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真実は温かい 冷たきものに抗うチカラを
第43週 1月26日〜2月1日の記憶。 それを探る試みです。
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。
今週は、『精神』について掘り下げてみました。精神というコトバに染みついている印象を明確にして、ほんとうに大切なものを取り違わないようにするためです。心から表現してゆけるように、精神と心とカラダの在処を探りにいきましょう。
では、読み解いてまいりましょう。
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R‘. DREIUNDVIERZIGSTE WOCHE (26. JAN. – 1. FEBR. [1913])
43.
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein
Es gibt dem Weltenscheine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
冬深き今
大いなるものの真実に温められる
そして世界へと発光する
心のチカラによる存在のチカラ
冷たき世界に抗う
内なる気焔。
*
大いなるものの真実
大いなるものの真実とは、精神の真実です。
シュタイナーがいう精神(Geist)とは何でしょうか、探ってまいります。
あなたが普段、“精神”というコトバを使うとき、真剣な態度や高い理想を込めて使うことが多いのではないでしょうか。“精神を整える”、“精神を鍛える”など、自己修養や内面的成長に関連した表現がよく使われるのは、個人の努力や向上心を強要する文化的な背景があるかもしれないのです。
さらに、あなた個人の心のあり方と同時に、共同体や社会のなかでの調和を重んじる意味合いでもよく用いられますよね。たとえば、働くときの“愛社精神”や“チームワークを大切にする精神”などはどうでしょう。
これには、気力ややる気などの精神、つまりエネルギーや集中力、または困難に立ち向かう力強い意志を全体に向けるように仕向けられている感じます。精神力というもので最後までやり遂げる…、方向を間違えると大変なことになりますよね。
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“和をもって貴しとなす”という表現は、一見、日本文化の美しい精神を象徴する考え方のようにみえますが、その根底には、それに反するある思考様式が潜んでいます。“大和魂”や“武士道精神”のように、戦の歴史と関連付けられるのではないかと考えられるのですね。
さらにその奥には、“精神と肉体のバランスを保つ”といった人間の内面の本質をも指すのですが。精神というコトバの響きは、“心”とも似たニュアンスを持ちながらも、より抽象的になってしまうのです。
“精神論を振りかざすな”といったようないいまわしは、その人の心の一部分をいっているのです。悟性や知性などといったニュアンスにも近い使われ方ですが。やはり抽象的な表現なので認識力や思考の誤解を拭うのにはいたりません。
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シュタイナー思想によると、人間は、カラダ・心・Geist(精神)の3層構造になっているといいます。
ここでも、心とGeist(精神)の違いは何かという疑問がでてきます。日本人のわたしが、日頃使っている精神というコトバと、シュタイナーの翻訳のなかで使われてきた精神の意味合いには、かなりのギャップがあるように感じてしまうのです。
それに対して、シュタイナーが語るGeist(精神)は、(ドイツ語の意味合いかどうかは、専門家ではないので詳しくはわかりませんが…)生命や宇宙の根源や形而上の存在として使われていることが多い印象があります。しかし、日本語でいうところの霊や魂といった言葉に訳されてしまうのが現実です。
霊や魂といったコトバは、なんか怖いのですよね。なにか、オバケっぽいじゃないですか…。おそらく、そのようなものがあることに対して否定はしません。でもみえない世界のことは、スピリチュアルなニュアンスが強すぎて、入り込めない人も多いのではないかと思うのです。
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では現代においてGeist(精神)をどのように翻訳し表現したらよいのかと考えると、『大いなるもの』というコトバに行き着きました。 これでも十分にスピリチュアルかもしれません。大いなるもの、という表現は具体性を持たず、抽象的なニュアンスを強調する点で、哲学的なGeist(精神)のニュアンスに近いのではないかと思ったのです。
特に、ヘーゲルの絶対精神などの文脈ではGeist(精神)は、人類や宇宙の歴史全体を貫く理念や本質を指しています。これを『大いなるもの』とするのは理解の一助となり得ますし、宗教的視点とは違う、人智を超えた壮大な力や存在を暗示し、精神、理念、霊性のすべてを内包する表現として解釈可能なのではないかと考えたのです。
まぁ、『大いなるもの』という表現もややバズワード的なニュアンスを感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、唯物論者の先生方もこの表現をしているので、参考にさせていただいております。
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自らの内なる理解に従って行動するか、
宇宙や生命の根源に対する理解に従って行動するか
シュタイナーの思想の本質は両方を含んでいるのですが
大は小を兼ねるではなく超えて含む感覚です。
根源的なものからの洞察によって
自分の意志で行動する意味をこめ
『大いなるものの真実』に心が温められてほしいのです。
心は、意識や悟性を“喜怒哀楽”でつかむチカラ。
Geist(精神)=大いなるものは、直感的に“真善美”を感じるチカラ。
なのです。
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Geist(精神)が心をつくりカラダになる
カラダ・心・Geist(精神)の3層構造には、レイヤー構造とともに、Geist(精神)が心をつくりカラダになる、という文脈。つまり、Geist(精神)が抽象的な領域から具体的な存在へと、カタチづくってゆく循環を表していると考えられるのです。
