紫がたり 令和源氏物語 第三百八十六話 横笛(三)
横笛(三)
この秋の夕暮れはなんとも趣深いものであろうかという感慨もひとしおな折、夕霧は一条邸へと赴きました。
草蔭には虫が潜んで、桔梗や竜胆がさやさやと渡る風に揺れながら、夕日がほんのりと薄の穂に照り映え、とある古歌が思い起こされます。
君が植ゑしひとむら薄 虫の音の
しげき野辺ともなりぬるかな
(あなたが植えさせた薄の一群は、時を経て虫が鳴きあう野原となったことよ)
女二の宮もこの夕べのあわれを琴など弾いて過ごされていたようで、御座所には楽器が広げられておりました。
「やはりこのような風情には虫の音との合奏はよいものですね」
「お見苦しいところを・・・」
応対はいつものように母君の一条御息所がなさる。
女房たちが慌ただしく楽器をしまおうと衣擦れが聞こえ、空薫き物の香りが漂うのも皇女の住まわれるに相応しい邸に思われます。
「せっかくなので、楽でも致しませぬか?」
夕霧は女房を制すると和琴をそっと引き寄せてかすかに奏でました。
「これは柏木の和琴ですね。つい爪弾いてしまいましたが、とてもあの人にはかないませんね。妙なる調べを奏でられる人でした。きっとこの和琴には柏木の想いが残っているでしょう。是非とも女二の宮さまに弾いていただきたいものです」
御息所はそんな夕霧にしみじみと答えられました。
「女二の宮は柏木さまが亡くなられてからはこの和琴に触ろうともしませんでした。我が娘ながら楽の才ある宮ですが、ひどく物思いに沈まれておられるのが哀れで、この夕べにはようやく楽器などを出した次第ですのよ。どうぞ柏木の君を偲んでこの琴を鳴らせてあげてくださいまし」
「いやいや、そうしたご夫婦の思い出の御品を私が軽々しく弾くことなど出来ましょうか。こちらは女二の宮さまにお返し致します」
夕霧は女二の宮の和琴の音色を聞いてみたいものだと思うのですが、元々慎ましい御方なので、なかなか弾こうとはされません。
そうしているうちに月が華やかにさし昇り、羽根打ち交わす雁がねが空を渡り鳴いてゆく。
その哀れ深さに女二の宮は筝の琴を少しばかり掻き鳴らされました。
音色の深く懐かしい様になまじ聞かなければ思いも募らぬものを、和琴こそはさぞかし素晴らしい音色であろうかと心がそそられる夕霧の君です。
誘うように琵琶を鳴らしました。
その曲は『想夫恋』という、亡き夫を慕った妻の歌でありました。
「宮さまの御心を慮り想夫恋などを奏でてみました。どうぞご一緒に」
そうして夕霧は誘うのですが、合奏すら恥ずかしいのに亡き柏木を偲ぶ曲など、心裡を覗かれるようで気が張るもの。
宮が沈黙を通していらっしゃるので、夕霧は恨むように詠みました。
言にいでていはぬも言ふもまさるとは
人に恥ぢたる氣色をぞ見る
(言葉に出して仰らないのは、仰る以上に深い想いがあるのだと拝察致します)
宮は未亡人となった身が喪が明けたからとて他の殿方と樂を合わせるなど、と深い溜息を吐き、終わりの方をほんの少し和琴で合わせられました。
ふかき夜のあはればかりは聞きわけど
琴よりほかにえやは言ひける
(しみじみとした秋の月夜の情趣は解しますが、婀娜めいた風流は遠慮させていただきます。琴を返事と致しましょう)
ほんのわずかでしたが、優しい音色が夕霧の耳にまつわりついて離れません。
女二の宮に対する想いは今確かに恋であると自覚した夕霧ですが、軽々しくこの場の雰囲気に流されて愛を告白するのはいかにも風流めいた好色な男の仕出かしそうなことであります。
夕霧は思慮深い青年なので、宮に誠実さを見せることこそ御心が解ける日もあるのではないかと後ろ髪を引かれる思いで座を立ちました。
「風流を気取り調子に乗って楽など奏でてしまいました。あまり遅くなりますと柏木に咎められましょう。しかし願わくば私が次に訪れるまでにこの琴がそのままでありますように」
夕霧は自分以外の男性がこの琴を弾かぬように、と宮への想いをほのめかしますが、さすが御息所はあしらい方に慣れておられます。
それと気付かぬ風に和やかな笑い声をたてられました。
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