‘. WEIHE-NACHT-STIMMUNG. [1912]

38.
Ich fühle wie entzaubert
Das Geisteskind im Seelenschoß
Es hat in Herzenshelligkeit
Gezeugt das heil´ge Weltenwort
Der Hoffnung Himmelsfrucht
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
Aus meines Wesens Gottesgrund.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912



  気が滅入るかもしれない
  でも胎内に宿りし記憶は
  心の輝きでしかない
  大いなるものの清らかなコトバはら
  希望という天空の果実は
  世界の果てで歓喜に満ちたものへと変容する
  わたしの存在理由の礎から


  


 アドバンテージ



クリスマスの浮かれた雰囲気と反比例して、この世の不条理に気が滅入り、厭世的な気分になることはありませんか。いきなりネガティブな感じですみません。

しかし、その不条理の中にもアドバンテージ、好都合な点、有益な点、強み、長所、優位点など、つまり“よい部分”をみいだすのだ。とよくいわれますよね。

世界で起きている出来事や状況、人生においても、必ずネガポジの表裏一体の二面性を持つコインのようなものなのです。受け入れられない感情とともに不快な苛立ちや不安、落ち込み、恐怖にかられ攻撃的になることがあるかもしれません。でもそのようなときこそ、軽々とコインの裏側の世界に乗り移ることが大事なのです。

一行目の「Ich fühle wie entzaubert」直訳すると「わたしは幻滅している」とか「わたしは、意気消沈している」という意味になります。しかし、過去の翻訳を観ると「魔法を解かれたかのように」というニュアンスのものが多いのです。その背景には、このようにネガポジ反転の理由があったのだと思うのです。

まさに、それは魔法を解かれたかのように、物事への視点や意識が変わり、覚醒したかのように動きだすグッドタイミングであることが、促されているのかもしれませんね。

クリスマスは、家族や友達と共に過ごす喜びや温かさに注目しがちですが、すべての人々が同じように幸福な状態下にあるわけではありません。紛争や困難な状況に直面している人々がいます。孤独や挫折、不安を感じながらその日を迎えているのかもしれません。この一行目には、クリスマスが喜びや幸福だけでなく、失望や孤独といった気が滅入るような出来事に対して、現実をいかに受け止めるのか、という問いが隠されているのです。




 夜と霧



ふと、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』という本が頭に浮かびました。この本では、著者自身が戦時中の強制収容所での経験から導き出した、人生の意味や人間の精神についての洞察が描かれています。


苦悩の意味が明らかになった以上、われわれは収容所生活における多くの苦悩を単に「抑圧」したり、あるいは安易な、または不自然なオプティミズムでごまかしたりすることで柔らげるのを拒否するのである。われわれにとって苦悩も一つの課題となったのであり、その意味性に対してわれわれはもはや目を閉じようとは思わないのである。

「夜と霧」ヴィクトール・E・フランクル


“何のために生きているのか”という問いに対し、あなたが主体的に何かをしなくても、生まれたときに、すでに与えられているのです。

あなたが成すべきことは、人生を開拓するのではなく、逆説的に人生から送り届けられてきている“意味と使命”を発見し、表現していくことなのです。



人生に、どのような意味が与えられ
どのような使命が課せられているのか
見つめ淡々と日々を生きよ。

それ以上でも以下でもないのだ。



人生に意味はあるのか?
大いなるものに意味はあるのか?
それは、あなたが発見し決断し育ててゆくのだ。

そのためには、“希望という意志”の導きで、
無意識の中の小さな輝きに“希望の詞|《コトバ》”を与え、
表現し、つながりによって歓喜に導かれる。



クリスマスを迎える日にむけて、最高のメッセージなのです。




 うつくしさとは


もうひとつ、『夜と霧』の中で心が揺さぶられる一篇です。


あるいはまた、ある夕べ、
わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、
スープの碗を手に、
居住棟のむき出しの土の床に
へたりこんでいたときに、
突然、仲間がとびこんで、
疲れていようが寒かろうが、
とにかく点呼場に出てこい、
と急きたてた。

太陽が沈んでいくさまを
見逃させまいという、
ただそれだけのために。

そしてわたしたちは、
暗く燃え上がる雲におおわれた西の空をながめ、
地平線いっぱいに鉄(くろがね)色から
血のように輝く赤まで、
この世のものとも思えない色合いで
たえずさまざまに幻想的な
形を変えていく雲をながめた。

その下には、それとは対照的に、
収容所の殺伐とした灰色の棟の群れと
ぬかるんだ点呼場が広がり、
水たまりは燃えるような天空を映していた。

わたしたちは数分間、
言葉もなく心を奪われていたが、
だれかが言った。

「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル


あなたに与えられている、“意味と使命”とは何でしょうか?
“美”とは何でしょうか?


考えさせられますね。







2024年12月ユリノキ






紅葉も終盤に向かい、木々は、すべてをそげ落とし、眠りについてゆくかのようにみえます。公園を歩いていても見渡しがよく太陽の光が地面まで届き風景が違うものに変容したかのようです。

けれどもアドバンテージ的に観れば、これは寂しいことだけではないのです。不義かもしれませんが、『戦争の傷跡』などの写真などを観るときに、神々しさを感じてしまうことがありませんか。

たとえば、9.11などのレポートなどで観た遺構の写真などには、どこかの神殿を思わせるものがあり、美しさが潜んでしました。そのようなことを感じてしまうやましさもありましたが、ただ漠然とその風景に浸っていたような記憶があります。それはどういうことなのでしょうか。

廃墟美 (死のエステティクス)という概念があります。崩壊した物体が生み出す非日常的な形状や、風化した質感に、神秘的なものが呼び起こされます。これが、神殿のようだと感じる理由の一つかもしれません。この感覚には、破壊そのものを美しいと感じるわけではなく、その中に潜む“静けさ”や“畏怖”を受け取っていたのだと思います。

同時に、壮大なものが失われたという深い感覚が象徴するのは、人間の営みの儚さや、文明の栄枯盛衰といった普遍的なものなのですね。ツインタワーが限られた人類の夢や西側の繁栄の象徴であったことと重なる部分があったからでしょう。

美しさを感じることへの疚しさは、それらが破壊や死の前触れであることを予知していたためかもしれません。そのようなことを感じてはいけないという自己否定には、倫理感や道徳心が関係しています。

しかし同時に、否応いやおうなしに人間は美を感じる能力を持つがゆえに、そうした感覚に直感的に引き寄せられる存在でもあるのです。美を感じること自体は自然な反応であり、それが必ずしも無関心や軽視を意味するわけではないのです。

あなたもあの日、そこに宿り今日という未来につながった、“美と喪失の同時性”に対して(まさにコインの表裏です)、畏敬の念を抱いたのではないかと想像してしまうのです。

悲劇や廃墟などが語る物語に対する感情は、あなたの在り方そのものが映し出されています。そのため、それらを、“美しい”と感じてしまうことは、人間が持つ感受性や想像力の豊かさの表れだと思うのです。

あなたは、経験や想いを通じて、その感覚に、“共振”し、“表現”することができます。それらが持つ美しさ、疚しさ、そして崇高さは、人類の歴史や感情、存在の本質に触れるようなものではないでしょうか。



コトバを通じて
それを共有できることに感謝いたします。





シュタイナーさん
ありがとう

では、また





Yuki KATANO(ユキ・カタノ)
2024/12/22




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