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【1.5万字無料】チューリング・マシンから始まる〈計算〉の世界——『現代思想』の〈計算〉特集を読むぞ!

*Kindle Unlimitedでもお読みいただけます!

*新刊紹介を起点としたダイアログのシリーズです。
*本の紹介をしたり、感想を話したりしながら、より広く、哲学思想の考え方や面白さにも触れることができるような記事を目指しています。

しぶたにゆうほ(以下「しぶ」) 現代思想の2023年7月号、「〈計算〉の世界」特集の、最初のインタビューと、【foundation】の一連の論考までを読んだので、今日はその紹介と感想をしゃべります。全体が【interview】【foundations】【philosophy】【sciences ; technologies】【genealogy】の5つに分かれているのだけど、今回言及するのは最初の2つまで、です。

『現代思想2023年7月号 特集=〈計算〉の世界』青土社、2023年
以下、引用・参照の際、出典はページ数のみを記します。

しぶ 現代思想のこの前号(6月号)の特集が、「無知学/アグノトロジーとは何か」で、そのさらに前号(5月号)が「フェムテックを考える」で、どちらも一種の科学論と言えるものだったので、多分たまたまだけど、理系の学問に深く関わる特集が続いているね。

八角 ペンギンだ! なんで表紙にペンギンが飛んでるの?

しぶ それは知らない……。

八角
 株式会社「遊学」の代表。
 京都大学大学院 修士課程修了(文学)。
 哲学をやっている。

しぶたにゆうほ
 株式会社「遊学」の一員。
 京都大学大学院 修士課程修了(文学)。
 専門を尋ねられると、大学では「数学基礎論」、大学院では「宗教言語論」と答えていた。

しぶ 人におすすめしたい本だったので、おすすめポイントを3点にまとめてみた。順に話すのであれこれコメントして話を広げてください。単に本の紹介にとどまらず、計算について普段と違う角度から考えることの楽しさとかが伝わればいいなと思います。

① 計算の身体的・物質的側面について考えを深められる(計算の抽象的「じゃない」部分を考えたい人におすすめ!)
② 計算がどのくらい大変か、自体を俯瞰するというロマンを感じられる(途方もないスケールの話を考えたい人におすすめ!)
③ 計算にまつわる知識をマッピングできる(勉強したい人におすすめ!)


1 計算の身体的・物質的側面について考えを深められる

1・1 身体

しぶ まず、①計算の身体的・物質的側面について考えを深められる。「身体」の話からする。普通、計算というと頭の中で完結するものというイメージで、抽象的で観念的というか、完全な世界でロジカルに決まっているように思える。だけど、じつは計算はぼくたちの身体に関わっている。例えば筆算は手で行っている。身体的でない部分もあるし、身体的な部分もある。「人間がやってもやらなくても計算は計算だろ」とも言えるし、「人間がやるという要素は重要だろ」とも言える。こういう問題をどう考えればいいのか。とか、そういうことについて色々考えたい人に、この特集はおすすめできる。

八角 具体的にはどんな議論があるの?

しぶ 例えば、最初の森田さんのインタビューなんかが典型で、森田さんは『数学する身体』という著書もあって、身体性についてはもともと深い考察をしている「独立研究者」。この特集に関して言えば、2021年に『計算する生命』っていう本を出していて、テーマともぴったりな方。

八角 なるほど。インタビューで、そういう身体の話もしてるの?

しぶ 例えばインタビュー内で、なぜ『計算する生命』で「計算」を扱ったんですか、と質問されているんだけど、それに対して森田さんは、そもそも独立研究者になった時に新しい行為を発明したいと考えていて、「研究や学問をするうえで、何かをわかるためには自分なりの「わかりかた」を作るところから始めなくてはいけない」と考えていたからだ、と答える(8-9頁)。

 要するに認知とか認識の捉え方を更新したいという考えで、そのときに「計算」というものから考えると面白そうだと思った、と。なぜかというと、計算は認識の拡張だから。

八角 計算は認識の拡張なんだ。

しぶ ここでさっき言っていた身体性が関わってくる。少し引用すると…

「計算は「まだ意味のない方」へと僕たちの認識を拡張していく行為であり、身体だけでは確かめることのできない、人間中心的な世界の外側へと、僕たちの認識を引きずり出してくれる」

(9頁)

 数学というのは手で計算するという点では身体的。でも、そこだけでは終わらずに、身体的な直感を超えていくところがある。だから、認識についての捉え方を更新するにあたって、そこから考えるのは面白いんじゃないかと思ったということらしいですね。

八角 キリスト教についての研究で、祈りの行為から考えることがあるよね。あれも祈りという身体に依っているところから話を拡張していく。身体から始めるというのは考えやすいのかもしれない。

しぶ 似てるね。祈りを手がかりにする場合も、最終的には超越について考えたいわけだけど、いきなり超越的なことを考えるんじゃなくて、自分の手の届く行為を出発点として、「そこから超越に向かうというのはどういうことなのか」と考える。

