紫がたり 令和源氏物語 第百八十二話 薄雲(十)
薄雲(十)
秋の宵は深まるほどに物思いが増すものです。
紫の上の元へも渡らず、源氏は手慰みに歌を書き散らして気を紛らわせておりました。
先程の斎宮の女御に懸想を滲ませた軽率を恥じているのです。
自ら苦悩の種を撒く己の性質をまったく厄介であるよ、とまた深い溜息を吐く。
今紫の上と目を合わせれば、あの差しこむような澄んだ瞳を疚しさゆえに直視はできないでしょう。
それどころか他の女人を想っていたことを見透かされてしまうでしょう。
紫の上が明石の小さな姫を本当の娘のように慈しむ姿は、世間一般で噂されるような狭量で醜い継母とは違い、それは彼女の気質の素晴らしいところ、心の清らかさであると感嘆せずにはいられません。
明石の上の身の処し方も分を弁えたあの人らしい振る舞いと感じ入るのです。
源氏としては明石の上にこの東の院に移ってもらうのが、気楽に顔を見ることができて慰めることも容易いのですが、明石の浦で長年暮らした身には京にて他の夫人たちに交じって暮らすのは気詰まりでしょう。
何よりこちらの上(紫の上)を気遣っての大井暮らしと推し量ります。
小さな姫を得た紫の上は以前とは違い源氏の大井通いを寛容な態度で許しております。それは子供を取り上げられた明石の上を気の毒と考えるようになったからです。
身分の重くなった源氏が大井を訪れるのはほんの月に一、二度のこと。それでもその時だけは明石の上を慰めようと心を砕くのです。
嵯峨の御堂にかこつけて山里に赴いた源氏はいまだ癒されぬ母の嘆きを滲ませた明石の上に語りかけました。
「ご覧なさい。あれは大井川の鵜舟の篝火だろうか。まるで蛍が舞っているようで趣深い。あの浦に流離うようなことがなかったらばこのわびしい風景も珍しいと感じたのだろうね」
明石の上が大井川に目を向けると、しっとりとした黒髪がさらりとこぼれるのが艶めかしい。
明石:いさりせし影わすられぬ篝火は
身のうき舟やしたひ来にけむ
(あの篝火は明石の浦にあった時に見た漁夫の漁火を思い起こさせます。きっと京に来ても辛いことばかりの私の心を知って浦からやってきたのでしょう)
源氏:浅からぬ下の思ひを知らねばや
なほかがり火の影はさわげる
(これほどにあなたを想っている私の愛情をあなたはご存じないようですね。そうでなければこれほどまでに篝火の火影のように心を乱しはしないでしょう)
源氏はいつまでも嘆きの深い明石の上の心を恨みますが、こればかりは致し方のないことなのです。
翌日源氏は当初の目的の嵯峨の御堂に赴きました。
指示した通りに御堂は磨き上げられ、美しく飾られております。
月々の法会も行われ、供物も花も必要以上に奉られて、しかしながらそれは形ばかりのこと。
功徳を積んで御仏と縁を結ぶことになるのであろうか、加護を得られることになるのであろうか、と今の源氏には疑問に思えてなりません。却って虚しさだけが込み上げてくるのです。
運命の半身ともいうべき藤壺の女院が世を去ってしまわれた現実は源氏を打ちのめし、その心を弱くさせているのでした。
人は一人で生まれ、死んでゆくという事実を目の前に突き付けられて、それは源氏にも等しく起こることでしょう。
たとい紫の上が共にと願い、源氏も同じように願っても人に与えられた運命というものは変えられようはずがないのです。
虚ろな風が胸の中に去来するのが物悲しくわびしい。
どうしようもない寂寥感だけが源氏を苛むのでした。
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