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つくる意志 心を透明に満たし気づく
第44週 2月2日〜2月8日の記憶。 それを探る試みです。
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。
今週は、あなたを表現へと駆り立てるもの。何かを変えたい、生み出したいと願う気持ちに対して“心”をどう整えていけば良いのか。目指す状態は、何か透明なものに満たされた状態であり、その透明なものとは、ミラクルな“偶然を受け入れる土壌”のようなものかもしれません。
では、読み解いてまいります。
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S‘. VIERUNDVIERZIGSTE WOCHE (2. FEBR. – 8. FEBR. [1913]
44.
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit
Eingedenk vollzogner Geistgeburt
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
新しい感覚の誘いに気づき
心を透明に満たす
意志が生まれいずる瞬間へと立ち戻り
もつれながら芽生えの枝が伸びる
わたしのつくる意志によって
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構造や骨格を観察する季節
この時季、クレーン車に乗った作業員さんが街路樹などの剪定作業をしている光景に出くわすことがあります。そして木々たちは、冬空の下を、まるで散髪を終えてスッキリと凜々しく風をきって歩んでいるかのごとく。どこか晴れ晴れと生まれ変わったように感じます。
おそらく剪定のプロともなれば、木々枝ぶりから個性や特徴をみぬき、その木が本来もつ美しい骨格を引き出せるのでしょう。冬の寒さのなかで、枝葉を整理することで、春に向けて新たな生命力が蓄えられる準備を手助けしているのです。
こうして整えられた木々は、その本来の姿を際立たせています。葉が茂る季節にはみえなかった枝の流れ、幹のたくましさが、冬の澄んだ空気のなかでくっきりと浮かび上がるのです。まるで、それぞれの木がもつ個性や本質が、静かに語りかけてくるかのように。
わたしたちもまた、もつれながら伸びていく枝を剪定するように、何かを手放し、不要なものを整理することで、心の輪郭をより鮮明にすることができるのかもしれません。木々の剪定を眺めながら、そのようなことをふと思う冬の日です。
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透明で満たす
剪定師は、木の健康状態を診断し、将来の成長を見据えながら、どの枝を残しどの枝を切るべきか慎重に判断を重ねていきます。そのワザには何年もの経験と修行、木々との親密で深い対話が必要とされるのでしょう。
想像力で全体を満たす。"空"、"間"の感覚とは、まさに剪定のワザに通じるものかもしれません。枝を切り落とすことで生まれる空間は、透明でみることができませんが、木々の生命力が呼吸するエネルギーで満ちた余白となるのです。
プロの剪定師は、目の前にある木のカタチだけでなく、その先にある可能性をも見通しているのですね。切り落とされた後に残る空間は、瑞々しい芽吹きを待つ余地であり、成長の可能性を包み込む懐の深さともいえるのです。
この“透明で満たす”という感覚は、わたしたちの暮らしにも通じるものがあります。部屋の中に余白をもたせることで、心が落ち着くように。コトバを交わす際にも、沈黙のなかにこそ深い理解が宿るように。何かを削ぎ落とし、そこに生まれた余白をどのように受け止めるかで、世界の見え方は大きく変わるのかもしれません。
剪定という行為は、存在するものを切り取ることで、かえって、みえないものの存在を浮かび上がらせるワザともいえるでしょう。それは、無と有が織りなす、たおやかで繊細な対話なのです。
心のなかにおいても、このような"空"と"間"が必要なのかもしれません。ときに意識的に空白をつくることで、気づきや感性が芽生える余地を生み出しているのではないでしょうか。
剪定された木々が冬空の下で凛とした姿を現すように、あなたもまた、自ら透明なものをみつめ、満たしてゆけるのです。
物質的に存在することと、しないこと、
非物質的に感じることの微妙な均衡について、
心が物静かに語りかけてくるように感じませんか。
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セレンディピティ