八角 そう。

しぶ 認識の拡張というこのあたりの話は、非常にしっくりくるところがある。なぜ数学で厳密さを重んじるかみたいなことについて、以前ある先生が、「厳密にすることで直感で理解することのできる部分が広がる」から。「新しい直感が創り出される」からだと言っていたのを思い出した。

 これは確かに数学を実際にやっている感覚に合っているんだよね。たとえば高校の数学でも、三角比を三角関数に拡張する。最初は目に見える三角形から話を始めるんだけど、それを関数として定義し直すことで、いわゆる絵に描ける三角形を超えたところまで進む。

 最初は身体的なところから始めるんだけど、厳密に定義することによって、最初の時点では身体的じゃなかったところにまで同じ定義を拡張する。そうするとだんだんそれに馴染んでいくと、その拡張された方の世界観がだんだん身体的に馴染んでいって、今度はその直感を使ってもう1回拡張する。そういうことが数学ではすごく多い。「計算が身体に基づいていて、その認知を拡張していく」という捉え方は、数学をする具体的な経験からいっても実感に合っている。

八角 折り畳まれているイメージなのかね。

しぶ 存在論的に言えばそうなるのかな。「折り畳まれている」というと、拡張して初めて見える風景が最初からあるみたいな印象になるのはちょっと気にかかるけど。つまり、拡張以前に最初からあったのかどうかは意見が分かれると思うので。

八角 直感と厳密さは違う話な気がする。直感に合っているということを保証するために厳密であるから大丈夫なんだよって言っているように聞こえて、違和感があるというか。

しぶ なるほど。ここで言いたかったのは、「直感以外に定義とか決める必要がないんじゃないですか」っていう意見に対して、「いや、直感の外に行くために定義を厳密に決めるねんですよ」って話。

八角 それはそうだと思うんだけど、何か変な感じ。

しぶ 「厳密にするのは、テクニカルな別の理由があるだけであって、それに後づけ解釈をしてるだけじゃん」みたいな、そういう違和感?

八角 そうそう。元の森田さんの話に対してではなくて、君のコメントに対してね。

しぶ それ自体はそうかな。文脈なしで「直感の外に直感を作るためにやってるんです」とまとめると目的論的すぎるかもしれない。まあ、解釈が好きなんです、ぼくはね。ともあれ森田さんの話に戻ると、「計算」と認知の拡張を関連付けて考えてるっていうのが森田さんの発想だった。そして、それは計算と身体との関係をどう考えるかという話とつながっている。こういうのが面白いよねという話。

八角 表紙のペンギンが飛んでるのも、人間性からの飛躍なんじゃない!? 「人間ができないこともできるよ!」みたいな。

しぶ 身体から始まって、身体性を超えていく計算。なるほど。まあ、表紙は偶然だと思うけど…(笑)。

1・2 物質

しぶ もう1つが「物質」の話。現代の計算は手作業だけではなくて、むしろコンピュータで行われている。そうすると、今度はモノとしての側面が問題になってくる。ぼくたちが行う計算というものは、抽象的で観念的であるように見えて、実は身体と深く関わっていた。それと同じように、コンピュータが行う計算というものは、抽象的で観念的であるように見えて、実は機械というモノの物質性に深く関わっている。
 最近の話題で言うと、いろんなことをAIがやるようになったりすると、物質的な領域が抽象化していくような印象があるけど、実際には例えば、AIを動かすのに大量の冷却水が必要で、GoogleとかMicrosoftとか、他の企業も、水の消費量が最近すごい勢いで増えているというのがちょくちょくニュースになってるよね。これなんかも、コンピュータが実は物質だということを思い出させる話だよね。

八角 水の消費増えてるんだ(笑)。海外だと水は高いんじゃないの?

しぶ そうかも。あと、よく「クラウドにデータがあるから大丈夫!」みたいな話があるけど、万が一サーバが破壊されたら消えるわけだよね。ぼくたちはしばしば忘れがちだけど、コンピュータは物質。

八角 この本に即していうと?

しぶ 例えば、河西棟馬さんの「「計算」概念の多元性」という論考(36-50頁)は、コンピュータ科学が始まったばかりのころ、「計算」という概念にかなりバリエーションがあったという話をしているんだけど、それだけバリエーションがあった理由の1つは、コンピュータという機械がいくつもの階層を持っているからだと論じている。

八角 分からない。もうちょっと具体例を。

しぶ まずコンピュータは、金属とか半導体とかで物理的に作られているよね。こういう物理的なレイヤーがある。その上に、いわゆる0と1の世界、機械語のレイヤーがある。そしてさらにその上に、我々が普段なんとなく知っているプログラミング言語とかのレイヤーがある。こういう風に、コンピュータは多層的になっている。

