見出し画像

令和源氏物語 宇治の恋華 第十四話

 第十四話 橋姫(二)
 
御仏に心を寄せる薫の耳に『俗聖(ぞくひじり)』と綽名されている尊い御仁の噂が聞こえてきました。
その御方は源氏の弟宮、亡き桐壺院の第八皇子なのでした。
本来ならばそのように揶揄されるようなご身分ではありません。
皆さんは源氏が須磨・明石へ退去した時のことを覚えておられるでしょうか。
朱雀帝の御世、源氏と藤壺の女院の御子である冷泉院が次の帝である春宮に立たれておられましたが、桐壺院亡きあと、源氏の排斥を狙った故桐壺院の后・弘徽殿大后と政治を牛耳っていた父である太政大臣は、新たな春宮を立て、冷泉院を排斥しようと目論んだのです。
その手駒とされたのが源氏の腹違いの弟、桐壺院八の宮なのでした。
八の宮は幼い頃に母も父も失い、世の理すら処世術も学ばずに大人になったような御方でした。
女人のように鷹揚で際立つ才は楽に関してだけのもの。
琵琶よ琴よ、と世間を知らずに浮世離れして生い立ったのです。
親の愛も知らず、皇子という尊い身分ながら誰にも目を向けられることがなかった宮は優しげに接してきた弘徽殿大后の思惑を見抜けませんでした。
八の宮は弘徽殿大后の誘いに乗り、その庇護を得ようとして源氏に敵対する勢力に与したのです。
純粋な宮はただただ利用されたばかり。
しかしその行動は何もわからぬからと許されるわけではありません。
人はその両足で立った時から己に責任を持って生きなければならぬ生き物なのですから。
天は弘徽殿大后とその父の行いを許しませんでした。
源氏が都を追われたことで天は荒れ、地は恵みを失いました。こうした天変の兆しは世を治める帝の不徳とされ、人心は不安に惑うたのです。
朱雀院自身も源氏をないがしろにして父の遺言を破った呵責と己の器の足りなさに悩み、その身を蝕むように病みました。
頼りの太政大臣も天の下された罰を蒙って世を去ったもので、源氏の復権を渋々許した弘徽殿大后でしたが、愛し子である朱雀帝は僅かな在位で退くこととなったのです。
源氏の子である冷泉帝が晴れて帝位に就き、その立場を失った八の宮も息を潜めるように遁世するしかありませんでした。
そしていつしかその存在は忘れ去られたのです。
 
世はまさに源氏謳歌の御世を迎え、八の宮は自身が選択を誤ったことを悟りました。源氏は自分に仇為した者達を罰することはありませんでしたが、それまで寄ってたかって宮をまつりあげた親族や恩恵を蒙ろうとした腹黒い輩は無言で宮に背を向けたのです。
なかには代々伝わる宝物をこっそり持ち出す者などもあり、宮は多くの財産を失いました。そうなると邸の使用人も少しずつ姿が見えなくなり、昔から仕えてくれた者たちだけが残ったのです。
しかし宮は孤独ではありませんでした。
誰よりも純粋に宮を愛する妻が側にいてくれたからです。この北の方はもともと権勢のあった大臣の娘。それなりの財産を持っていたもので、宮は妻に養われるように遁世しておられました。
そうかと言って北の方には夫を養っているという意識はありません。
木の葉が川面に翻弄されながら流されるように不運に見舞われた宮が労しくて、心からの愛情を持ち大きく包み込むような、そんな穏やかな女人だったのです。
二人は庭で睦まじく寄り添う鴛鴦を静かに眺めながら、自分たちの姿と重ね合せて永劫に共にあることを誓い合いました。
「いつまでもあの鳥のように睦まじくいよう」
「ええ、あなた。たとえこの身が朽ちても心は傍らにあるのですわ」
そうして笑む妻の儚げな美しさが眩しくて、この人まで喪うことになれば己は生きてゆけるのか、と不意に惧れが頭を持ち上げるのは、妻以外に大切な者などはないのだ、という一心からなのです。
互いをただ一人の人と頼みとする姿がいじらしく、お二人に心を寄せる者たちはこのような慎ましい幸せがいつまでも続いてほしいと願うばかりなのでした。
ほどなくして北の方は懐妊し、美しい姫を産みました。
この姫の誕生を夫婦は喜び、ささやかに笑い合う幸せな日々に大きな光が加わったように思われました。そうして北の方は再び子を身籠り、その誕生を待ち望んだ宮でしたが、まさか次の出産が宮を絶望させる結果になろうとはこの喜びの時には思われないのでした。
月満ちて北の方はまたもや美しい姫を産み落としましたが、此度の出産は産後の肥立ちが芳しくありませんでした。北の方はすっかり弱り切り、寝付いたまま頭を上げることも出来なくなってしまったのです。
医療の発達した現在でも出産は女性にとって命を削る大仕事ですが、寿命も短い平安の人達にとっては、まさに生きるか死ぬかの大変な瀬戸際なのでした。
北の方はそれから半年ばかり永らえましたが、とうとう露が消えるように世を去ったのです。
「たとえこの身が朽ちても・・・」
その言葉は宮の耳から離れることはありませんでしたが、半身を亡くしたように空虚で、ただただ漏れるのはまさに慟哭。
宮は深く嘆き苦しまれました。
残された幼子たちを哀れとも思うのですが、悲しみが深いばかりに目が塞がれてしまったのです。

次のお話はこちら・・・


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?