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空疎に響く秋 内界への扉がひらく

第33週 11月17日〜11月23日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、凍りついた空虚な風景を観よ。と成長のイメージとは、少し違う方向性が提示されているかのようです。しかし、これからのあなたを形づくる上で、枯れゆくものを観て、再生してゆくのだ。というメッセージが大いに隠されているように感じました。

では、読み解いてまいります。

 


  

G‘. DREIUNDDREISSIGSTE WOCHE (17. NOV. – 23. NOV. [1912])

33.
So fühl‘ ich erst die Welt
Die ausser meiner Seele Miterleben
An sich nur frostig leeres Leben
Und ohne Macht sich offenbarend
In Seelen sich vom neuen schaffend
In sich den Tod nur finden könnte.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912



  こうして初めて外界を感じる
  わたしの心とは離れ目睹する世界は 
  凍りついた空虚ないのちとして
  力なくあらわれる
  自らを新しくカタチづくりながらも
  ふたたび枯れゆく姿も見いだすのだ




凍りついた空虚さは内界への入口



先週は、自らの存在や、運命が織りなされてゆくことなど、外界との関係性の中で起こりうる兆しを感じさせてくれるコトバでした。しかし、今週は、それを観はじめた瞬間には、凍りついた空虚さを感じるのだ。という少しネガティブなことを伝えてきています。一体どういうことなのでしょうか、考察してゆきましょう。


In Seelen sich vom neuen schaffend
In sich den Tod nur finden könnte.
この箇所を直訳しますと

新しいものから自らを創造する魂は
それ自体に死を見出すことしかできなかった。


死を否定しているのか、肯定しているのか。
一瞬とまどってしまうかもしれません。

しかも、それが初めて世界を感じることなのだと、いわれています。
おぼろげに壊れゆくもの、すでに壊れてしまっているものを観よ。
とどういう関係があるのでしょう。

解釈の仕方として、新しいものだけではなく、循環している生命みたいなものを取り込んでゆく示唆と受け取るべきだと思うのです。死は終わりではなく、新しい成長の機会でもある。壊れまた、再構築され、復活するもの。外界から内界へと成長の軸がうつってゆくものも、物質的には滅びゆくものなのかもしれないですね。

秋の枯れてゆく自然界をのぞいてみれば、“死”というコトバは消ゆくものの象徴かもしれませんが、大きな循環の視点で観れば復活への道筋でもあるのです。


モモ



ミヒャエル・エンデの児童小説「モモ」にヒントが隠れていました。

エンデは、シュタイナー思想の影響を受けた作家とされています。この物語では、主人公の少女モモに焦点を当て、時間や対話などに対して深い洞察が描かれています。シュタイナーの思想の受け継ぎ、感覚として受け取れる名著なのですね。

モモと呼ばれる少女は、人々の悩みや不安の聞き手として対話の天才少女です。モモは、とくに時間を大切にし、他の人たちにもその大切さを気づかせる存在です。物語は“灰色の男たち”と呼ばれる時間を奪う存在が、忍びより蔓延してゆくことに立ち向かう姿を描いています。

灰色の男たちは、知らぬ間に人々の時間を奪い、無駄な忙しさに次々と巻き込んでゆきます。現代の社会システムを象徴しているかのような状況です。その中で、モモが彼らに立ち向かうことで物語が進展し、人々は本当に大切なものに気づくようになります。小説は児童文学でありながらも、現代人の在り方への問いかけが込められていて、大人たちも考えさせられる作品となっています。

興味のある方は、ぜひ一度読んでみてくださいませ。

小説『モモ』の核心部となります。

モモは、友達たちを灰色の男たちの策略に奪われて一人ぼっちになってしまいます。そして、マイスター・ホラという時間を司る老人と出会い、時間の本質を探るべく“時間のみなもと”へ入っていく場面です。

少し長くなりますが、そのまま引用いたします。
シュタイナーの思考が美しい描写で映像化されています。


《注意!》
まだ小説をお読みでなければ、
引用は読みとばしていただけますと幸いです!





「時間のみなもとを見たいかね?」

「ええ。」と、モモはささやくようにこたえました。

「つれていってあげよう。だがあそこでは沈黙を守らなくてはいけない。なにもきいてはいけないし、ものを言ってもいけない。それを約束してくれるかね?」

それから、マイスター・ホラのうでに抱かれたまま、長いくらいろうかをとおっていったようです。

天井のいちばん高い中心に、丸い穴があいています。そしてそこから光の柱がまっすぐに下におりていて、そのま下には、やはりまんまるな池があります。そのくろぐろとした水は、まるで黒い鏡のようになめらかで、じっと動きません。

水面にすぐ近いところで、なにかあかるい星のようなものが光の柱の中できらめいています。それはおごそかな、ゆったりとした速度で動いているのですが、よく見ると、黒い鏡の上を行きつもどりつしている大きな大きな振子でした。でもどこかからぶらさがっているのでもないようです。まるでおもさのないもののように、宙をたゆたっています。

この星の振子はいまゆっくりと池のへりに近付いてきました。するとそのくらい水面から、大きな花のつぼみがすうっとのびて出てきました。振子が近づくについれて、つぼみはだんだんふくらみはじめ、やがてすっかり開いた花が水のおもてにうかびました。

