デジタルとアナログの狭間で①"私たちの"GIGAスクール構想②ノートをとる必要はありますか【教育ニュース最前線vol.11-1】
①"私たちの"GIGAスクール構想
5月10日、「EDIX(エディックス)東京」最終日の特別講演に、文部科学省 初等中等教育局 教育課程課長(前学校デジタル化PTリーダー)の武藤久慶氏が登壇しました。
▼【EDIX2024】GIGAスクールは「学習権の保障」文科省 武藤氏(リシード・7/30)
講演タイトルは「GIGAスクール第2期に向けて~次期教育課程を見据えつつ、活用格差を解消したい〜」です。
2020年にスタートしたGIGA(Global and Innovation Gateway for All)スクール構想。2024年から端末の更新も始まり、第2期を迎えました。
武藤氏は、新しいものが学校に追加されたのではなく、足りなかった当たり前のものを取り入れて、学校が世の中に追いつくのだと言っています。
PISA2022年調査結果では、日本の学校の端末活用率はOECD加盟37カ国中トップになりました。
しかし、全国調査の結果からは「クラウドが使われていない」「毎日の持ち帰り利用がなされていない」など、活用格差が生じ、拡大していることが明らかになっています。
武藤氏は、自由進度学習、複線型の授業、様々な障害への対応についても紹介し、学校が変わることで全ての子どもたちの学習権を保障するべきではないかと訴えています。
💡研究員はこう考える
💻一人一台端末の導入は、授業の改善ではなく「授業=学びの革命」
文科省の掲げる「主体的・対話的で深い学び」「個別最適な学び・協働的な学び」は、ICT機器を導入すれば直ちに実現するわけではありません。しかし、極めて有用な道具であることは間違いありません。
例えば、自分が調べ考えてまとめる学習を他者と協働して進めることも、学習のプロセスや成果をすぐに共有することも、端末のお陰で可能になりました。
先生もテストの実施を待たずして、学習状況を見取り、フィードバックすることができます。
子どもたちは生まれ育った環境も学びのスピードやリズムも異なりますが、ICTが自分に合った方法で学ぶことを可能にしてくれます。
これまでの一斉授業と一斉テストの組合せだけでは、生徒の個性に対応できません。一人一台端末の導入は、授業の改善ではなく「授業=学びの革命」だと思います。
なぜなら、授業中の学びのアクティビティが一気に増え、それらをどう組み合わせて構成するかという授業デザインに無限とも言える選択肢が発生したからです。
考えてみてください。
一斉かつ一方的に知識を伝授する授業であれば、先生は何を説明するか、何を板書するか、何を読んだり見せたりするかを考えます。もちろん、発問や導入・まとめの工夫もあります。
それに比べると、端末を活用したグループワーク一つとっても、どこにどれぐらいの時間を導入し、前後に何をするかを考えるだけでも多数多様な組み合わせがあります。
一方で、中学校と高校では、入試に向け学習内容や進度を考慮する必要があります。高校入試・大学入試も変容しつつありますが、革命的ではありません。
変わらないものがある中で、革命を行う。そこが大変なところだと思います。
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💻2024年度の全国学力・学習状況調査から考える
しかしながら、後退するという選択肢はありません。
2024年度の全国学力・学習状況調査でも、次のとおり、分析されています。
ICTの利活用と「主体的・対話的で深い学び」「個別最適な学び・協働的な学び」が不可分であることとが分かりますし、双方の施策の効果が確実に表れていることも読み取れます。
武藤氏の言うとおり、GIGAスクール構想を引き続き推進し、授業=学びを改革するべきではないでしょうか。
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💻これからのGIGAスクールのためにできること、4つ
授業=学びの改革の際、私が大切だと思うことを4つ挙げます。
第一に、学校のICT環境の整備です。
通信環境も機器も不十分な学校が多いです。環境整備にはお金がかかりますから、自治体の判断と住民の理解や後押しが必要です。国であれば文科省、自治体であれば教育長、学校であれば校長が、粘り強く、具体的な状況を説明しながら予算確保を訴えていく必要があります。
