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<書評>『深層文化論序説』

 『深層文化論序説』 上山春平著 講談社学術文庫 1976年。三つの論文から構成されており、「深層文化論序説」は、1977年の『日本の社会文化史全7巻 第1巻井上光貞編「原始・古代社会」』 講談社1973年、「人間学の位置(原名「学問の地図と人間学」)」は、山田慶見編『人間学への試み』筑摩書房1973年、「縄文の石垣」は、京都大学人類学研究会編『季刊人類学』第6巻第3号 講談社1975年に、それぞれ掲載されたもの。

『深層文化論序説』

 裏表紙の紹介には、「著者は、フロイトの『深層心理』に対して『深層文化』という一つのポテンシャル・パワーを設定する。そして記録として定着した文字、遺物、遺跡など手がかりにして、現在われわれがおかれている社会的な位置を明確にしようとする。すなわち、本書は、日本文化の本質を明らかにする一方、“人間はいかに生くべきか”という問いにも答えようとした一つの試論である。」とある。つまり、心理学と考古学を基に現代社会論及び人生論を述べたものとなる。

 こうした前提を踏まえて読んでいった(実は若い頃に読んでいるが、既に忘れているので)が、一番感じたことは、「とても読みやすい」ということだ。それは、もともと講演で発表したものを文字に書き起こしたことにもよるが、著者が難解な用語を多用しやすい哲学を専攻しているのにも関わらず、なるべく平易な言葉で誰にでも理解しやすいように自説を述べているからだ。そして、自説を展開する前提となる心理学、哲学、科学などの諸学説までも懇切丁寧に説明している。この説明を読むだけで、難解と言われるカントやヘーゲル、そしてフッサールの哲学が、いとも簡単なものに思えてくるから、これは良い本だと思う。

 そういう観点から本書は、中学・高校レベルの子供たちが、(哲学などは無益無用な学として、学校で教えていないかも知れないが)哲学を学ぶときにそのまま使える非常に良い教材になるのではないか。いや、是非この本を教材にして、中学・高校で哲学を教えるべきだと思う。実際に使用されている教科書を全て調べたわけではないが、本当に本書はとても良い教材だと思うので、是非中学・高校の教科書に入れてもらい、子供たちに哲学を教えることを痛切に願う(とはいえ、中学・高校の社会科の先生で、哲学をきちんと教えられる人はかなり限られそうだが・・・)。

 しかし、こうした哲学史上の著名な哲学者の思想に関して、敢えて簡易な説明をすることは、それが簡易である故に不十分にならざるを得ないのは致し方ない。また、大学の哲学の専門家から見れば、誠にいい加減な決めつけと根拠不明の記述と一掃されることが容易に想像できる。でも、それはそれで良いのだ。一部の人にしか理解できない難解な言葉と概念、そして専門家だけが知る特殊(業界)用語を多用した論文に、大衆の啓蒙や学習という観点からは、そこに価値があるとはみなせない。それに加えて、単行本や文庫本などの「解説書」という前提を置けば、一部の特定の人たちしか理解できないものであっては、その目的を達成していないことになる。単行本や文庫本での「解説書」は、専門家の視点からは不完全だと指摘されても良いから、大衆にわかりやすいものであることが最も重要なのだ。

 以上のような読後感を踏まえつつ、私の関心を惹いた箇所を引用して紹介したい。ページ数の次の( )内は小題である。また、理解しやすいように(注)を適宜加えた。また、一部には、<参考>を付けた。

「深層文化論序説」
P.25(深層文化論と人間学)
 私がいま取り組んでいる深層文化論というのは、フロイトが心理の面からやろうとしたことを、文化の面からやっていこうとしているのである。フロイトの研究でやや欠けていた、社会的存在としての人間、自分自身というものをみていく。人間を社会というコンテクストのなかでみていく。フロイトの精神分析は、患者にいろいろしゃべらせ、言葉を一つの手がかりにしているのに対して、深層文化論では、記録として定着した文字、それから文字以外の遺物や遺跡などを手がかりにして、われわれ個人のおかれた社会的な場の姿を明らかにしていく。これを、ある意味で、自分自身をより深く知っていく一つの手がかりとして考えたい。それが私の意図である。

P.38-39(危機意識と天皇)
 私は大戦の末期に、特攻隊にいたのだが、特攻隊にいたというだけで単純に社会から受け取られるように、私が天皇中心の国粋主義に心酔していたかというと、正直回顧してみて、どうもそういう形ではなかったように思う。(中略)

 私などの場合、日本の国の運命というものと、自分たちの肉親のイメージが結びついて、日本の国というものと自分の運命というものとの、ある種の一体感ともいうべきものが感じられたように思う。そして、その一体感のなかには、天皇という観念が、なんとなくただよっていたようにも思う。しかしそれは、いきなり天皇という一点に収斂するというものではなくて、天皇という存在をその中で育ててきた一つの共同体めいたものと自分との関係を、連続的なものとして感じるといった格好なのである。

