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中1男子の長男が皿洗いの手伝いを始める教育

金融教育を始める頃、妻と私でどのような作業に対して報酬を与えるかという事を話し合った。

家事手伝いと勉強、どちらに報酬を設定するか?

モニターさん家族とも話し合った事があるが、報酬を与える作業タスクを設定する際、大雑把に2通りの考え方があるということが分かった。 

一つは家事手伝いに対して報酬を設定するということ。そしてもう一つは勉強などを作業タスクとして設定するという事だ。 

それぞれの考え方はこうだ。まず家事手伝いを作業タスクにする家庭は「親がやっている作業をやってくれたご褒美」だ。逆に家事手伝いを作業タスクとしない考え方は「家事手伝いは家族という一つの群れにおいてやって当然でありやらないということはありえない。よって報酬はない」という事である。

次に勉強を作業タスク設定にする考え方は「勉強も仕事も同じようなものである」という考え方で、逆に作業タスク化しない家庭は「勉強に塾にいくらお金をはらっていると思ってる!?甘えるな。学生は勉強をやって当たりまえ。よって報酬など与えん。」とうい事だ。

両者の言い分はそれぞれ理論的であり、どちらが間違っていてどちらかが正解という事もなさそうだ。

なのでモニターさん家族には当時は自由に作業タスクを決めてもらっていた。 ただ、子供に受け入れられ、うまく機能する作業タスクというのはやはり「やらなければならないことは分かっているものの、なかなか重い腰が上がらないようなこと」である事は以前の投稿中1男子と5歳児のやる気を引き出す教育法で述べたとおりだ。ちなみに我が家は勉強と生活習慣の改善に報酬を与え、家事手伝いには報酬を設定していない。

ただ、もし中1男子の長男に与えている帰宅後に「荷物の片付け、翌日の用意、水筒の食器洗い」というのが家事手伝いになるのであれば家事手伝いも作業タスク設定にしているということになるが。 

床掃除ではなく食器洗いのほうがいいと言い出した

作業タスクとは別に我が家ではやって当たり前と考えている家事手伝いを中1男子の長男には課せていた。

妻の指導となるが、それくらいは手伝いなさいという事だ。 

彼に毎日課されていた家事手伝いは「床掃除」である。市販のモップに使い捨ての床拭きシートを装着し、家の中の床を掃除するというものだ。 いつからこの手伝いが長男に課せられたかは覚えていないが、この作業は毎日彼の仕事となっており、かつ毎日彼は床掃除を「いつやるの?」と言われ続けている。

実際のところ彼は床掃除が嫌いのようだ。 

親に言われなければやらない床掃除を繰り返す中、先日彼は唐突に床掃除は本当に嫌だから食器洗いを代わりにやると言い出した。 作業的に見れば床掃除のほうが楽なのだが、本人がそれを望むという事なのでやらせてみている。代わりに床掃除の担当は私になってしまったのだが、、、

金融教育以外の作業タスクも取り組むようになる

彼にとって床掃除は「タダでやる作業」である。しかし我が家の教育方針の中には、「家族の一員である以上、家事は分担作業である」という方針がある。

これは妻が強く促している教育だが少なくとも中1男子の長男はこの理屈を理解しているようだ。 

ただ、床掃除をやるための動機づけは、母親に口うるさく言われるという外発的動機付けが働いているようにも見て取れる。 すなわち、理屈では分かっている家事手伝いだとしても、いざやるとなると外発的動機付けによるやる気が必要なようだ。すなわち、家事手伝いを進んで取り組もうとするような内発的動機付けは働いていないという事だ。 

そんな彼にとって毎日のように母親に口酸っぱく「床掃除をやれやれ!」と言われることに嫌気がさしたのであろう。彼は先日自ら「食器洗いの家事手伝いだったらやる。」と言い出したのだ。 

すなわち彼の中で家事手伝いは「やらなければならない」という理解が進み、それであれば自ら取り組もうと思いやすいことに取り組もうと考えるようになったのであろう。それが「食器洗いをやりたい」という発言となったと思う。 

叱るという方法か報酬という方法かの違い

報酬を与えるというのは金融教育においては土台となる。

しかし考え方として「お金をもらわなければ動かない子供を育ててしまうのでは?」という不安があることも理解できる。 

今回の投稿では「報酬を得なくても取り組ませる事ができる」という事例の紹介を意図したものであったが、文章を綴る中、やる気を作り出しているからくりを考えていると、彼にとって家事手伝いの動機となっているものは「親のいう事が分かったから」という理解よりも、「親から毎日くどくど言われる」という事のほうが動機づけになっているように思う。

そこで私は常々思うのだが、くどくど言って取り組ませるというのは親も子供も疲れる。しかし報酬を与えるというプロセスは「頑張りを認め、褒めて、報酬を与える」こととなる。

どちらがより建設的か?と考えると私は実体験を通じて圧倒的後者だと考えるようになった。

またこの作業タスクに取り組み始めたころは、子供たちの動機が「何かを得るためにやる」という外発的動機付けによるものであって良いと考える。

なぜならば、そこで行う行動の中で次第に本人が作業タスクに対し楽しみを見出せばよいと考えるからだ。

例えば中1男子の長男の場合、勉強は元々好きではなかった。今だってそうだ。やってできない子供ではないが、勉強を自ら先に進め、物事を理解する楽しみにそもそも内発的動機づけが対して働いていないのだ。彼にとっては友達とバスケをしているときやカードを買っているときの方がよっぽど内発的動機づけが働いているように思える。やりたいことをやっているときの彼の行動力は勉強に対する行動力とは比較にならない。

そのような中、報酬設定を行い少し背中を押し、勉強を習慣化させることで苦手だった歴史や英語もかなり理解が進んできている。まだまだ本人の中で得意科目とはなっていない。しかしながら、こちらの期待として「分かってくることが増えてくると」学習そのものが楽になり、さらには学習を進める楽しみを自ら見出すチャンスを得ることができればいいなと期待を込めているふしもある。

また「お金が動機」になっていると判断出来るほどの金額とも言い難い。一つの作業タスクに対し設定する金額は常々20円程度である。

私の経験から見ると、やはり「稼ぐ」という事が外発的動機付けになっているように感じる。「稼ぐ」と「お金」は金融教育上似て非なるものであり、「稼ぐ」というのは労働であり、労働を通じて「お金」を稼ぐという事になるのだ。

また金融教育が進み「稼ぐ」という事が外発的動機付けになり得たことで、子供たちは喧嘩を止めてみたり、朝勉を習慣化させてみたり、「買って!」と言わなくなったりするのを見ると、少なくとも我が家では成長を手に入れられていると考えられている。

失敗しても痛手は小さい

もちろんやり方によっては失敗してしまう事もあるだろう。しかし金額的にみたら大した失敗ではない。たかだか数百円、数千円程度だ。学習キットに何万円も払い、学習塾に何十万も払うよりは痛手は少ないだろう。

しょせん、我が家の体験は我が家のものでしかない。しかしながら、我が家の大家が少しでも参考になり、金融教育にチャレンジしてみようと考えて頂けるなら、私たちも幸いだ。

内容を気に入っていただけた方はぜひ

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