第二に、校長の学校経営改善のサポートです。
武藤氏の指摘のとおり、どんどん進んでいる学校とそうでない学校との活用格差が大きくなっているという現実があります。そして、学校現場の最終責任者は校長です。
しかし、「トップの校長がちゃんとやれ!」と厳しく叱責して何とかなる時代ではないと思います。何に困っているのか耳を傾け、伴走してともに打つ手を考える仕組みが必要です。公的な機関か、企業等が伴走するかしかないと思います。
第三に、教員の授業改善のサポートです。
「やらない理由を挙げるのではなく、どうやったらやれるかを考えなさい」と言うのは簡単です。しかし、教員が働く環境や待遇の問題、欠員等による困難、次々に学校に課せられる指令、理不尽なクレーム、様々な事故への対応など、「やらない理由を挙げたくなる」気持ちを理解する必要もあるのではないでしょうか。人は正論だけでは動けません。感情の生き物なのです。
したがって、多数多様な困り感に寄り添うこと、どうやったらできるかを一緒に考え、見守っていくことが必要です。学校の組織体制でできるなら、それでよし。できなければ、教育委員会が人を配置するしかありません。
最後は、社会を構成する私たちが、教育改革をどう考えるかです。
教育は本当に大切なのか。
GIGAスクールに何千億も投入する価値があるのか。
教育に対する願いを実現する政治はいかなるものなのか。
極めて大きな問いですが、幸い、今は人々が意見を表明しやすい時代です。マスメディアだけではありません。
武藤氏の話をより多くの人が聴き、考える。考えた人が、誰かに伝える。リアルでもネットでも、つながって、推進力を生み出す。
そうした日々の地道な実践の積み重ねが、GIGAスクール構想を推進し、学びの革命を意味のあるものとし、子どもたちと社会のウェルビーイングを実現していくのだろうと信じています。
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教育の情報化の現状と課題を総括――New Education Expo 2024(GIGAスクール構想を牽引されてきた堀田龍也氏の講演)
②ノートをとる必要はありますか
ノートをとらない生徒が増加しているそうです。
▼「先生、ここ教えてください」→「それ、板書したよ」→「ノート取ってません!」…コロナ×ICT教育の影響? ノートを取らない生徒増加 「意義から教える必要ある」現場の苦悩(Yahoo/ABEMA)
記事内では、ノート推奨派と不要派の意見がそれぞれに展開されています。
記事を読み、学習者としてのノートテイク、教育者としてのノートテイクの活用法について、思いを巡らせてみました。
💡研究員はこう考える
ノートテイクは、日本(日本以外の国にもあるかもしれません)の学校文化です。
従来の学校の勉強では、ノートテイクが必須でした。先生が一方的に話す。板書する。それを写すのが、授業の当たり前でした。
ノート点検もありました。今でもあるかもしれません。板書をノートテイクしているかどうかが確認され、「平常点」(観点別評価の導入以降”死語”のはずですが、実態はいかがでしょうか)として、評価に加味されます。
黒板に書かれたことに加え、「先生が口頭説明したこと」や「自分で掴み取ったポイント」を書いたり、キレイな字で色を上手に使い見やすいものになっていると「ボーナス点」がもらえることもあります。
風邪で欠席した場合は、友人のノートを写さなければなりません。物理的に文字が書かれていることが評価対象になっていた(いる)のです。
📓勉強から解放してくれたノートとの向き合い方
ノートテイクしない小中学の友人Nがいました。「どうして、ノートとらないの?」と聞くと、Nは「パッと見ると、頭の中でカメラみたいにシャッターを切って、覚えることができるんだ」と言いました。
私は驚きました。羨ましかったです。そして、真似しようとしましたができませんでした。しかし、「頭の中に白い紙をイメージし、そこに写し取ろうとする」アクションは、記憶や思考に、わずかながらもよい効果をもたらしたように思います。また、どうやってノートテイクするのがよいのだろう、そもそもノートテイクの効果は何だろうという問いが残りました。
