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<閑話休題>死にゆく準備

 「いきなり、不吉な題名だな」と怒る方もおられるかも知れませんが、自分が「死」に近い年頃になったこともあり、最近「死」を良く考えます。また、三年前にルーマニアで、自分が新型コロナウィルスとインフルエンザに同時感染し、肺炎に罹って死に損なったこと、さらに同時期に二歳下の妹が、冬のヒートショックにより風呂場で溺死したこと、もっとさかのぼれば十九歳のとき、病気持ちだった父が自宅で突然死したことはみな、「死」というものを身近に感じる契機となっています。

 一般に、「死」は悪いことだとされています。もちろん、生きている人の集団により機能している社会や家庭において、人が死ぬことで機能停止になってしまう場合では、生き残った人たちは大変に困惑することになるでしょう。また、死んでいく人たち自身も、死ぬことが怖いと強く思っています。誰もが死にたくない、できるだけ長く生きていたいと強く願っています。

 ところが、「死」は万人に対して平等に訪れます。死なない人は絶対にいません。そして年齢を重ねるということは、「死」に毎年近づくことになります。もちろん、その人の寿命がどれくらいかはわかりません。聖書に登場する人物や悪魔のように数百年生きる人はさすがにいませんが、百歳まで生きることが珍しいことであるように、人が生きている時間は限定されています。さらに、健康であると心身ともに自覚して生きられる時間は、もっと少ないものとなっています。

 私の母は、数え年で八十八歳になりますが、東京大空襲を生き延び、中年以降に山歩きをしたくらいに元気だったのが、今や足腰が衰えて杖をつき、遠出が難しくなりました。幸いに、よくしゃべるためか認知症は免れていますが、こればかりはどうなるかわかりません。その母の家に、最近月に三~四回訪問しています。その理由は、妻が我が家を使って料理教室を週末に開催するため、邪魔者である私は実家に避難しているからです。しかし、幸いにも母のご機嫌伺いができています(といっても、自分で持ち込んだ酒とつまみで宴会をしているのですが)。

 その中で、いつも母と死ぬことを話題にしています。母は、私が話す内容を聞いて、「お前は、そういうことを知っているのだから、山寺のお坊さんにでもなればいい」とその都度言います。私も、定年退職後は、種田山頭火のように山寺の寂しい寺で句作をしながら余生を過ごしたいと思っていますが、あいにくと実現できていません。もちろん、本気で探していないことが一番の理由ですが、まだまだ憂き世の義理から離れることができないこともあります。

 ところで、新型コロナウィルスが流行しているとき、「コロナで年寄りはすぐに死ぬ!」「年寄りを殺すのか!」、「年寄りをコロナに感染させるな!」という世間の大合唱が、そこら中に響き渡っていました。私は、(自分も既に十分年寄りですが)年寄りを蔑視したり、忌避したりする意志は毛頭ありません。また、実母についてはできるだけ元気で長生きしたもらいたいと願っています。しかし、年寄りと「死」ということを考えると、私は「年寄りが死ぬのは自然なこと」、「年寄りが若い人より死にやすいのは当たり前」、「年寄りは死ぬものだ」と思ってしまうのです。

 それは、私の「死」に対する考え方の違いから来ます。私は、「死」は怖いものではなく、また悪いものでもないと思っています。人は寿命が来たら、自然と「死」を迎えます。もし、それに対して悪いとか怖いとか否定的な感情が湧いてくるのであれば、その人は「死」を迎える(心の)準備が出来ていないのではないでしょうか。

 「死」を避けることは出来ない上に、いつ自分に訪れるかはわからない。それは、戦国時代の武士にとっては自明のことでしたから、武士たちは今すぐに死んでもよいように、常日頃から心の準備をしていました。平和になった江戸時代でも、遠くへ旅立つ人は、行き倒れる可能性を考えて、自分の着ものの襟に硬貨(小判)を縫い込んでいたといいます。これは、行き倒れたときに野良犬やカラスの餌食にならないように、誰か親切な人に埋葬してもらうためです。そのせいか、日本中には無縁仏の墓が沢山ありますし、旧街道筋にはそうした行倒れた人を慰霊するお地蔵様が沢山あります。

 今は戦国時代ではありませんし、もちろん武士のような社会概念(軍人は近いと思いますが、武士と同等の概念ではないでしょう)はありません。しかし、死ぬことの確率は、(増減ともに)そんなに大きく変わっていないと思うのです。医学の発達により、多くの怪我や病気は治療できるようになった上に、インフラ整備などで生活はより清潔・快適になっています。しかし一方では、交通事故やテロなどの犯罪に遭遇する可能性や、それまで発見されていない病原菌の出現や、ウィルス自体の進化・強力化の可能性もあります。さらに、精神面・心理面では、戦国時代と比較して陰湿な形で蝕まれる要素が増加しているように思います。

 そうした中で、いかにして「死」を迎える準備を整えるのか。これが、年寄りによって必要なことではないでしょうか。そして、私は実家に行く度に、酒を飲みながら、母にこんなことを繰り返し話しています。幸いに母も、(自分自身と比較すれば、学歴が高く、物知りである)息子の言うことには黙って聞いてくれます。

○ 肉体と魂は別ものだから、肉体が死んでも魂は死なない。
○ 肉体は、所詮魂が仮住まいしているだけの場所。そこに執着することに意味はない。
○ 肉体は、劣化し消滅する一時的なものだから、肉体が死ぬのは自然なこと。
○ 死を避けたり、怖がったりしてはいけない。死を超然と迎えたい。
○ 死を超然と迎えるために、人は人生を生きてきた。一時の栄耀栄華を楽しむためではない。
○ 魂は永遠に生き続ける。次の肉体に入るときのために、今の魂を大切にしたい。
○ 魂を大切にするということは、真面目に生きること。一時の感情に流されないこと。
○ 運命や寿命は予め決まっている上に、人がどうしようもできないものだから、現在だけでなく過去や未来に待ち構えている不幸さえも、死を迎えるために必要なものとして、甘受すること。そうすることで、死を全うできる。
○ 過去の苦労や悲しみは、未来に昔話をする楽しみに変わる。人ができることの全ては、今現在を真面目に生きること。
○ 葬式も墓も死んだ人には不要なものだが、生き残った人が必要だと思って執り行うのであれば、死んだ人は何も言えないし、できない。

 そういうわけで、小さなグラスの恵比寿ビールを飲みながら、母がいつも私にこう言うのです。
「お前、どこかの寂しい山寺に行って、お坊さんになればいいよ」
 私は、ちょうど小腹が空いたので、母が作ったきんぴらごぼうの煮汁を、炊き立ての湯気が立つ白飯の上にかけ、餓鬼の如く食べ始めます。家の外では、もう日が暮れかかっていました。明日もたぶん、晴れるのでしょう。


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