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紫がたり 令和源氏物語 第四百四十四話 幻(十三)

 幻(十三)
 
源氏の手紙供養も残りあと僅かとなりました。
どうしてもこれまで開くことのできなかった六条御息所からの手紙の束を今、源氏は開こうとしております。
それは畏れからでした。
あの貴婦人を不憫と思えばこそ、再び嫌悪感にまみれるようなことがあっては、またその御霊を傷つけることになるのです。
「なんと私は意気地のないことよ」
自嘲の笑みを浮かべ、諦めたように溜息をつき、目を閉じてじっと心を落ち着かせました。
心を決めて開いたそこには当代一と謳われた格調高い見事な手跡が広げられておりました。
ただ文字があるばかりであるのに、ここまでくるのに時間のかかったことよ。
私は何を恐れていたのであろうか。
源氏はまた自嘲の笑みを漏らさずにはいられません。
上質な紙にはほんのりと昔焚き染められた香が薫っております。
まだ十代だった頃、源氏は先の東宮妃であった御息所に熱烈な恋心を抱きました。
藤壺の宮への実らぬ想いが深窓の貴婦人へと駆り立てたのでしょう。
若い情熱の赴くままに己をさらけ出して求愛したのです。
未亡人が浮名を立てられるほど恥ずかしいことはありません。
御息所は源氏を拒み続けましたが、その情熱に抗しきることはできませんでした。
源氏は御息所と迎えた最初の朝を思い出しました。
いつまでもじゃれ合いたいとした若い源氏を諭すように夜明け前に送り出された御息所。
思えば当然の態度であるのにそれを冷たいと恨んだ若き日の無知と無謀。
先の東宮妃としてのプライドを守ろうとする御姿さえ今では可愛らしく思われるものをどうしたことで私達の縁はこじれてしまったのか。
そんな思いを抱きながら手紙を読み続けるうちにはらりと青鈍色の結び文が零れ落ちました。
それは葵の上が亡くなった時に寄せられたものでありました。
 
人の世をあわれときくも露けきに
    おくるる袖を思ひこそやれ
(葵の上が亡くなられたと伺って私も悲しいと思いますが、残されたあなたはもっと悲しい思いでしょう。お察しします)
 
この手紙を読んだ当時の源氏は見まごうことのない御息所の生霊が葵の上に憑りついたのを知った後でしたので、言いようもない不快感と憎しみを覚えたものでした。
しかし今改めてこの手紙を読むと、自分を忘れないでほしい、という女人としての御息所の悲痛な叫びが聞こえてくるようです。
紫の上の病に女三の宮の出家と死して後も源氏にまつわりついてきた御息所ですが、このようなささやかな願いが根底にあったのではないか、と今の源氏には思われます。
たとえ嫌われても、憎まれても、心底愛した男に忘れられるよりは、とそんな女心が御息所を苦しめていたのでないかと思われるのです。

源氏は御息所が不憫で涙を流しました。
御息所よ、今日この時をもってあなたを、あなたの罪をも忘れよう。
その御霊もすべてを忘れて無に還るがよい。
そうして源氏は念仏を唱えて手紙を燃やしました。

冴えた空気に本格的な冬の訪れを感じる君なのでした。

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