 コンピュータによる計算の話をしているとき、同じ話をしているようでいて、実際には人によって、どのレイヤーに関心を持つか、どのように関心を持つかが違う。それが違えば、計算概念の捉え方も変わる。河西さんの論考は、今言ったような話を単に抽象的に議論するのではなくて、コンピュータ科学黎明期の人々の具体的な発言とかから思想史的に明らかにするというものなんだけど。例えば、この河西さんの論考の3節の部分を見るとなんとなく雰囲気がわかる。

3-1 工学的理解:ハードウェアとしてのコンピュータ
3-2 数値計算:計算とは文字通り数値計算のことでは?
3-3 数学的・論理学的理解:「機械が行う知的プロセス」としての計算
3-4:現象論的理解:計算とは計算機という場で発生している現象である

しぶ コンピュータによる計算は確かに抽象的なものだけど、コンピュータがモノである以上、そのモノの多面性を無視することはできない。この場合だと、コンピュータというモノが多面的だからこそ、人によって注目する場所が変わってしまって、計算という抽象的な概念が別様に理解され、議論が展開するということが起きる。まさに物質レベルと概念レベルの往復みたいなことが起きている。こういう話はとても面白い。

八角 ハードかソフトかみたいな話だね。

しぶ まさにそう。その関連で言うと、河西さんの論考では、コンピュータの歴史は「ハードからソフトへ」と見ることができるという話もあって、ぼくが特になるほどと思ったのは、そもそもコンピュータは電気工学科から始まったという話(38-39頁)。つまり、プログラミングみたいな話が出てくるのは少しあとで、最初はとにかく機械を作るという発想だった。この辺りは、また後で論考ごとの感想のときに触れると思うけど。

八角 うん。

しぶ ハードとソフトと言えば、最初に名前が出た森田さんの『数学する身体』を昔読んだときに印象に残っている話があったのを思い出した。どんな話かというと、ハードウェアを、生命の進化を模したような仕方で人工進化させたところ、ある計算を遂行するのに論理的に必要なはずのパーツ数より少ないパーツでなぜかそれができてしまった。論理的にありえないということで調べてみると、通常であればノイズとして取り除かれるような電磁的な漏出が、うまいこと利用されていたことが発覚する。この話は本の中で身体の問題とのつながりで論じられるんだけど、まさに計算において「ハード=機械」の物質性を考えることは身体を考えることとつながっているなと思う。だから、身体(1・1)と物質(1・2)という2つの話をしたように聞こえると思うけど、2つは同じ話でもある。

1点目のまとめ!
 計算は抽象的で観念的に思えるが、実は身体やモノと深く関わる。
 しかも、その関係は絡み合っていて、たとえば計算は身体から始まりながら身体を超えていくようなところがあったり、モノ的な性質によって抽象的な計算概念が影響を受けたりする。
 こういった話に関心がある人におすすめ。

2 計算がどのくらい大変か、自体を俯瞰するというロマンを感じられる

しぶ おすすめポイント2つ目、「②計算がどのくらい大変か、自体を俯瞰するというロマンを感じられる」。あとでチューリングマシンの説明と一緒に詳しく説明すると思うけど、計算可能/計算不可能っていう、ちゃんと定義されている用語があって、要するにある計算が与えられたときに、それがいつかちゃんと終わるのか、それとも無限に終わらないのか、ということが問題になる。

八角 終わらないと困るもんね。

しぶ それで、さらに強調したいのは、計算が「ちゃんと終わる」っていうときの規模も、ここでチラシの裏にちゃちゃっと式を書いてハイ終わりですみたいなものだけじゃなくて、超ハイスペックなコンピュータとかをガンガン使って何十日かかって解けますみたいなものも「ちゃんと終わる」なんだよね。

八角 とにかく終われば「計算可能」なのね。

しぶ そのレベルで、計算が終わるかどうかということ自体を俯瞰的に考えられるというのは、すごく壮大で楽しい。ロマンがある。普通、計算のことを考えるときって、とにかくその目の前の答えが大事で、答えが出ればいいし、抽象化したとしてもせいぜい「答えをどう出すか(どう計算するか)」くらいだと思うんだけど、今どう解くかとは別の次元で、計算に対して「計算可能/計算不可能」を考えるというのは雄大というか、遠大というか。昔は手計算でやってたから、計算できる規模ってたかが知れている。でも、現代だと計算するのはコンピュータなので、めちゃくちゃ高速計算だから、つまり大規模な計算ができる。

八角 だからスケールが大きい。

しぶ 実際、計算量が膨大なものがたくさんあるっていうのは現代社会を生きていると直感にわかるよね。例えばスマホで行われてるちょっとした処理を自分が筆算でやってたら間に合わないだろうなあとかね。

