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創造への一歩は 自分にふさわしい表現から

第41週 1月12日〜1月18日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、何かを生み出したい、創造したいという気持ちが芽生えたときに挫折しないためにはどうしたら良いのかという問いです。人としての愛や仕業、仕事など、何でも。あなたにしかない表現力を活かすように促されています。小さな表現が自分自身を変化させ、社会を変容していく創造へと導いてくれるかもしれないのです。

では、読み解いてまいります。


 

  

P‘. EINUNDVIERZIGSTE WOCHE (12. JANUAR – 18. JANUAR [1913])

41.
Der Seele Schaffensmacht
Sie strebet aus dem Herzensgrunde
Im Menschenleben Götterkräfte
Zu rechtem Wirken zu entflammen
Sich selber zu gestalten
In Menschenliebe und im Menschenwerke.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1913




  創造しようとする心のチカラが
  胸のどこか奥底から沸きたつ
  大いなるもののチカラを生活の中で
  相応ふさわしく活かすために
  自分を表現するのだ
  人としての愛においても、人としての仕業においても。
  



 創造から表現へおきかえる


先週は、愛することについて考えを深めました。
今週は、愛や仕業、仕事や生活に対して、あなたが、いかにその役割を果たしてゆくのか、という問いかけに対して、創造しようとする心の動きを見逃さないでください。というメッセージなのです。

しかし、時代の空気として、“新たに何かを創造する必要など、あるのだろうか”という形骸化され義務的な雰囲気において、“創造”という単語には、移行期における不安定や焦燥感があり、メタボリックな感覚がつきまといます。

“新しいもの”を生み出すことへの社会的プレッシャーが常にある一方で、その“新しさ”自体が陳腐化し、“創造的な生き方を…”などといわれると、そのようなことはできません、無理です。となってしまいませんか。

イノベーションのパラドックスと呼ばれるように、創造することが目的化され、その本質的な意味が失われている現状なのです。あらゆるものが、すでに存在して、飽和感という病根は、情報過多によるイメージの余白を奪い去り、過剰性や停滞感、消化しきれない異物を蓄積し、健全な新陳代謝が失われているのです。

さらに、量的な“新しさ”から、質的な“意味”への転換がうながされ、既存のものの再解釈や掛合わせによる創造の可能性。つまり創造性の再定義が積極的におこなわれてきていますが、それにも辟易としている部分があるのではないでしょうか。

“さらに新しい何かをつくりだす必要があるのだろうか”という問いは、経済社会における創造性に巻き込まれてしまいました。おかげで本質を失いかけていますが、心の問題として問い直される移行期に突入していると感じるのです。

現代社会における創造性の重圧から少し距離を置き、より自然な形で創造性と向き合うための手がかりを探す必要があるのです。

とくに重要なのは、経済的価値や社会的評価から“創造”を切り離し、個人的な意味や喜びを重視する方向への転換が必須なのではないでしょうか。それは必ずしも大きな変革を必要とせず、日常の小さな実践から始められる可能性があります。

たとえば今日、会う予定の人と、どんな話をしよう、とか、どのような言葉をかけようか、そういったことを考えませんか。

こういったことも、大きな意味では人間の創造力の一つですよね。でも、どのような会話を愉しもうかな、という軽い感じのときに創造という言葉は、あまりにも大げさな感じがしませんか。

そのようなとき、会話のなかでの表現方法について考えてみるのはどうでしょうか。何か話題を準備するのではなく、ありきたりな話題でも、あなたの表現力で相手を愉しませるのです。少し、内向的な人向けになってしまいました…。

別の例を考えると、たとえば明日、クライアントに対してプレゼンテーションをしなくてはいけないというとき。この場面では創造という単語がしっくりきてしまうかもしれませんね。

でも、創造という単語で考えていると、求められていることに対して、教科書的、紋きり的な感じになってしまうことが多くありませんか。

人としての愛、人としての仕業のなかで生きることは、世の中の正解を探し求めることとは別に、自分自身の役を演じるところがでてくると思うのです。そうすると、あなたの表現活動としてプレゼンテーションを捉えられると、あなた自身の成長の一コマになってゆくのと同時に関係性への広がりがでてくるのではないでしょうか。


自分自身の表現こそが自らをつくり
社会をつくってゆくのです。



あなた自身の個人的な意味や喜びを重視する方向へ転換することで、創造が経済的価値や社会的評価から切り離して考えられ、再定義されてプレッシャーから解放されるかもしれませんね。

そのためには、常に新しいものを生み出すことが求められる社会で、情報過多から意図的に離れるために、あえて何もしない時間をもち内的な空白の価値を再発見する必要がありそうです。

日常のなかでの小さな発見や工夫の表現こそが、創造の一つの諸元的なカタチであると認め、個人的な文脈での“意味性”を大切にするのです。

そして、他者と対話するなかで共振する感性に秘められた、“それぞれの表現”のなかにある可能性を信じ、コミュニティのなかでの緩い表現活動を重視すべきなのですね。焦らずに自然体のなかから創造は引き出されるものなのです。



