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令和源氏物語 宇治の恋華 第五十一話

 第五十一話 恋車(十三)
 
匂宮が中君と順調に交際を続けているのを見て、薫はやはり宇治へ赴くのに躊躇しておりました。
しかし季節は夏になり、もう半年以上も宇治を訪れておりません。
この年は殊更に暑さが厳しくて、避暑を兼ねて挨拶に伺おうかと考えている薫です。
秋になれば八の宮さまの一周忌も取り計らわなくてはなりませんし、ずるずると日を伸ばしてもいずれは宇治へ行かなければならないのです。
いつまでもくよくよ悩んでいても仕方がない、と薫は心を決めました。
「惟成おるか?」
「はは、いつでもお側に控えておりまする」
「明日宇治へ出立する。遣いをだしてその旨をあちらへ伝えておくれ」
「かしこまりました」
ここのところ塞ぎこんでいた主人が気掛かりであった惟成もほっと胸を撫で下ろしたようです。
「早馬であちらに知らせよ」
そう指図すると明日の車の支度をさせるよう準備を抜かりなく進めさせました。
宇治の山荘では久方ぶりの薫君のお越しということで、若い女房たちも顔を明るくしてうきうきと、活気に溢れておりました。
大君とて薫君を心密かに待ちわびておりましたので、おくびにも出しませんが嬉しくてそっと頬を染めたのです。
弁の御許の言葉は今も大君の胸に深く突き刺さり、心を揺らしますが、薫君にお会いできると思うと胸が弾むのを抑えられません。
「失礼のないように御座所をしつらえてちょうだい」
大君は弁の御許に見抜かれるのが恐ろしくて若い女房たちに薫君をもてなす支度をさせました。
なんとも複雑な乙女心でしょうか。
素直に人を愛することの素晴らしさを知らぬ、盛りを過ぎた姫君なれば頑なを貫くしかできないようです。
なんともはや・・・。
 
翌日、朝も涼しいうちに出立した薫は山中を進む車の中でもいまだ惑うておりました。
いったいどのような顔をして大君に挨拶すればよかろうか。
いっそ型どおりの慇懃さで何食わぬ顔をしてやりすごそうか。
懸想を滲ませるのは男としては潔くなく、かといって大君に安心されてもそれはそれで面白くない。
まったく恋というものはなかなかどうしてうまくゆかないものなのです。
宇治の山荘に着く頃には陽は中天にあり、じりじりと焦がすように辺りを照らしておりました。
いつも薫が通される東の廂の間は日差しが強く、西の廂の間に案内された薫は姫君たちの御座所のすぐ側ということで緊張しました。
耳を澄ますと姫君たちの身じろぐ気配が伝わってきてどうにもじっとしておれません。
姫君たちは客人に近すぎるということで居間の反対側に移ろうとしているらしいのでした。
かねてよりこちらに通じる襖に穴があるのを心得ていた薫は悪戯心もあって覗き見をしてやろうという気になりました。
ところがこちらの屏風を除けてそっと覗いて見たものの几帳がしっかりと立てかけてあるので内側を見ることはできませんでした。
なんと残念、と溜息をついたその時にあちら側の御簾が風でめくり上がってしまったようです。
「御簾が・・・。大変ですわ、外から丸見えに」
動揺した女房がこちら側に立てかけてあった几帳をめくり上がった御簾の代わりの目隠しとしてあちら側へ運びました。
なんとも間抜けな話ですが、薫君からは部屋の内が丸見えになってしまったわけです。
思わぬ成り行きについにんまりと笑ってしまう薫でしたが、一人の姫君が外へ立てかけられた几帳の陰に寄り外を覗き始めたので、まじまじとその様子を観察しました。
薫の隋人たちが物陰で寛いで涼むのをもの珍しそうに覗いているのです。
濃い鈍色の単衣に萱草色(オレンジ色に近い赤味を帯びた黄色)の喪服姿の姫はすらりとした肢体の立ち姿の美しい御方でした。
御仏に向かう際に掛ける帯を無造作に背中に結び垂らして、袖に数珠をひき隠している姿であるのにどことのう匂やかであるのは愛らしい横顔のせいでしょうか。
生え際も美しく、豊かな黒髪は長くつやつやと輝いております。
そのなよやかな姿に薫は当代の美女の筆頭として挙げられる女一の宮(匂宮の姉)を思い出しておりました。
幼い頃に一度お会いしましたが、優しげで目が洗われるように麗しい御方であった記憶があります。
とても山里で生い立った姫とは思えぬ気品に溜息を漏らさずにはいられません。
そして同じ色合いの喪服を身に着けた姫が薫の視界に入ってきました。
それはまさに寝ても覚めても恋い焦がれる大君その人です。
「中君、何を熱心に見ているの?」
「お供の方々が寛いでいらっしゃるのが珍しくて。何か冷たいものをさしあげたほうがよろしいかしら?」
「そうねぇ。今日は特に暑いわね。川風の当たる場所へご案内さしあげなさい。あら?あちらの襖側には屏風のひとつもないではないの。こちらが丸見えになってしまうわ」
そうして首を傾けるとさらさらと緑の黒髪がこぼれるのが美しい。
思慮深く嗜みのあるその姿は凛としていて惹きつけられずにはいられません。
「あちらのお部屋に屏風がありますので大丈夫でしょう。まさか薫君に限って覗かれることなどありませんわ」
そう言う女房の言葉は耳に痛く感じますが、覗かないでおればさぞかし後悔したことでしょう。
「そのようなことになったら大変だわ。さぁ、あちらのお部屋へ移りましょう」
そうして静々と歩み去る姿はゆかしい人柄と見えました。
中君よりもほっそりとした手つきはあくまで優美でしっとりと落ち着いた風情の大君こそ薫には慕わしく思われます。
 
ああ、やはりこの人を我が妻としたい。
 
それまで惑うていたものが、抑えていた心がまた熱く薫を突き動かすのでした。

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