八角 「計算不可能/計算可能」の2択なら、すぐ話が終わりそうだけど。

しぶ もっと色々ある。「計算めっちゃ大変」の中にも、「ありえないぐらい大変」から「まー大変っちゃ大変だけど常識的な大変さ」まで、いろいろあるし。要するに、計算するのにめちゃくちゃ時間がかかりますよってなっても、「時間がかかりますよ」の中にも色々バリエーションがあって、「ありえないぐらいめっちゃ時間がかかる・結構時間かかる・まあまあかかる」みたいなのがあるわけ。そこにちゃんと言葉があって理論があって、もっと解像度を高くできる。こういうときにはこれぐらいの時間かかるけど、こういうときにはこのぐらい時間かかるっていうものの関係性を、だんだん外堀を埋めていくみたいにやっていく。それ自体を数学で扱える、というのはわくわくする話だよね。

八角 この特集の中ではどう登場するの?

しぶ 例えば、渡辺治さんの「計算の世界へ」(26-35頁)という論考に「計算限界の神秘」と題された話がある(30頁〜)。ある計算をコンピュータにさせるときに、どういうアルゴリズムを用いるか、つまりどういう順に何を処理するかということを考える必要があると。そのとき、より良いアルゴリズムなら速く解けるんだけど、果たして速くなる限界はあるのか? あるとしたらその限界は? ということが問題になる。

八角 現実的な問題だね。

しぶ アルゴリズムは人間が手作業で作るわけだから、「やってみた結果、この手続きよりもこの手続きの方が速かったですね〜」とかは分かるけど、理論的にどのくらい速くできるかってのは普通分からない。毎回やってみて「こんなに速くできたんだね」って気付くみたいな感じなので。だけど、それでも限界はあるんじゃないか? みたいな抽象的な問いはある。そういう話が出てくる。「効率化に限界はあるのか?」という問い。なんとなく話がでかくていい感じでしょう。

八角 なるほど。「計算可能」の中でも色々考えられるんだ。

しぶ こういう問題を実際に考えるのが計算複雑度理論って言われているものらしい。基本的には、限界あるっぽいけど今のところ証明できない、っていうのが大半らしいね。渡辺さんの論考では、例としてP≠NP予想の話が出てきて……。

八角 待って! 数学が分からない人に分かる説明をしてください。

しぶ まあ、「あるタイプの計算問題が、ある意味において、効率的には解けないはずだ!」という予想があって、それを証明しようとしてるんだよ。あ、その関連で面白い話があったんだけど、「解けないことを研究する意味はあるの?」ってよく質問されますみたいなことが書かれてて、「そうか、なるほど、そういうこと訊かれるのか!」と思った。冷静に考えてみると、確かにそういうことは言われそうではある。

八角 むしろ「解けることをやることに意味があるのか??」って感じだよね。

しぶ 哲学的にはね…(笑)「解けるんだったらいいじゃん!」(笑)

八角 解けるものをやるのは教育の問題でしょう。

しぶ 「解けないものを解こう」ならみんな理解できる。ここで言われているのは、解くことを目指すのではなくて、メタ的に「(効率的に)解けない」という結論を研究する意味があるのか、という質問だろうね。

八角 まあね。

しぶ 面白いのは、渡辺さんはその質問に対して弁明してて、まず第1に、解けないってこと自体が役立つ場合があると。セキュリティー技術とか、暗号とか。「実はこの暗号って簡単に解けるんですよ」とかって後から発見されると困るから、原理的に絶対に解けないことが証明されていることは、むしろ正しい。確かに説得力がある。

八角 うん。

しぶ 第2に、一定以上効率的に解けないということがわかったとしても、その前提の中で比較的マシなアルゴリズムを発見はしたい。その発見のために、「一定以上効率的に解けない」ということの解像度が上がってることはすごく役立つという弁明。

八角 そういうのあるよね。宇宙に行く技術もさ。別にみんな地球にしかいないし、宇宙に出ていかなくていいんだからやらなくていいけど、宇宙空間で検証してみることで、発見されたこともあるよね。

しぶ 「なぜ宇宙ではこれができないのか?」を考えた結果、別のところで役立ったりとかね。

八角 それこそが科学の発展だと私は思うけどね。つまり、ある意味で考古学みたいなものでさ。その瞬間には苦し紛れっていうかさ、「宇宙空間で使える◯◯」をわざわざ開発するなんて短期的には非効率かもしれないけど、そういう状態じゃないと思いつかないこともある。0を1にするっていうのは非常に重要だし、そういう発想は通常とは違うような極限状態でしか出てこない。

しぶ すごく科学に対して優しいね(笑)。良き市民としての意見というか、一般的に科学研究が擁護されてるときのやつだ!

