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令和源氏物語 宇治の恋華 第五十七話

 第五十七話 恋車(十九)
 
大君に招かれて御簾の前に伺候した薫は教典を三巻ほど書き終えた報告をしました。
「願文をしたためるまではいきませんでしたが、八の宮さまを思って心を込めてしたためました」
「此の度も御配慮はありがたく存知ますわ」
風が通り抜けるように聞いたその言葉が本心からであればどれほど嬉しいことか、と薫は思うだけで、直に言葉を聞いても以前とは違い感激は薄れているのです。
ぬらりくらりと何度となく躱されてしまいには妹を娶れとは、大君には見縊られているという思いもあったのかもしれません。
どんなに心を込めて訴えてもこの姫には届かぬ、そんな諦めが薫の心を塞ごうとしているのでした。
「喜んでいただけてようございました。私の及ぶ限り尽くさせていただきますので」
素っ気なく答えると薫は盃を干しました。
そのおざなりないらえに大君の心には不安の波が押し寄せてくるのです。
薫君の愁いを含んだ横顔は端正で、心ここにあらずといった風情も色香のある美しいものでした。
宵には特に高まる薫君自身の芳香が大君の冷徹な判断を狂わせようとするのです。
このような殿方を前にしてはどんな女人でも物怖じすることでしょう。
じっと身じろぎもせずに美しい薫君の面を覗き見る大君はいつしか己が卑怯なように感じるのです。
 
どうしてこのようにすべてが備わった御方がいられるのであろう。
もしも薫君に少しでも足りぬところがあれば心安く打ち解けるものを、そう思わずにはいられないのはこの人が尊いばかりであるゆえか。
あの弁の御許とはどうした関わりであるのかも打ち明けてくださらぬ。
 
「薫さまこそこのようにわたくしが心を許しても本心を見せてはくださりませぬ」
ふいに漏らした大君の言葉は薫には聞き逃せぬものでした。
「あなたを愛しているという心を示す以外に何を表せというのです」
薫の射るような瞳がまっすぐに差し込んで、大君は己の放った言葉を恥じました。
「わたくしはなんと言ったらよいのでしょう。疲れて変なことを申し上げてしまいました。これにて失礼させていただきますわ」
薫は逃げようとする大君の袖を捕えました。
「私に聞きたいことがあればおっしゃってください。あなたには隠さずになんなりとお答えします。その代わりにあなたの心も私に見せてください」
ついに薫はその隔てられた障壁を越えて大君を腕に抱いたのでした。
わずかにあらがいながらもたおやかに顔を背ける大君に愛しさは増すばかり。
「ずっとこうしてあなたを腕に抱きしめることだけを願ってきたのです。私の気持ちがおわかりか」
そう耳元に熱く囁かれるだけで四肢の力が抜けてゆくようで、女人の無力さを見せつけられる大君なのです。
薫君に抱きしめられて己を見失わんほどに恍惚とする自分と、それを蔑む自身がせめぎあう。
その辛さに大君は涙がこぼれそうになるのでした。
紙燭の炎が揺らめく静寂(しじま)にただ二人。
女房たちは潮が引くようにしめやかに御座所を離れてゆきました。
 
 
薫君の抱擁は春のそよ風のように柔らかでした。
意に染まねばいつでも抜け出られるゆりかごのようで、まるでこの君を表しているようです。
それが心地よいあまりに大君はじっと身を委ねているのでした。
この尊い人が無理強いはすまいというのを知っていたからでしょう。
「私が八の宮さまをお慕いしたのはこの世に身を置きながら御仏に仕えられ清らかでいられたからです。私はこの身に大きい罪を得て世に生まれ落ちたのですよ。その罪障を少しでも拭うべく早くに出家を望んだものですが、周りはそれを許してはくれなかった。ですからこの世にほだしも作るまい、妻も娶るまいと生きてきたのです。それが師とも仰ぐ宮さまに近づくことであなたに出会ってしまった。なんと皮肉なことでしょうか。あなたはご存知ないかもしれませんが三年ほど前の秋、私は川霧に惑いながら月影にあなたを垣間見てしまったのです。それからはもうどのような戒めもこの耳には届かなんだ。恋におちてしまったのですよ」
大君は思わぬ告白に驚きました。
つい父宮の遺言に従っての意向かと思いきや、その前よりも想いを懸けられていたとは。
衝撃ではありましたが、こちらにも落ち度があったという悔しさよりも、よくも長く想ってくれていたものだという感慨が込み上げてくるのです。
「存じませんでしたわ」
「そうでしょうとも。ずっと叶わぬと秘めてきた想いですから」
薫は大君の長い黒髪を掻き分けて月明かりにその整った面を確かめました。
凛とした蓮の花のようでありながら伏し目がちの長いまつ毛が愁いを含んで艶な風情がえもいわれません。
「美しい」
ほんのりと頬を染めた大君は山の端に浮かぶ月を眺めました。
 
この月はすべてを知っていたのね。
 
今大君はたしかに薫君に対する恋情を思い知ったのでした。
それと同時にもう自身の心を変えられぬことも。
 
これはひとときの夢なのだわ。
 
大君にはこの思い出だけで残りの人生を悔いなく生きてゆけるように思われるのです。
じっとそのまま互いの体温を感じながら夜はしらじらと明けてゆきます。
「私はあなたとこうしてただ移ろう季節やほんの美しい情景を静かに語らいながら生きてゆきたいのです」
「まだ喪服を脱ぐ前にこんなことをなさって、とても信用なりませんわ」
そうして美しい恨み顔を作るのも打ち解けてきた証拠であろう、と薫には嬉しく感じられます。
「せめてまだほの暗いうちにでもお部屋にお戻りくださいませ」
大君は女房たちの手前決まりが悪くて仕方がないのです。
「今更私達の間に何もなかったなど信じる者はおりますまいよ。どうぞ観念なさって私の妻になってください」
「不躾にずいぶんなことをおっしゃるのね」
「まぁ、まぁ。この有明の月の名残を惜しむとしましょう」
そうして手を引くと大君は素直に端近ににじり寄りました。
その楚々とした姿が乙女らしく初々しい。
「これが本当の(あなたと契りを交わした)暁の別れであったらばどれほど嬉しいことか。暁の別れの辛さというものを初めて知りましたよ」
薫は遠くに鶏の声を聞きました。
 
薫: 山里のあはれ知らるる聲々に
     とり集めたる朝ぼらけかな
(山里ならではの風情に満ちた声を集めたような朝ぼらけであるよ)
 
大君: 鳥の音も聞こえぬ山と思ひしを
      世の憂きことは尋ねきにけり
(鳥の声も聞こえぬ閑寂な山里と思っていたのに、世間のせわしい声が私を物思いするように訪れてきたことよ)
 
「あなたを物思いに引き込むことができたとは、私に好意を抱いてくださった証ですね」
そうして爽やかに笑う貴公子が大君には眩しくてならないのでした。

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