まず、大いなるものによる影響によって自己を認識し、感情や意識、思考といった内面的な“心のチカラ”を蓄えてゆきます。そして、大いなるもの(=精神)と心がカラダとして表出し、行動や物質的な存在として具体化するのですね。
たとえば、ヘーゲル哲学において、Geist(精神)は、単なる個人的な意識や思考を超え、歴史や文化、物質世界全体を貫く根本原理として捉えられています。ヘーゲルによれば、Geistは自己を意識し、歴史を通じて具体化していく存在です。
まず、自らを知覚し、内面的な自己意識である“心”を形成する。それにより、Geistが具体的にカタチづくられ、物質的なもの(文化、制度、身体など)として外化し現れるのです。
リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』で語った、『ミーム』と呼ばれる、文化における自己複製子は、さまざまな物事を生み出すGeistが共通の“心と化した姿”といってもよいのかもしれません。
ミームがアイデア、行動、信念、文化的な価値観、言語や習慣、技術や芸術、宗教的・哲学的など思想を人から人へ“コピー”しながら伝播していくのです。ミームはあなたの“心”に影響を与え、それが行動や物質文化として具現化されるため、心をつくりカラダになることにに通じる部分があります。
極端ないいかたをすれば、あなたを含めたすべての生物は、自己複製機能をもった大いなるものが循環するためにつくりあげたミームなのです。
ますます、『大いなるもの=Geist(精神)』は、
わたしたち個々人を超えた普遍的な原理であり、
あなたの存在の根底に働きかけていることがみえてきます。
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Geist(精神)は自己認識を通じて絶えず発展し、進化する存在なのです。この発展のなかで、Geistは自己を外化し、歴史的な過程を経て、より高次の統合へと向かいます。この統合で、心と身体、精神と物質、個と全体といった二元論的な関係は溶け合い、統一的なビジョンとして現れるのです。
さらに、ミームの観点を取り入れると、Geistは単に内的な意識や哲学的な原理として存在するだけでなく、文化的な遺伝子として人々の間を移動し、進化し続ける存在であるとも考えられるのです。
ミームはアイデアや行動様式を通じて伝播し、あなたの心に影響を与え、それが個々の行動として外化し、さらには社会や文化の一部として具現化されます。この視点に立つと、Geistは個人の内面的な領域だけでなく、集合的な無意識や文化的な進化のなかで具現化される存在ともいえるのです。
このように、Geistは単なる哲学的なアイデアではなく、あなたの存在の成り立ちや発展に深く関わるものです。そして、心をつくりカラダになるというプロセスは、単なる個人的な体験を超え、あなたを取り巻く社会や歴史、制度、技術、文化そのもののなかにおいても、同様に作用しているのではないでしょうか。精神がカタチづくられ、あなたの行動や物質社会に現れるプロセスを追うことで、Geistのダイナミズムと、それが“存在”に与える影響をより深く理解できるはずです。
こうした視点からさらに進めるなら、現代においてはAIやテクノロジーの進化が、このGeistの具現化の新たな領域を切り開いているとも考えられます。AIやデジタルネットワークは、Geistの新たな表現形態として、あなたの心やカラダ、さらには社会そのものを再構成しつつあるのかもしれません。
また、それに反比例して、より自然な構造体へと意識が拡張することで、さらなる本質的な領域へと足を踏み入れているともいえるのです。
このようにして、Geist(精神)は、時代や環境に応じて新たなカタチを取り続け、循環し続ける存在であるといえるのかもしれません。
あなたは、この“心をつくりカラダになる”というプロセスにおいて、
その本質と大きな時代の変化を感じ取っているのでしょうか。
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存在のチカラ
五体が満足でありながら、しかも、不具者でありたい、
いっそのこと自分は不具者に生まれついていたほうがよかったのだ
という願いをもつようになりますと、
ようやく舞踏の第一歩が始まります
暗黒舞踏の土方 巽氏は、「世界の舞踊は立つところから始まる。しかし、舞踏は立とうにも立てないところから始まる」としました。
いわゆる、西洋のバレエに対比するかのように、すらっと伸びた長い手足を思う存分に使い、飛び跳ね躍動し天空に舞う幻想世界を表現するのではなく。腰をおとし、がに股で歩く、日本の風土に根ざしたカラダを使い、森羅万象における奥深き心象風景における存在を表現したのです。
一生涯寝たきりの舞姫が、一生に一度でいいから立ちたいともがく、あわれな立ち姿を暗黒舞踏というスタイルから構築したのでした。
そのあとにも舞踏の歴史は塗り重ねられてきてきています。観るたびにGeist(精神)が心をつくりカラダになることを思い知らされるのです。
“立とうにも立てない”という身体性は、あなたの日常から切り離された極限の存在を示唆します。そこには、理性や意志によってコントロールされた動きではなく、地面に引きずられ、重力と闘うカラダが現れます。その姿は、あなたが無意識に閉じ込めている、不完全さや無防備な脆弱さを暴き出し、そこから新たな風景が生まれるのです。
暗黒舞踏の舞台では、カラダそのものが一種の“廃墟”として表現されます。その廃墟のなかに潜む矛盾や欠落、おぼつかぬ不安定さが、観る者に強烈なインパクトを残します。しかし同時に、その廃墟はただの崩壊ではなく、芽生えの象徴でもあったのです。土方 巽氏が目指したのは、整った美ではなく、即興的で未完成であるがゆえに永劫性を孕んだカラダそのもの。だったのではないでしょうか。
そして、暗黒舞踏が強く訴えかけるのは、Geist(精神)とカラダとの不可分な関係です。舞踏の舞台では、カラダが精神を表現する器であるだけではなく、大いなるものが心と一体化し、そのものがカラダを通じて生成され、カタチづくられる様が目撃されます。それは、あなたが普段忘れがちな生きることの本質への回帰でもあるのです。
暗黒舞踏の舞台を観るたびに、カラダの重みや制限、そしてそれを超えさせようとする大いなるものの力強さを思い知らされるのです。
“立とうにも立てない”
その瞬間にこそ
あなたが生きているという実感、
内なる気焔が宿るのです。
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シュタイナーさん
ありがとう
では、また
Yuki KATANO(ユキ・カタノ)
2025/1/26