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日頃のイライラや生きづらさの正体
ネガティブな感覚は元々人間が地球上で生き延びるために不可欠であった感覚。でも現在のように安全で健全な社会が構築されるにつけて、それらの危険回避能力のような鋭い感覚は、一部の境遇の人々には時として生きづらさへと変換を余儀なくされた。
とりわけ現在のような時代の大転換期には、自分の感覚が過敏になりすぎ、自身でコントロールすることが難しくなることも多くなるでしょう。ですから意図的に時代に応じた自己アップデートを行うことが大切となるのです。
住む家、仕事、家族、知人、食料、エネルギー、あらゆる需要が満たされているのにもかかわらず、日々の恐れや不安から解放されないのは、人間が古来より生まれ持つ習性に他なりません。でももうその一部の性質は不要となっているのです、だからもう手放すときです。
そのためにはやはり、己を理解し、時代を見極める術が必要となります。
その準備段階として、心穏やかに過ごすことがその第一歩となるのです。
いつもはじまりは欲望や欲求から
仮に現在、自分の生い立ちや容姿や能力や性別などの自らを取り巻く環境。
学歴や仕事や健康でないとか、そういった現状に憤っている人々は、ゆえあってそのように生まれつき、なにか大切な大きな流れの中で自分の周りに対していつも怒ったりしているのだとしたら?
ありとあらゆるパターンの怒りによって、それらのすべての欲求を満たすことができたのならば、人類にとって世界にとって、より豊かな世界が近い将来に現れるからではないだろうか。
とはいってもそれには時間がかかることですから、今日はもっと身近なことから考えてまいりましょう。
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周りにいますよね、いつも怒っている人。
自分でもなんだか今日はイライラ、ソワソワ、そんな日はありませんか?
そうした憤る心は自分の感情や感覚が何なのかわからないために起こるイライラであり、それらの感覚を自分の中で言葉として置き換えられないことによって起こるものです。
ですから子供の頃、成長期に急速に心と体が変化する思春期を迎えると誰もが等しく反抗期になるのもこの事が大きく関係しているものと思われます。
自分の心と体に起こっている急速な変化を自分の中で上手に受け止められないことからくる情緒不安、言葉として捉えられず表現もままなりません。
たまにいる物怖じしない子は?
子供の頃から沢山の本を読み、または映画を見るなどしていた子は物語のなかであらゆるパターンの登場人物の感覚に心で触れ、偉大な作家たちの膨大な文章表現から学ぶことでさほど大きな反発を起こしません。
どこかでみた、これ知ってる、となるからです。
また運動などに打ち込んでいる場合にも自然にチームメイトを通じ、体当たりで様々な人間模様を実際に体験でき、体を動かすことによって身体的に色々と発散しつつ心を成長させることができます。
沢山の仲間たちの複数のパターンの感情のやり取りから人は一人一人違うものであると自然に認識できるからです。
やや体当たり的で強引な方法といえますが古来より人間として成長するための有効な手段として用いられることが多いのは誰もが知るところでしょう。
では社会人となったあとはどうでしょう。
家族と学校だけだった人間関係が、一気に広がります。新社会人時代はそのことに戸惑ったりしますが、とはいえ社内の小さなコミュニティであるとすぐに気づき順応します。
ではsnsでの人間関係は?
いまや学生であってもスマホを持ち世界中の情報やコミュニティにアクセスできるようになりました。
わからないことは調べたり、身近な人間関係より大規模であらゆる年齢層が所属するコミュニティにおける人々の対話を容易に目の当たりできるようになった一方で疎外感や多すぎる情報に戸惑う場面も増えたことでしょう。
ネット上での人間関係についても、実社会と同様に慣れや理解するための時間が必要です。
snsが登場して以来、唐突な対面コミュニケーションに戸惑うという機会も減り、あらかじめ予備知識を付けてから対人関係に臨めるようになりました。
とはいえ根本の自分の感情や感覚がわからないゆえの心の葛藤、恐れや不安から完全に解放されることはありません。
そもそも自分が生きる世界がわからない
この世界の仕組みについても同じようなことが言えます。
人間がこれまで理解してきた世界の法則性、そのことによって得られた知見は、何もわからないということがわかっただけ。
つまりは自分のことも周りの人々のことも、自分が生きるこの世界のことも何もわからぬままに生きている現状に恐れや不安を抱いているのです。
人間である以上誰もが等しく同じ定めのなかを生きているということ。
自分とそれ以外の境界がわからずに曖昧、だから自分が何をコントロールできて、何をコントロールするべきでないかがわからない。
人間誰しもが、何がわからないかさえわからない状態のなかを生きているということ。このように自分や自分を取り巻く環境を改めて顧みてみると、不安となる材料しかないことに気づけます。
これでは不安になるに決まってますよね。
そうした不安の中であったとしても、こうも考えられる。
とどのつまりこの世とは、ままならぬもの(一切皆苦)。
はなから思い通りにいかない定めなら、いっそ好きに生きてしまおう。
結局最後にたどり着くのは、ありのままの自分なのだから。
世界とはそもそも理解する必要のない恐れるに足らないモノなのだ。
自らの言葉を持つ
まず自分の中にある思いがやってきて、それはまず音ととして己の中に鳴り響きます。そして次にその音色が言葉となります。
言葉はやがて行動となり、行動し続けると習慣となり、己(性格)を形成し、信念(運命)となります。
これは有名なマザー・テレサの「5つの気をつけなさい」を自分なりに解釈したものです。
このように人間は無尽蔵にやってくる己の感情や感覚を言葉に、やがて表現し自己を完結するためごく自然に人生を形成している。
学校の勉強や職場での仕事、他人との交流もそのため。
自らの言葉を持つ大切さは、自分だけの感覚を自己矛盾なく理解するため。
現代の若者は検索すらせず、AIに聞く。
そうした話を聞く機会も多くなってまいりました。
そのAIが今最も不得意とされていることが自分の意見を持つということ。
今ですら他人の意見や軸をもとに人生を送っている人々は、後にやってくるAIの決定にも同様の行動を示すに違いありません。
人工知能による意思決定の連続の中で、自己矛盾のみが深まり続ける人生。
自分の言葉を持たぬゆえに陥るジレンマ。
自らの言葉を持つとは、自分の感覚や感情を素直に周りに伝える術を身に着けるということ。
それには何か特別な才能や努力や予算が必要なわけではありません。
少しの時間と創意工夫のための環境の整備くらい、大切なのはやはり行動。
イライラしている暇なんてはじめからない。
他者や世界は恐れるためのものではない。
誰もが自分探しの旅の途中。
ですからその前段階として、心穏やかに、ありのままの自分をただ生きてください。どうせこの世や自分の周りのことなど最後まで何もわからず死ぬ定めなのですから。
詩(ウタ)は
かつては心の声を綴ったもので、ただ綴ったのでは面白くない、美しくないので、いつしか、芸術の域へと到達した。
自らの言葉を持とうとする過程で自然に生まれたもの。
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