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令和源氏物語 宇治の恋華 第三十六話

 第三十六話 会うは別れ(六)
 
翌日、八の宮はしばらく邸を空けることを姫たちに告げました。
「よいか、姫たちや。私は明日から阿闍梨のところでしばらく身を慎もうと思うのだ」
「お父さま、それはいつもの勤行をなさりにということですわね?」
大君は改まったように言う父に怪訝な表情を向けました。
「もちろん十日ほどしたら戻って来るが、今年は厄年ゆえ何が起こるかわからぬ。そこで私の思うところをしっかり伝えておきたいと思うのだよ」
「お父さま、なんだか縁起が悪いですわ。そのようなことを仰るのはおよしになって」
中君もいつもと違う父の様子に不安になったようです。
「二人には申し訳ないと思っているのだ。私の心ひとつでこのようなさびれた山里へ連れてきてしまったことをずっと悔いてきた。お前たちが美しく成長してもよい婿を迎えてやることも出来ず、半分俗世にあるような半端な状態で世を嘆く父を頼りなく思ったであろう。私はただただお前たちが心配で世を捨てることができなかったのだ」
「お父さまがわたくしたちを大切に思ってくだすっていることは存じておりますわ。ご自分をお責めにならないで」
「大君よ、あなたは思い遣りがあっておおらかで亡き母にそっくりだ。その穏やかな気性をそのままにな。中君は明るく素直だがいささか思慮に欠けるところがある。お姉さまの言葉をよく聞いて仲良く暮らしておくれ」
「お父さま。そのようなこと、まるで遺言ではありませぬか」
中君は小さく悲鳴を上げるように伏してしまいました。
「二人ともよくお聞き、この世は無常なのだ。いつ何があってもおかしくはない。だからこそ伝えられる時に伝えなければならぬことがあるのだ。思わぬ晩年に薫君と巡り会えたのは私にとって僥倖であった。あの御方は私にあなたたちをけして見捨てないとお約束くださった。それだけでもう何も思い残すことはないのだよ。それほどに私は君を信じているのだ。もしも私がこの世を去るようなことになったら薫殿の助言に従うのだぞ」
八の宮は長く半俗でいらして男親であるのであからさまに薫君との結婚という言葉を口にするのが躊躇われるのです。
「姫たちには厳しいことを言ってしまったな。だがこれも子を思う親の心と許しておくれ。なに、十日ほど経てば戻って来るので心配はない」
そうしていつものように優しく笑う父に胸を撫で下ろした姫君たちです。
それでも一度湧き立った不安の渦はそうそう簡単には解消されませんでした。
翌日山寺へ向かう前に父がまるで別れを惜しむかのように邸のあちこちに佇んでいるのもいつもと違うように感じられ、山寺へ発ってからも不安ばかりが付きまとうのです。
「お姉さま、お父さまは何故突然あのようなことを仰ったのかしら?」
「それは薫さまがいらっしゃるから安心なさい、というお気持ちからだったのではないかしら」
大君も漠然とした不安を感じておりましたが、今ここで二人で取り乱してもどうにもならぬこと、と目を瞑っているのです。
「もしもお父さまが亡くなられたらわたくしたちはどうすればよいの?」
「不吉なことを言ってはいけないわ。そんなことがあるはずがないのだもの」
大君が中君を窘めると二人はじっと口を噤みました。
平安時代には『言霊(ことだま)』と言われる思想がありました。
発せられた言葉に力が宿るという考え方です。
ですから昔の人達は忌む言葉を慎んできたのです。
「このように気が塞ぐときには琴でもなさいとお父さまがおっしゃっていたわねぇ、お姉さま」
「そうね、そうしましょう」
二人の姉妹は互いを励まし、支え合いながら父が戻る十日後を待ちわびるのでした。

次のお話はこちら・・・


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