紫がたり 令和源氏物語 第百五十話 蓬生(八)
蓬生(八)
末摘花の姫はぼんやりと差し込む月を眺めて亡き父宮を偲んでおりました。
実はその日の昼間に故常陸宮が夢枕に立たれたのです。
父宮は穏やかに微笑んでおられました。
もしかすると父宮がお迎えに来てくださるのかもしれない、今となってはその方がむしろありがたいとまた涙が流れます。
末摘花:亡き人を戀ふる袂のひまなきに
荒れたる軒のしづくさへそふ
(亡き父宮を想い私の袖の袂は乾くこともないのに、この荒れてあちこちと傷んだ邸には雨も容赦することはない。雨漏りで滴る水が私の涙と交じり合って袂を重くすることよ)
すると老い女房が血相を変えて御座所に飛び込んできました。
「お姫様、お喜びください。源氏の君がいらっしゃいましたよ」
姫は夢か現かもわからずに茫然として、大きな涙をぽろぽろとこぼしました。
「殿、露払い致しますので、しばしお待ちください。お召し物が汚れてしまいます」
「少しでも早くあの人に会いたいのだよ」
源氏は惟光が止めるのも聞かず、自ら草を踏み分けて露が滴るままに姫の元を訪れました。
姫は涙で霞む視界に愛しい君が微笑みかけるのを、どれほどうれしく打ち震えたことでしょう。
泣き崩れる姫を源氏は優しく抱き起こしました。
「あなたは本当にいつでもやせ我慢なんですから。どうして早くに便りをくれなかったのです?てっきり他の殿方に根付いてしまったのだと、私は見当違いに拗ねていましたよ」
「そのようなことあるはずがありません。あなたの無事を祈りながら、きっと神仏が再び君に引き合わせてくれると信じてお待ちしておりました」
「神仏ではなく、きっとあなたの御父君、常陸宮さまが私たちを引き合わせてくれたのでしょう」
「お父上が・・・。たしかに昼間に夢にお立ちになったので、きっとわたくしを迎えにきてくださるのだと覚悟を決めておりましたのに」
「そのようなことをお父君は望まれておりませんよ」
源氏:藤波のうち過ぎがたく見えつるは
まつこそ宿のしるりなりけれ
(藤の花が松に懸って誘うように揺れるのが美しくて素通りできずに足を止めましたが、実は見覚えのあるこの松が、あなたが私を待っていると教えてくれたのですよ)
末摘花:年を経てまつしるしとなきわが宿を
花のたよりに過ぎぬばかりか
(あなたを長年待ちわびて、破れて甲斐もない私の宿を藤の花を愛でるついでに立ち寄ったとは、ただ通り過ぎずに訪れた気まぐれでございますか)
「これは、まいった。姫、随分歌も上達されたようですね」
「いつも君に教授されたことを思い返しておりました。わたくしなどまだまだですわ」
涙に濡れて、いつもの赤い鼻がさらに赤く染まるのを見た源氏は、この人のこの可愛らしい赤い鼻を知っている男は私だけなのだな、と愛おしさもひとしおに優しい笑みを浮かべました。
「もう何も心配することはありませんからね」
「はい」
変わらずに素直で純情なその姿に、改めてこの姫をけして見捨てまいと心に刻んだのです。
数年後、二条邸の東院が築造され、老いた女房達もろとも姫は源氏の元へ迎えられました。
夫の任期を終えて、都に戻ったあの意地の悪い叔母が地団駄を踏み、歯噛みしながら悔しがっていたであろうことは語らずともおわかりでしょう。
侍従の君は姫が幸せになられたことを心から喜びましたが、何故もう少しお側で辛抱できなかったのか、とそれを悔やんでいたようです。
それでも本当にお幸せになられてよかった、と人知れずうれし涙を流したのでした。
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