セレンディピティ(Serendipity)とは、偶然の産物や探していたものと異なるものを発見する幸運な偶然を意味します。透明に満たされたときに、あなたがまったく意識していなかったものが転がり込んでくるようなものです。
作品を制作するなかでも、“たまたま良くできてしまう”ことがよくあります。締め切りが迫り、作品に何かこれではないという感覚が出てしまったとき、思い切って大胆な行動をとることがあります。
絵の具をめちゃくちゃに塗りたぐり作品をぶち壊すのです。すると、そこには予想外の実像が浮かび上がってきます。これがセレンディピティと呼ばれるものです。多くの歴史的な発見や功績にもセレンディピティが絡んでいたといわれています。たとえば、ニュートンはリンゴが木から落ちるのを観察し、『万有引力』を発見したり。フレミングは実験中に誤って青カビを発生させ、『ペニシリン(抗生物質)』の抽出に成功したことなどがあげられます。
しかし、これらの出来事を「たまたまできちゃった?」
と揶揄することはできません。
むしろ、アーティストや科学者は真剣で純粋無垢な行動を通じて、自分の意図を超えた今までにない発見をもたらすために懸命なのです。“ひらめき”は、ゾーンに入っているときに訪れるといわれます。それは、極限の集中力が求められる状況で、心が無になっていることを示しているように感じます。
しかし、実は、その瞬間には心が何か透明なものに満たされた状態が重要なのだと思うのです。つまり、空っぽなのではなく、まだ人類史で言語化されていない、“透明の触媒が満たされているのではないか”というのがポイントなのです。
コトバで表現されえない、何かが存在する状態。
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つまりそれは、そこに至るまでの準備がなされた偶然ともいえるでしょう。発見の背後には、試行錯誤の積み重ねや、未知への開かれた姿勢が必要なのです。科学者やアーティストがセレンディピティを引き寄せるのは、無意識のうちにそうした“偶然を受け入れるみえない土壌”を耕しているからではないでしょうか。
この透明の触媒が満たされている状態とは、ひとつの固定観念に縛られず、目の前の現象に対してしなやかに反応できる粘質な心のありようを指しているのかもしれません。たとえば、創作の過程では、何かを生み出そうと意識すればするほどアイデアが硬直してしまうときに、少し勇気を出して、無意識領域にあなたの心をゆだねるようなものです。
心理学者のミハイ・チクセントミハイが提唱した“フロー状態”は、集中と無意識の狭間にある絶妙なバランスの状態ですが、セレンディピティはこのフロー状態に漂うことでも起こりやすくなるのですね。そこでは、意図と偶然が交錯し、予想外のものが姿を現すのです。
このように考えると、セレンディピティを受け入れるためには、あなた自身を“透明に満たされた状態”にしてゆくことが大切だといえます。余計なこだわりを捨て、未知のものと遭遇する余白をもつこと。日々の生活においても、この心の余白を能動的に育てていくことで、思いがけない出来事や発見に出会えるのかもしれません。
そしてそれは
あなたの想像を
超えて含んだものなのです。
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何かに夢中になって生き、
存分な観察眼をもち
しつこく表現することで
“生まれいずる”のでありましょうか。
・
下記は、そのような美しき挑戦の一節です。
小説家の元に、貧困と家族を支えるために漁師として生きなければならなかった画家からスケッチ帳と手紙が届いたのです。
立派な芸術品であるスケッチ帳と、君の文字との間には
一分のすきもなかった。
「感力」という君の造語は立派な内容を持つ
言葉として私の胸に響いた。
「山ハ絵ノ具ヲドッシリ付ケテ、山ガ地上カラ空ヘ
モレアガッテイルヨウニカイテミタイ」
‥‥山が地上から空にもれあがる‥‥
それはすばらしい自然への肉迫を表現した言葉だ。
言葉の中にしみ渡ったこの力は、軽く対象を見て過ごす
微温な心の、まねにも生み出し得ない調子を持った言葉だ。
「だれも気もつかず注意も払わない地球のすみっこで、
尊い一つの魂が母胎を破り出ようとして苦しんでいる」
私はそう思ったのだ。そう思うとこの地球というものが
急により美しいものに感じられたのだ。
何か、透明に満たされた文章のように
感じられませんか。
君よ! 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り広げて吸い込んでいる。
春が来るのだ。
君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし‥‥
僕はただそう心から祈る。
春が待ち遠しい2月ですね。
*
シュタイナーさん
ありがとう
では、また
Yuki KATANO(ユキ・カタノ)
2025/2/2