紫がたり 令和源氏物語 第三百七十一話 柏木(一)
柏木(一)
柏木の病状は一向に改善されることもなく年は改まりましたが、この年の始まりはこうしたことから華やかな新年の祝いというのは控えられております。
世には重苦しい空気がたちこめて、今上も柏木が快癒するよう使者を遣わして下さいます。それでもやはり人は生きようという気力がなければどうにもならぬものなのでしょう。
柏木はあの日、六条院で絶望したのです。
そしてこれから生まれてくる宮の御子の為にもすべてを背負ってあの世へ旅立つ方が罪障が軽くなるのではないかと思われて、そうなると自然に食べ物が喉を通らなくなるのでした。
痩せ細ってゆく柏木の脳裏には源氏はこれで私を許してくれるであろうか、宮は少しでも哀れと思って下さるであろうか、ということばかりです。
せめて人に知られずとも我が子が誕生したという報せを聞いてからあの世に旅立ちたいものだと願う柏木ですが、生まれてくる子を思うほどに、自分を心配して嘆く父母の親心に胸が痛んで不憫でなりません。
柏木が人知れず重い罪を犯したのを知らぬ父母はなんとか息子を救おうと位の高い僧や名のある陰陽師を呼び寄せては破格のお布施や祈祷料を惜しまずになげうつのです。
この愛を注いでくれる人たちよりも先に逝くというのはどれほどの不孝になろうか、そう考えるだけでもまた涙が溢れてくるのです。
柏木はまだ体に力が残っているうちに、と女三の宮へ宛てて手紙をしたため、小侍従に託しました。
もう柏木とは関わり合わないと決めた小侍従ですが、このように生死を彷徨う人の願いを無下にするほど無慈悲な女人ではありません。
それどころか柏木の弱り果てた姿を見て深く同情しました。
それはとりもなおさず、この青年がもう助からぬように感じられたからなのでしょう。
小侍従は人気の少ない折を見計らって女三の宮に柏木の手紙を差し出しました。
「宮様、これは柏木様からの最期のお手紙になろうと思います。どうか本当の御心を伝えてあげてくださいまし」
「この期に及んでまだ取次など。そんな手紙なぞ見たくもありませんし、返事も書きたくありません」
宮は源氏に手紙を見つけられたことから、もうこりごりとばかりに頑迷に拒絶されました。
「柏木様はもう長くはないと思われますわ。それでも宮様はかける情けも持ちあわせておられぬのですか?」
「わたくしのほうが死んでしまいそうであるのに、あなたは残酷なことを言うのね」
小侍従はこの宮が自分のことばかりしか考えられぬのを浅はかな、情緒も解さぬ者よ、と軽蔑しました。
「そうして宮様はご自分だけが可哀そうだと思っていらっしゃればよいのですわ。柏木様も最期となって虚ろを愛したのだと知るでしょう。そもそもあなたは人を愛するということがおわかりなのですか?子の母になろうというのに意志というものがないのですか?」
女三の宮は長年小侍従を側近く召しておりましたが、このように烈しく詰られたことは一度もありませんでしたので、たいそう驚かれました。
他の女房と違い気安くずけずけと物を言うことはありましたが、最後には味方になってくれる乳姉妹と思っていたものが、今は面と向かって自分を非難しているのです。
人の気持ちや意志など正直宮の生活には無視しても何も支障を来さなかったもので、考える必要もなかったものです。
それが柏木が現われてからはすべてが変わってしまいました。
源氏の態度が変わったことからも宮は以前よりはいろいろと考え悩むことも多くなっておりました。
その流れがあまりにも性急すぎてついてゆけないほどに未熟な姫なのです。
宮はじっと考えました。
「情けとはどういうものなの?手紙を読んで返事を書けば情けをかけたということになるの?」
このいらえに小侍従は言葉を失いました。
「宮様は柏木様を愛していらしたのでしょう?」
「どうしてあたくしがあの方を愛するというの?」
小侍従はてっきり二人の心が通い合っていたのだと思っていたものを、そうではなかったのか、と何かが掛け違っていたことに愕然とするのでした。
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