無理矢理、つくりだすものではない。と思うのです。



 心は何かを表現しようとしている



あなたの心は、無意識にでも常に理想となる物事を表現しようと欲しているのではないでしょうか。

創造という言葉には現実性が多く含まれてしまっているように感じます。物事の“物”の方ですね。唯物論です。シュタイナーを学んでゆくと、みえないものへの洞察力の必要性を強く感じます。唯心論であり、物事の“事”の方です。本来、その両方のバランスが必要なのです。

事の創造という観点は、時代が進むにつれ、芸術表現においても進化してきました。シュタイナーの唯心論は、内面からの洞察や霊的な理解を通じて表現が生み出されるのを奨励しています。これにより、アートは時代とともに変遷し、霊的な意味を取り込むことで新しい価値観を生みだしてきたのです。

しかし、“神・霊・魂”といった単語に、拒絶感を持つ人もいるのではないかとは思います。“みえないもの”に対しての不信感があるのでしょう。科学的実証主義の社会では、目にみえて検証できることが重視されるのです。実証できないものへの懐疑的な姿勢が身についてしまっているのですね。

でも、怪しいスピリチュアルビジネスなどとは捉えずに、形而上学的な観点とおきかえてみてください。たとえば、音楽は最も抽象的な表現形態の一つですよね。物理的には空気の振動に過ぎませんが、人の心に直接的に働きかけ、深い感動や思索を引き起こします。

ここには、物質を超えた何かが存在しているといえるのではないでしょうか。物質の世界だけでなく、表現的に伝えられる意味や感情、非物質的な次元も考慮することが、真に深い理解へと導いてくれるのです。

また、禅などの伝統芸術には、“間”や“余白”という概念が重要な要素として存在します。これらは、物理的には“無”でありながら、深い意味を持つ空間として機能します。つまり、“みえないもの”の有り様が積極的に表現されてしている例といえるでしょう。

表現が単なる物質的な創造や宗教的な理想像を超えて、
“心”と対話する手段として位置づけられるべきなのです。



そのときに必要とされるのは、


 
  心が何を求めているのかを観察するチカラ
  人としての愛、人としての仕業を洞察し
  自分にふさわしい表現力を習熟すること


これらを大切にしてゆきなさいというメッセージなのでしょう。





2025年1月 サクラと月



 幻想かもしれない現実




観察散歩をしていると、自然の表現にはかなわないと思わされることがあります。偉大なる巨匠と出会い頭に鉢合わせするような感覚にみまわれることはありませんか。

ただ、あなたが感じている世界のすべては、
あなたの脳がつくりだした幻想なのです。

最近の研究などを読むと五感で感じたものは、ただの情報であり、情報の蓄積とそのとき入ってきた情報により脳内でたしかにあるように感じているだけなのだという説です。

自然の表現力にはかなわない。と思って撮影した現実は、もうすでに消失してます。パソコンの画像データになり、その記憶が美しいものとして脳内で認識され。他者に対して、「これは美しいですよね」と問いかけることによって増幅され。「たしかに美しいですね」というフィードバックがあれば実証され。ただの情報のループが幻想をつくりだしているのだけなのです。

となれば、現実って何なのでしょうか。ということになります。



電磁気力というものがあり、物を触るときにも電磁気力が働き、その反発によって認識しているそうです。カラダや物質は無数の原子からできていて、中心にある原子核の周りを電子が回っています。私たちが何かを触るとき、実際には手と物質の間にわずかな距離があり、マイナスの電荷を持つ電子同士が反発することで存在を認識できるそうです。

そして、電磁気力も重力も、すべてのチカラは元々、ひとつかもしれないという研究。宇宙が生まれたばかりの頃は、同じひとつのチカラだったそうです。となると、物の存在性もかなり稀薄なものに感じられますよね。

しかし、稀薄なものであるがゆえに、あなたにはその解釈をある程度コントロールできる可能性が秘められている、といえるのではないでしょうか。たとえば、自然の美しさを“美しい”と認識し、他者と共有することで増幅させる行為は、ポジティブな幻想の表現といえます。

逆に、ネガティブな情報や解釈に囚われると、ネガティブな幻想に支配されてしまうかもしれません。つまり、あなたは幻想の創造者であり、同時にその影響を受ける存在でもあるのです。

そしておそらくは意志が導かれる意識も、根源的な一つのチカラから派生したものだとしたら、あなたが知覚する個々の現象は、その根源的な力の多様な現れに過ぎないのかもしれません。この視点から見れば、自然の表現力は、大いなるものの根源的なチカラが最も純粋なカタチであらわれたものと解釈できるのではないでしょうか。

現実は、たしかに曖昧で、ある種の幻想といえるかもしれません。しかし、その幻想は、あなた自身の解釈と表現によってカタチづくられる、大いなるものの創造性に満ちたものです。


自然の表現力に畏敬の念を抱きつつ、
知覚の限界に挑戦し、根源への探求を続けること。



それこそが、現実と向き合う、最も重要な姿勢なのではないでしょうか。






シュタイナーさん
ありがとう

では、また





Yuki KATANO(ユキ・カタノ)
2025/1/12






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