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令和源氏物語 宇治の恋華 第六十四話

 第六十四話 恋車(二十六)
 
「そう、薫さまはやっと決心して下さったのね」
そうして安堵の表情を浮かべる大君を憎く感じるのは、弁の御許が薫君に肩入れしているからでしょうか。
御許は薫君の傷心を思い遣って胸が張り裂けんばかりに辛く感じておりました。
「大君さまはさぞかし満足でしょう。思った通りになったのですから」
そう皮肉のひとつも言いたくなるものです。
「わたくしは中君がこれで幸せになれると確信しているのですもの。それは嬉しいに決まっているではないの」
「それでは薫さまのお幸せはどうなるのでしょう?」
薫君の幸せ、それはこれまで大君の念頭には浮かばなかったことです。
「わたくしは薫さまがお労しくてなりませんわ。意に添わぬ結婚を受けられるのですから。あれほど愛を重んじていらした方が御心を曲げられるのはよほどのことでございます。大君さまは薫さまの御心を踏みにじられたのですよ」
「薫さまだってきっと中君を娶られれば幸せになると思われたからこそ決断なさったのだわ。あなたはちょっと出過ぎていてよ。あなたこそ薫君の何を知っているというのでしょう」
 
世間も知らぬ姫が賢しらぶって、と弁の御許は不快でなりません。
弁は揺れていました。
薫君の苦悩を真の姿を知らぬこの大君にそれを告げてやりたいとさえ思うのですが、それは未来永劫の秘事に関わることなればおいそれとは漏らせぬものなのです。
かといってこのまま薫君が簡単に心を変えたと思われるのも承服できません。
中君を娶られればこの大君も身内になることでもあり、このような宇治の山里から都へ吹く風もなかろうと御許は心を決めました。
「そういえば大君さまは以前わたくしと薫君とのご縁を知りたがっていらっしゃいましたね。今でもお知りになりたいですか?」
「ええ、中君の背となる御方のことですもの。聞きたいわ」
「まずはこのことけして世に漏らしてはなりませぬ。それを心に留めてわたくしのお話を聞いてくださいませ」
そうして御許は薫君の出生の秘密、君の抱える苦悩のすべてを語りました。
 
いつしか陽は傾き、遠くで鳥が鳴いております。
長い夢にあるように、大君は流れる涙も拭わずに話に聞き入っておりました。
尊い手の届かぬ存在と思っていた薫君にそのような苦悩があったとは、大きな心の傷を知り、薫君に対する想いが溢れて来るようです。
「薫君は父と母の罪を背負うて生まれてきたとおっしゃっておりましたよ。その身にまつわる芳香さえも罪の子という証であろうかと。生涯誰も娶らぬと決めておられた薫さまが初めて心を寄せられたのがあなたさまでございます」
「あまりのことでなんと言ってよいのやら」
「そうでしょうとも。薫さまの御心は誰にもわかるものではありません。わたくしには薫さまの幸せを見届けねばならぬ由がございます。あの御方こそわたくしが愛した君が遺された忘れ形見なのですから」
大君は言葉を失いました。
弁の御許も堪えきれずに涙を流しております。
 
とてつもない話を聞かされて、大君は薫君のいつでも寂しそうにしていた愁いのこもった眼差しが思い起こされ、もしも自分が同じ境涯におかれたならばどれほど辛いことであろう、それを思うとせつなくて、己の意地などとつまらぬもので薫君を傷つけてしまったと後悔の念が込み上げてくるのでした。

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