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中学時代、生徒会活動とフォークギターに精を出しているうちに、私の成績はどんどん下がっていき、第三希望の高校合格さえ危ぶまれました。入試直前の冬休み、「スパルタ」で有名な塾に入りました。
授業は、とにかくスピードが速いのです。印象的だったのは社会。教科書のページをどんどん捲りながら猛スピードで説明していく。ノートを取らなければならない。「えっ、どうやってついていくんだ」と考え悩む余裕もありません。必死に聞き取り、書き取っていく。気がつくと何となく慣れていました。頭もこれまでと違う働き方をしていました。言われたポイント、自分で大事だと思ったことを書きまくるしかなかったのです。バラバラだった点がつながり、流れができる。ボヤッとしてはいたけれど、全体像が浮かび上がる感じでした。
丁寧に色分けしてノートテイクしなくたっていいんだ、こんな高速で勉強することもできるんだと思いました。
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結果、私は無事高校に合格しました。仲のよい友人は第一希望の高校へ行き、私は第三希望。努力しなければ、自分の選択肢が狭まることを痛感し、後悔しました。「よい成績が取れるようになろう」と思いました。併せて「せっかくやるなら、楽しくて、やりがいがあるように勉強しよう」と考え、自分の学びの態度を問い続け、時間の使い方、授業中の過ごし方、家庭学習の仕方を工夫しました。
自分は天才のNとは違うから、まずは量ありき。そして、頭が良いわけではないのだから、やり方にこだわり、質を高めなければならないと思ったのです。今の言葉で言えば「主体的な学び」「自走」に目覚め、「勉強」というよりは「学び」になり、「わかる、できる」が増え、どんどん楽しくなっていきました。
家庭学習で大きな効果があったものが、「自分で自分に説明+ノート殴り書き」です。授業のノートをさらにキレイにまとめるのではありません。白紙を前にして、授業内容を思い出し、書いて再構成します。知識と論理、学習の流れや構成を自分で自分に説明しながら、書きなぐります。書いては直します。思い出せなければ、教科書やノートを見ます。わからないところは、参考書などを見て補います。
授業は、私の学習の手段になりました。
学びの中心は「書きながら自分に説明」になりました。
「勉強」から解放された気がしました。
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現在、私はPC画面に向かい合って仕事をしています。
しかし、常に紙のノートを持ち歩き、引っかかった言葉、思いついた考えなどを書いています。必要に応じて見直し、三色ボールペンで整理したり、書き加えたりしています。
それが私のやり方なのです。
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📓学習者としての探究と教育者としての探究
学び方は人それぞれです。記憶、習得や思考の方法は人それぞれであり、自分でつくり上げるものです。ただ人に言われたからといってやっても意味はありません。意味は自分でつくりだすものなのです。
ある方法について、工夫しながらやってみることをせずに捨て去るのは、学びにおける謙虚さを欠いていると思います。
あれかこれか、ではなく、あれを使い倒し、これも使い倒し、自分らしいノートテイク、学び方をつくり上げ、アップデートしていく方が楽しいのではないでしょうか。これが学習者としての探究です。
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先生にとっては、教育・学びのICT化が進み、大きなチャンスです。生徒のノートテイクは当たり前ではありません。形式的な指示命令はもう通用しません。何をなぜ書かせるかが問われます。その目的を生徒に納得させるのが腕の見せ所です。ノートテイクと学びの他のアクションをどう組み合わせるかには、様々な可能性があります。
見た目で勉強を評価する時代は過去のものになりつつあります。生徒の頭や心の中がどうなっているかを想像し、見えないものを何で見取るかを考える。
それが、教育者としての探究です。
教育はやりがいがあります。
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