八角 そりゃそうだよ、優しいよ。私はそんなに科学の勉強はできないけど、科学はとても良いものだと思ってる。

しぶ とにかく、「解けない」ことを考えることで、具体的に進展することがある。「解けないから良い」みたいな禅問答ではなく、非常に実際的な話として。

八角 実際、「哲学をやる意味なんてあるの?」に対する正しい解答も、こういうところにある感じがするよね。型がここにある。

しぶ かなり近いはずだよね。「哲学は答えがない」とか言ってるときの「答え」って、究極的なところについて極端に言っているだけであって、その手前まではかなり色んな概念整理とか、「何と何が繋がっていて、何が何に依存してその主張がなされているのか」みたいなことは、かなりやってる。だから、究極的に答えがないとされている問題について考える手がかりを哲学は与えてくれる、ということはもっとベタに説明されていいと思う。

八角 論理性とか合理性とか。論理的な説明可能性が増やせるってことだよね。

しぶ ある主張とある主張がぶつかっているとして、それは表面でぶつかっているのか? そうではなく、本質的な、お互いに譲れない原理みたいなものでぶつかっているのか? もし本質的にぶつかっているんだとしたら、それはどの部分がぶつかっていてどの部分では意見が一致してるのか? ……とか、そういうのはもっと細かく見ることができる。

八角 そう。哲学について、そもそも説明が放棄される場合があるけど、あれはよくないよ。煙に巻くというか。何か説明しようっていう気がない。「もし説明するなら、今から私が話そうと思っていることよりも長い話が必要になるし、それがいつ終わるか分からないから」って、結局自分がしたい話をするために煙に巻いたりする。そういうのはとても良くない、優しくない。それに対して、数学を説明してくれる人は煙に巻かない。どれだけ時間がかかったとしても説明が達成できると思ってる。それがとてもいい。

しぶ 「解けないことの研究に意味がある」を具体的に説明するというロジックは、ほかの分野でも学ぶところが多いね。ちなみに、今の話は渡辺さんの論考の話だったわけだけど、淵野さんの論考(「計算、証明、有限、無限」(64-82頁))も、「……などの研究をしてもしょうがない」というよくあるコメントに対する批判的応答みたいなことで締め括られているので(77〜78頁)、合わせて読むと面白いかもしれない。

八角 要するに、「計算不可能/計算可能」の2択で話が終わりじゃなくて、例えばとして、効率化の限界みたいなものを考えることができるのはわかった。話の広がりとして、他の例はある?

しぶ 例えば、木原さんの論考「数学における《計算可能性》の厳密化、抽象化、そして発展」(51-63頁)なんかも、別の意味で「計算可能性」を具体的に見ていくものだね。具体的に、数学のいろんな分野で「計算可能性」ということが考えられていて、そのいろんな分野の計算可能性を見ていく。代数だったらこうだよねとか、解析学だったらこうだよね、みたいな話。アイデアレベルのものもあるし、厳密なものもあるようだけど、より実際の数学の例を見たい人にはこういうのも楽しいと思う。

八角 なるほど。

しぶ 他にも、淵野さんの論考「計算、証明、有限、無限」(64−82頁)だと、「計算できるはずだが、計算に必要な時間やメモリーのリソースが物理的に可能でないかもしれないものについて、数学的証明という形でのアプローチが可能であるようなもの」(67頁)とか、「計算のアルゴリズムはあるが、その計算や、同じ計算をするための他のどんなアルゴリズムについても、必要となる時間やリソースが物理的な制約の中に入りきらないようなものになってしまう、というような計算」(68頁)とかが登場する。「計算不可能/計算可能」というところから、いくらでも話が広げられるという雰囲気は感じとれるんじゃないかな。

2点目のまとめ!
 コンピュータで行われるような膨大な計算を相手に、「計算可能/計算不可能」ということ自体を問うことができるという壮大な世界がある。
 しかもそれは、単に「計算可能/計算不可能」という2択に答えて終わるのではなく、効率化の限界を具体的に考えたり、数学の様々な分野での計算可能性を具体的に考えたりなど、話はどこまでも広がる。
 こういうスケールの大きい話に関心がある人におすすめ。

3 計算にまつわる知識をマッピングできる

しぶ おすすめポイント3点目、「③計算にまつわる知識をマッピングできる」。この特集は、いろんな話が互いにオーバーラップしてリンクしていくし、基礎的な部分がかなり教育的に書かれているので、読んでいくだけで計算にまつわる知識の脳内地図が補完されていく感じがある。身も蓋もないおすすめポイントだけど、要は勉強になるということです。

八角 さっきも「実際の数学の例」がどうのこうのって話が出たけど、この号は高校生でも読める? つまり、数学の基礎知識は要るんですか。

しぶ 例えば、「高校の数学の知識が絶対必要です」とかってことはないよ。数学的な基礎知識はほとんどいらない。局所的に、「ここだけ慣れてないからきつい」みたいなのはあると思うけど、基本的に要らない。

八角 「計算」というものを大体知っててイメージできればいい?