それはモモがいちども見たことがないほど、うつくしい花でした。まるで、光りかがやく色そのものでできているように見えます。このような色があろうとは、モモは想像さえしたことがありません。星の振子はしばらく花の上にとどまっていました。モモはその光景に、すべてをわすれて見入りました。そのかおりをかいだだけでも、これまではっきりとはわからないならがらもずっとあこがれつづけてきたものは、これだったような気がしてきます。

やがてまた振子は、ゆっくりもどっていきました。そして振子がわずかずつ遠ざかるにつれて、おどろいたことに、そのうつくしい花はしおれはじめました。花びらが一枚、また一枚と散って、くらい池の底にしずんでゆきます。モモは、二度ととり戻すことのできないものが永久に消えさってゆくのを見るような、悲痛な気持ちがしました。

ところがそのときには、池のむこうがわに、またべつのつぼみがくらい水面から浮かびあがりはじめているではありませんか。そして振子がゆっくりと近づくについれて、さっきよりももっとあでやかな花が咲きにおいはじめたのです。

今度の花は、さっきのとはまったくちがう花でした。やはりモモの見たことのないような色をしていますが、こんどの色のほうが、はるかにゆたかで、はなやかな気がします。においも、さっきとはちがう感じの、もっとあでやかなにおいです。見れば見るほど、つぎからつぎとこの花のすばらしい点がモモの目に入ってきました。

けれどもやがてまた星の振子は向きをかえ、花はさかりをすぎて、一枚ずつ花びらを散らし、くろぐろとした池の沼の底知れぬ深みに消えてゆきました。

しずかに、しずかに、振子は反対がわにもどって行きます。けれどさっきとおなじところではなく、ほんのわずかずれたあたりです。そしてその場所、さいしょの花から一歩ほどはなれたところに、またしてもつぼみがひとつ浮かびあがり、しずかにふくらみはじめました。

これほどうつくしい花があろうかと、モモには思えました。これこそすべての花の中の花、唯一無比の奇跡の花です。

けれどこの花もまたさかりをすぎ、くらい水底に散って沈んでゆくのを見て、モモは声をあげて泣きたい思いでした。でもマイスター・ホラにした約束を思い出して、じっとこらえました。

向こうがわへ行った振子は、そこでもまたさっきより一歩ほどとおくまで進み、そこにふたたび新しい花がくらい水面から咲き出しました。

見ているうちにモモにだんだんとわかってきましたが、新しく咲く花はどれも、それまでのどれともちがった花でしたし、ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいと思えるような花でした。

『モモ』ミヒャエル・エンデ



シュタイナーは、心と外界を分離させずに、自らによる外界への関わりによって、成長や大いなるものの進化が促されるといっています。そうした視点で外界を観測する意識付けが強く感じ取るのことができるメッセージです。

生の循環は、生と死によって認識できます。そして、生と死のあわいにある変化が時間なのです。時間があるから変化しているのではなく、変化そのものが時間であると、とらえることが大切なのでしょう。

『こよみ』の中で、外界での命脈を観測するヒントが与えられています。花が咲き、枯れ、散ってゆくような生の循環は、処々に立ち現れていることではないでしょうか?

それは、意志というよりも
淡々と空虚に脈打つ鼓動のようなものなのかもしれませんね。


さまざまな時間を観測せよ!ということなのかもしれません。





2024年11月 薄紅葉


あなたの時間


そして、小説の中で
時間を司る老人ホラは次のよう語っています。


人間はじぶんの時間をどうするかは、
じぶんじしんできめなくてはならないからだよ。

『モモ』ミヒャエル・エンデ


外界の時間を観測し、あなたの時間を選択すること。
それは、外界と関わってゆくという伏線なのかもしれませんね。

エンデの作品では、時間が“物”として扱われ、奪われることもあるのだ。という観念が表現されているのですね。ホラの言葉が強調するのは、あなたの時間を他人や外的な要求に搾取されずに、自らの意志で選び取ることなのです。

たとえば、現代社会では効率やスピードが重視されますよね。常に仕事に追われ、忙しく、休み時間にもスマホでニュースをチェックし、SNSに目を通すのが習慣になっていませんか。この状態って、外界の時間に追われ、まさに、灰色の男たちに時間を奪われているのです。

しかし、あなたには、心地よいペースで過ごすためにスマホを置き、散歩に出かけたり、本を読む時間をつくる自由はあるはず。このような選択は、「じぶんじしんできめた」時間の使い方なのです。外界の時間(速いリズム)を観察し、それに従わずにあなたのペースを選ぶことは、ホラの言葉の意味するところだと思うのです。

このことは、周囲の期待や社会のペースにただ従うのではなく、あえて自分の時間を選び取ることで、結果的に外界との“本質的な関わり”を持つチャンスなのだ。とも考えられます。


凍りついた空虚という表現は
“価値観の死”ととらえてもよいのではないでしょうか。

長年の慣習や思い込みが崩れる瞬間は、苦楚をともないますが、
実は、それが新たな可能性の始まりでもあるのでしょう。


そんな時代の始まりですね。





シュタイナーさん
ありがとう

では、また







Yuki KATANO(ユキ・カタノ)
2024/11/17




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