評論文は文芸である
どうにもモヤモヤしていたことが、腑に落ちた。評論文は文芸なのだ。論文とは違う。
どうも言葉を仕事にしていると、言葉をシステマティックに運用しがちになってしまう。
僕自身もシステマティックな文体、統一感の取れた、整った文体も、どちらかと言うと好む方だ。
表記だって統一したい方だし、形式だって整えたい。インデントや字体だって気にはなる。
でも、でもだ。整った文体が読みやすいか、理解しやすいかと言えば、必ずしもそうではない。そしてまた、僕は統一感よりも情感やニュアンスを大事にしたいのだ。
論文というのは、事実を重ねて事実を導く再現可能な結果であるから、システマティックであった方がいいだろう。表記はもちろん、ロジカルに、システマティックに、客観性を持って綴られるべきだろう。
しかし、そのような文体では表現できないような概念があることもまた事実だ。文芸評論がそれ自体文芸的であるのも、そこに理由がある。論文的な文体では、表現できないのだ。
ある企画で、文学系の研究者と理工系の研究者が一つの問題について論じあうというものがあった。メインの企画がパネルディスカッションだったんだけれども、両者互いのスタンスを全くくずさず、歩み寄らないままに終わってしまった。なんやねん、という感じだった。
学問体系が違えば、文体が違うこともいたしかたない。だから、それらがクロスオーバーするためには、折衷した文体、語法、対話の展開が必要なはずだ。
ところが、文学系の研究者はひたすら抽象的、文芸的表現でけむに巻き、理工系の研究者は客観的事実を指摘して事実の否定に終始した。全くかみ合わない中で、全く主題が深まらない企画だったと感じた。
だから、述べたい内容や学問体系によって、文体は選ぶべきで、自分の述べたいことや論じたいことに合わせた文体を探っていくべきだと思う。そして、それを対話の機会では折り合いをつけていくべきなのだ。
そうした中で、僕にはどうにも論文の文体というのは合わない。好みとしても合わないし、表現したいこと、伝えたいことがロジカルに終始しても、抒情に終始しても難しいのだ。
ところが、仕事上どうにも過度にロジカルが求められていて、いら立ってしまう。どうにもストイックすぎる。本来そこまでストイックにならずとも良い場面で、ストイックさを求められているように思う。
内心ストイックにロジカルな文体ほどわかりやすくない、また魂のこもらない、または非現実的な文体はないと思っているのかもしれない。いや、思っている。
だから、僕は文体には抒情性やゆらぎ、非統一はあっていいと思うし、いくぶんかは入れるべきだと思っている。それが、文章に魂を乗せ、読み手のわかりやすさにつながると思っているのだ。
そんな中で、ストイックにロジカルな文体を要求されると、もちろんそれが間違いではないけれども、気味の悪さというか、嫌悪を感じてしまうのだ。
論理的に考えると不自然な表現にいちゃもんをつける人は、基本的に好きではない。言語学を多少でもかじれば、そんなサンプルもあるのね、と通り過ぎるものを、この世界に唯一の真実があって、この世界に唯一の正しい言葉があるかのように指摘するのは、ちょっとナンセンスだなと思うのだ。
もちろん、それをわかっていて指摘せざるをえないこともある。僕も職業柄、ある程度は表現に正義を示さざるをえない。悪を断罪せざるをえないこともある。
けれども、それは泣く泣くすることであって、基本的には語用の範囲内で解釈可能だ。小論文指導にしても、何よりも思考の内容とプロセスを重視し、表現は二の次だ。明らかにより適切な表現が見えるときは別として、そうでなければ表現自体を指摘することは少ない。
そんな言語美的感覚を持っているから、「わかりやすい文体」を愛する自分と「ストイックにロジカルな文体」の要求との間にわだかまりがあり、それが解消できていないのだと思う。
その点、自分の著作はいい。好きなように書き、好きなように編集できる。詩にしてもエッセイにしても、自分の好きなように書く場がないと、人間はおかしくなってしまうんじゃないか。
それは話し言葉と同じで、話し言葉も、自分の言いたいことを、自分の使いたい表現で言える場所がないと、人間はおかしくなってしまう。
だから、こんなに文章を書いている。僕が文章を書いているのは、誰かに伝えたいことがあるから、という点もあるけれども、それ以上に、自分の言葉、自分の文体を守りたいという生存本能がそうさせるのかもしれない。