しぶ そう。今回扱ってるのはファウンデーションの部分だけど、ファウンデーションというだけあって基礎的な話が多い。【foundations】の論考全体に言えることとして、教育的配慮があるというか、初学者の前提として基本事項の説明をしてくれる論考が多い。こういうの、入門のフリして読者置いてけぼり暴走列車みたいになりがちだけど、かなりブレーキかけてるのを感じた。

八角 2つ思うことがあってさ。第1に、数学とか算数って、みんな相当、苦手イメージがあるんだよね。だから基本的な配慮をしないといけない、という発想が説明する側にある。

しぶ 数学は苦手経験を意識しやすいもんね。中学校までずっとあるし。

八角 数学って、他と言語が違いすぎる。だけど、数学の言語というのは収束しているから、ちゃんと辞書みたいなものが成立するんだよね。例えば哲学とかだと、言語上の辞書なんて成立しない。だから毎回、言葉上で戦いが起きる。数学は、言葉を分かるのにすごく労力が必要なんだけど、分かったらそれを他の人と話せる。そこが全然違う。

しぶ 共通言語なんだよね。

八角 共通言語が成立する。そこから言いたかった第2の点につながるんだけど、たぶん数学をやってる人たちって、説明を求められることが多いと思うんですよ。「何言ってるか分かんない!」とか言われて。そして重要なことは、「説明できる」ということ。

しぶ 説明する対象があるからね。

八角 それが厳密な学のいいところだよ。哲学だと、説明しても分からなかったり……。

しぶ 定番のパッケージングされた説明がないからね。数学は、もちろんかなりの努力は必要だけど、原理的にはパッケージ化できる。

八角 数学が超えなきゃいけない壁って、例えば、小学校の割り算とか、中学校でxやらyやら出てくるとか、グラフの頂点がどうのとか、微分のときに「本当はそうじゃないんだけど、これでいいんだよ」とか、間は省略できるんだ、みたいなところでしょう。そういうところが、もうすでに高校までの勉強で超えられてるから、基本的な認識を1から更新する必要がない。高校よりもっと前でも、小学校でも中学校でも、そこまでの勉強があって、そのアドバンストの話をずっとやってる感じだから。もちろん実際にはアドバンストの話じゃないことの方が多いけど、そうだとしても例がちゃんとあったり、多義的じゃない。

しぶ 学校だとテストとかがあるし、一定の進度で授業が進むから、「自分は基準に対して追いついてない」と感じたりとか苦手意識を持ったりとか、が起きやすいのは不幸だけど、少なくとも苦手になるという経験はできる。つまり、「数学という特殊な言語がある」ということ自体は説明しなくても済むんだよね。苦手意識それ自体が教養になっている。

八角 逆に、哲学は、小学校から高校まででみんなが教養として持っていることが逆に……。

しぶ 足かせになる?

八角 そう。例を出したときに、多義的すぎて確定できない。「それが何の例なのか?」ということで誤解が起きる。しかも哲学の問題なところは、それぞれに組み合わさってるっていうこと。1個分かっても、それが本当に分かっているかどうかを検証できない。検証するなら他のことを持って来ないといけないけど、「他のこと」と「先に説明したこと」が整合的に理解されていないといけない。でもそんなことはできない。

しぶ なるほど確かに。

八角 哲学は次元が違うものを組み合わせることが多い。でも数学は連続的にあるものを圧縮することが多いから、「ちゃんと1個1個説明すれば分かるでしょう」ってなってる。だからみんな、それを今まで努力としてやってきている。

しぶ コストはかかるけど、かけた分だけちゃんと共通言語として使えるので、必要としている人はとにかくやればいい、というわかりやすがあるね。

八角 解釈の問題じゃなくて、技術の問題なので、やればやっただけ良い。「ちゃんとわかる」というのは「もう1回再生産できる」ということだし。そしてその言語はちゃんと厳密だし、やりがいがあるなって思いましたね。それに引き換え哲学は……。

しぶ 哲学、説明できること別に増えないんだよね。「本当にわかってんのか?」って言われちゃうしね(笑)。

八角 哲学やってると言語が厳密にならないから。その場その場で、新たな言語が作られるし。

しぶ その話はすごくリアリティがあって、ぼくは学部生のときに数学半分、哲学半分みたいな生活をしてたわけなんだけど、精神的にしんどくなると、まあどっちも手がつかなくなるんだけど、数学と哲学とで全く感覚がちがう。数学は「今できないだけで、過去に順を追って理解したことは間違ってない」って謎の信頼があるのに対して、哲学は「今までの『わかった感』は全部妄想だったんじゃないか」っていう疑念の沼に沈み込んでやばい。それぐらい明確に違いがある。

八角 さらに言うと、おそらくこれは偏見ですけど、全ての学問の中で数学の人が1番優しいんだと思う、人間的に。

しぶ ポジティブな偏見(笑)。

八角 人間だろうが論文だろうが、説明する内容は同じだから、説明を尽くしてくれる。怒ったりしない。相手がどんな人でも、共通の説明があって、それでうまくいかなければ、その前から説明してくれる。それでもうまくいかなければ、さらにその前から。悪意の入る余地がない。