「人間学の位置」
P.89(6 人間の学問)
 学問のタブローは四つあるというのが、ぼくの提案の要点である。それを第一図(注:ピラミッド状の階層があり、一番下から物理学、化学、生物学と続き、最上段に人間学が積み重なっている)のように一つだけ考えてもらっては困る。いまの小学校からの教育は、ワン・タブロー(注:一つだけのキャンバス=画布)の考えを暗黙の前提としている。子どもたちには、中間のサイズのタブローに描かれた等身大の学問がなじみやすいと思うのだが、普遍学(注:ユニヴァーサル・サイエンスとしての物理学、化学、生物学)を水で薄めたようなことをやるから、大部分の子どもには何もわからない。

P.92-93(7.自我学のタブロー)(注:自我学とは、「自分自身の内をのぞく学問」)
 (カントによれば)悟性というものがあって、感性を通して入ってきた材料をこね上げて対象をつくる。感性の時間、空間というフィルターに対応する悟性のフィルターとしてカテゴリーというものがある。因果性とか、実体とか、質とか、量とか、そういうもののことだ。

 このカントのやったようなことをもう少しスマートにやったのが、フッサールの現象学だと思う。これは、外の世界を見ている普通の自然科学や常識のやり方を、いっぺんカッコに入れようという。それ見ていてもよろしい。しかし、何を見ているかというようなことは問題にしない。とにかく見ているというのはこっちの作用だ。相手は全部カッコに入れる。そのカッコに入れられたところを問題にするのが、常識とか自然科学なのだ。

そういう常識とか自然科学のものの見方を彼は「自然的態度」というのだが、それを逆に内へ向けるのを「現象学的還元」という。これは、ソクラテスやプラトン以来のやり方であって、昔からいろいろと看板は変わってきたのだが、同じことだと思う。しかし、だんだんまわりの学問が強くなるから、武装して、しゃべり方がむつかしくなっていく。フッサールに至っては、頭の痛くなるほどむつかしいことばで書いている。しかし彼は数学者で、算術基礎論なんかをやってきたから、ほかから文句をつけられないように上手に書いている。(中略)

 ・・・私は論理学というものを自我学の分野のなかでもっともゲンミツな形にきたえ上げられたものと考えているが、主観的な意味とか、価値の問題をとりあつかえるような新たな記号学の体系ができるところにまでいかなければ、十分ではないと思う。いまのところはただタブローを確保するのに精いっぱいといったところだ。

<参考>
 記号学と論理学の関係については、20世紀後半に構造主義が出て来て、哲学に言語学理論を基にした記号学を入れたものが発展した。それらは、レヴィストロース、メルロポンティ、フーコー、デリダ、ドゥルーズなどによって、様々に研究されたが、ここで述べられているようなレベルになっているのか否かは、私にはよくわからない。むしろ21世紀初頭の時点では、構造主義とか現象学は、少しだけ時代遅れというイメージになっている感がある。ではこれに代わるものが出ているのかと言えば、不勉強な私はわかっていない。

 ただ、私の肌感覚では、厳密な科学は一般の人が容易に理解できないレベルに進んでしまった(未だに、相対性理論を説明する本が書店に沢山並んでいる。ニュートンの万有引力の知識が、小学校で教えるレベルになるまで300年近くかかったことを考えると、あと100年は必要かも知れない)。そのため、もっと感覚的で単純に理解しやすい、オカルトサイエンスが流行している。また、新興宗教の拡大もその傾向の一部なのだろう。いうなれば、江戸末期のお伊勢参りと「ええじゃないか踊り」と同じものだ。

「縄文の石笛」
P.142(蛇足)
 ・・・たとえば、物理学や化学などのように、宇宙の全物質を対象とする学問を「普遍学」とよび、とくに地球という限られた天体上の動物・植物・鉱物などの自然物や気象・海洋などを対象とするさまざまの学問を「地球学」とよび、地球上の人間だけをとりだして対象とする人類学・社会学・政治学・歴史学などの学問を「人間学」とよぶ、といったぐあいに、対象の外延の大きさにしたがって、学問の世界の設定が異なり、それそれの世界のグラマー(注:方法・規定)も異なってくる、ということになろう。ここでは、「普遍学」、「地球学」、「人間学」などについて立ち入った説明はいっさい省略せざるをえないが、比喩的表現を許していただけるならば、人間に関する学問の分野における「科学」幻想の基本的な錯誤は、「普遍学」のグラマーをいきなり「人間学」の世界に適用しようとした点にあり、これは、(注:縮尺が大きすぎて使えない)千万分の一の地図で山歩きをしているようなものだ、といえよう。

<参考>
 一時の「科学万能」というイメージは、最近薄れてきたようだが、「科学」が「IT」という言葉に置き換わって、「IT万能」というイメージが広く蔓延している。「ITなら、なんでもできる」という、万能思想が世界を支配しているように思う。そして、通貨も、物々交換から硬貨・紙幣に変化した後、今は仮装通貨という実態のないものに変化しつつある。そのうち、人間の存在(肉体)も実体のないデータ(電気信号)になってしまうかも知れない。

 その時には、人間学というものはこの世から消滅するか、または古生物学の一部になっているのだろう。そして、この観点から考えれば、人間学は普遍学とイコールになり、哲学や精神分析の世界も単純なコンピュータ理論になるのだろう。ただし、その時に人間はいる(存在している)とは言えないことになる。人間学の消滅は、人間の消滅ということになりそうだ。


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