しぶ ネット上の数学界隈だと、マウント取ったり取られたり、マスハラ(数学の知識などを用いた嫌がらせ)みたいなのが問題になったりもするんだけどね……。

八角 自分よりできないっていうので馬鹿にすることもあるかもしれないけど、それは同時に、自分よりできる人もいるという話でしょう。評価基準が明確で、多義性がない。

しぶ まあ、どんな世界でも、評価基準がたくさんあると揉め事の火種が多くなるよね……「お前は本物の◯◯じゃない」みたいなロジックが無限に作れちゃうから。

八角 多義性がないことは良いよ。安定してるよね。根本が安定しているかは別として、1回成立した後の世界は安定している。調和していて、精緻で。ま、私は数学出来ないんですけどね!

しぶ 数学基礎論をかじった人間としてはその「根本」の話をしたいところだけど……(笑)。それで何の話だったかというと、どの論考も最初に基本説明がしっかりあるのでありがたい、という話でした。かなり教育的に書かれている。

八角 教育的っていうのは良いことだよ。強調していい。

しぶ 全体的に、めっちゃブレーキかけてくれるんだよね。「本題は?本題は?」みたいな感じで終わる。褒めてますよ。「ちゃんと丁寧に説明してくれるうちに紙幅が尽きたぞ!?」と思ってたら、最後にちょろっと、「実はこういうことにも関心があって…」←いや、そこを読みたい!! みたいな感じのが多かった。そういう意味で、きっちり勉強したい人にもおすすめです。このファウンデーションのとこだけ読んでも、計算とか、コンピュータの話とかについて、かなり勉強になると思う。

3点目のまとめ!
 この特集では、トピックが互いに連関し、また基本的な要素がわかりやすく説明されている。
 読み進めることで計算に関する知識が整理されていく。
 勉強したい人におすすめ。

計算とは? チューリングからはじめよう

八角 ところで基本的な質問なんだけど、一般に、どういうものが「計算」として見られるの? 四則演算とかは分かりやすいけど、どこまでを計算と見なすのかが分からない。

しぶ 「一般に」? うーん、数学を普通にやるときの日常言語として、厳密に「これは計算、これは計算じゃない」って線引きされているというイメージはないけど。

八角 でも何かしら、一定の共通見解みたいなものはあるでしょう。

しぶ まあ、最初の状態があって、最後の状態があって、その最初の状態から最後の状態まで手続き的に進んでいく、みたいなのは計算と呼ぶ感じがする。

八角 推論は?

しぶ 推論も計算。手続き的に進むという意味で「推論が計算だ」ということにそんなに違和感は持たれないと思う。たとえば「今雨が降っている」と「今雨が降っているならば、地面は濡れている」から「地面が濡れている」が帰結する、みたいなのは手続き的だから計算ですよねと言われたら、それはまさに計算だねっていう感覚だと思う。

八角 そうなんだ、それは自分と距離がある。

しぶ 推論を計算として捉えようという発想は、17世紀くらいにはすでにあるよ。ホッブズが「推論は計算だ!」と言ってるし、それに影響を受けたライプニッツは普遍言語を作ってそれを実際にやってみせようとしている。現代的には論理学だよね。あと、ぼくが卒論とかでやっていた内容にちょっと関連するものとして「定理証明支援系」っていうのがあるんだけど、あれは簡単にいうと、「正しいかどうかを人間がチェックしきれないような数学の証明を、コンピュータ上で検証する」システムだから、推論を計算として処理する実際的な具体例と言える。「4色あれば同じ色が隣接しないように地図を塗り分けられるのか?」という「四色定理」の証明がこれでチェックされたという話が有名。

八角 この特集でも「計算」はそういう仕方で理解されているの?

しぶ 木原さんの定義がクリアな表現でわかりやすいんじゃないかな。「「計算」とは、端的に言えば、「有限的な操作からなる有限ステップのプロセス」である」(51頁)。いずれにしても、【foundation】に限って言えば、かなり前提は共有されている。というか、ほぼみんなチューリングの話から始まっているから、チューリングの話とかは先に共有した方がいいかも……。

八角 そうなの?

しぶ ここから先、それぞれの論考の感想を喋ろうと思うんだけど、どの部分を紹介する上でも、知識があった方が便利なので。実際に聞いてもらった方が早いと思う。この特集ではほぼ全員と言っていいぐらいに、「チューリングマシン」や、チューリングという名前が出てくる。

八角 そうなんだ。

しぶ チューリングは人名。アラン・チューリング(1912-1954)、イギリスの数学者で、現代計算機科学の父と呼ばれている。

八角 現代計算機科学なんてものがあるの?

しぶ つまりコンピュータ科学ですね。コンピュータサイエンス。

八角 ああ! 電算機ってことね。

しぶ そうそう。チューリングは第二次世界大戦で、ドイツの暗号を解読したことでも有名。ちょっと前に『イミテーションゲーム』っていう映画があったけど……。

八角 あったね。

しぶ 映画の日本語タイトルが『エニグマと天才数学者の秘密』なんだけど、その天才数学者というのがチューリング。

八角 有名だよね。物語にも名前が引っ張られたりしてるよ。

しぶ 学問的には、「チューリング・マシン」という概念があって、それでよく出てくる。哲学でも数学でも情報科学でも有名だと思う。チューリング・マシンがどんなものなのかは、20ページの図を見ると視覚的にイメージしやすい。今回は本の紹介が目的なので、そのために雰囲気を理解してほしいんだけど、まずテープに横並びで記号が書いてある。ここでは0と1で表現されているけど、とにかく記号列。そのテープに並んだ記号列を、ヘッドと呼ばれる可動部分が左右に移動して、文字を読み込んだり書き込んだりする。ちなみに、つい最近「チューリングマシン」というボードゲームが発売されて……

八角 本当だ、チューリングマシン(ボードゲーム)、2023年8月発売って書いてある。

しぶ 数字当てゲームらしいんだけど、面白そうで、友達もやってたから聞いてみたら、「何回もやっても全然パターンにならないから面白い」っていうことらしい。相当、パターン数があるっていうことらしい。

八角 面白そう、買うか!?

しぶ どのくらい元のチューリングマシンと関係があるのかは知らないけど、雰囲気が似てるんでしょうね。テープがあって数字があって。

八角 うん。

しぶ それで、ボドゲじゃない方のチューリングマシンの話に戻るけど、ウィーンウィーンとヘッドが動くことで、テープに書かれた記号列が書き換わる。この書き換えで、「最初の状態」と「最後の状態」の変化、を「計算」と定義する。これがチューリングマシンの発想なんだよね。

 これの何が嬉しいかというと、「計算可能」みたいな概念が分かりやすくなる。つまり、「計算可能」とは何かということを、「チューリングマシンの動きがいつかは停止すること」だと定義する。チューリングマシンがある条件でテープの数字を書き換え続ける、それが何周でもいいけど、とにかく終わるなら計算可能。いつまでも終わらないなら計算不可能。こういうふうにあらゆる計算を全部チューリングマシンに還元することができるっていうのがチューリングの発想。これは架空の装置だけど、作ろうと思えば物理的に作ることのできる装置。ということは、「計算」というものが、何か抽象的で観念的で、扱いづらいものだったのが、対象として扱いやすいものになった。

八角 うーん。

しぶ いま風に言うと、アルゴリズムみたいな話を念頭に置くと分かりやすいと思う。状態の書き換えを「こうして、こうして、こうしてください」とフローチャートみたいに書いて、手続きをマニュアル化して、それがちゃんとゴールまで辿り着けるなら計算可能。そういうふうにした。小学生に筆算を教えるときのことを考えて欲しいんだけど、小学生に対して「筆算とは何か?」と抽象的に教えたりしない。まず、「こことここを掛け算して、ここに数字を書いてね、そしてこれとこれを足してね」とかって手順を教えて、それに習熟すると計算ができるようになる。こういう話に近い。

八角 なるほど?

しぶ もう1個重要な概念が、「チャーチ・チューリングテーゼ」。ある論考では、同名のテーゼは2種類あって…という話も出てきて若干ややこしくなるんだけど、ここでいうのはメジャーな方なので、細かい注釈は省きます。チャーチ・チューリングテーゼというのは、チャーチさんとチューリングさんのテーゼなんだけど。

八角 チャーチも人名なのね。

しぶ 「計算とは、チューリングマシンで計算できるもののことである」となった話をさっきしたけど、たくさんあった計算の定義が、現代ではこの定義に収斂していて、だからみんなチューリングマシンの話をする。その理由がチャーチ・チューリングテーゼだと言ってもいい。

八角 どういうこと?

しぶ 当時、いろんな人が「計算とは何か?」の答えとなる「計算とは〜〜」という定式化を考えていた。だけど、そのとき有力だったいくつかの計算の定式化は、全部チューリングマシンの定式化と実質同じだ、と示したのがチャーチ・チューリングテーゼ。「全部同じなら、じゃあチューリングマシンだけ基準にすりゃいいじゃん」となった。「いっぱい定義はあったけど、チューリングマシンに計算できるものは計算可能、できないものは計算不能。以上!」となった。これは計算について考える場合にはスタート地点になるような話なので、今回の特集でもかなり多くの論考で登場している。この辺の前提をぼんやりとでも持っておくと、それぞれの論考の紹介がしやすい。

各論考の紹介・感想

森田真生・丸山隆一(聞き手)「計算から修復へ」について

しぶ そろそろ個別的な、それぞれの記事の紹介・感想、に移ります。

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