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自筆短編 「二階堂の幻」

「二階堂の幻」

粗方の荷解きが終わり、
 これからの生活を考えながらガラス戸の閉めてある縁側から外を眺める。
朝から生憎の雨模様であったが、
白く漂うものが混じっている事に気がついた。
初めは自分が泣いているのかと思ったが、
しかしそれは次第に形を成していき、
気がつけば、幾十もの大粒の牡丹雪が眼前を降りてゆくのでした。

一人、ぽつりと呟く。
「春の雪か」

私がこの鎌倉二階堂に転居してきましたのは、日々の勤めに限界を迎えた精神が理由でありまして、近頃職を辞し、少しの蓄えを残してこの平屋を手に入れました。

建物は小さく、老朽化もしておりますが、その分庭がとても広く、これからここで菜園を耕作し、自給自足的な暮らしを営んでいくつもりでおります。

トマト、ミニトマト、胡瓜、キャベツ、茄子、枝豆、小松菜、蜜柑、檸檬。

様々な苗や種を買い込んで、地面を耕し、丁寧に列を作る様に植えていきました。

始めは食材を買ってきての自炊をしておりましたが、栽培から一月程でいよいよ野菜が実り始めてまいりました。

私は拾ってきた木材にて、「二階堂農園」とペンキで書いた札を立てました。

徐々に買い出しの食材は減っていき、3ヶ月が経つ頃には、米やパン、そして味噌などの調味料のみで事足りる生活となっていきました。

あと、ささやかな幸せとして缶ビールを少しだけ、これだけは良しとしております。

やはりたまにはたんぱく源が欲しくなるもので、そんな時には自転車で小坪の海に出かけ、魚を釣ってくるのですが、毎回釣れるものでもないので、魚が並ぶ食卓は至福の時間となります。

二階堂で過ごす初めての夏。
夏というのは、全ての色彩が濃く映るという事を、ここで過ごして知る事が出来ました。
鮮やかな緑色の山々の景色も、入道雲の白さも、それらが空の青さを一層際立たせている様であります。
家の前の細道沿いにある池の、蓮の花が、小さく美しく開いているのを見つけました。

その日も、朝から起きて、雑草取りと間引きをして、肥料を撒き、昼頃に一息、農園に面した縁側に腰を下ろして、畑仕事も大分板についてきたものだなと我ながら思って、タオルで額の汗を拭いながら農園を眺めておりますと、野菜の緑の隙間に何か動くものがありました。
初め私は蛇ではないかと思い室内に逃げ、ガラス戸を閉めましたが、いや違う。
そっとまた外に出て、じっと見ておりますと、私の膝下程度の、小さなうす緑色の生き物が、トマトの葉に半分隠れた姿でこちらを見ているのでした。

河童。それはまさしく河童なのです。

数秒見つめ合う格好になっておりましたが、すっとそれは逃げていきました。

まさに、呆然自失。

しばらくして、頭を振り、人生で初めてほっぺたをつねりました。

どうやら夢ではない様なのです。

それからというもの、時折その河童は私の農園に顔を出す様になりました。

目が合うとまた家の脇に流れる小川の方へと逃げてゆきます。

そんな毎日を過ごし。
気が付けばもう季節は秋となっておりました。

山々は紅葉に色づき、陽射しに照らされて見事な美しさであり、敷地の脇に幾つか自生していた秋バラも色濃く咲いておりまして、華やかな香りが流れてまいります。

河童は変わらず菜園に現れておりまして、
緑で小さいというところから、
「グリコ」と名付ける事に致しました。

私も大分慣れてきてしまい、顔を向けると逃げてしまうので、畑仕事をしながら、そっぽを向いて、やあ、と声をかけてみたりと、
そんな事を続けておりますと、
やあ、と言うと、くるる、と声を出す様になってまいりまして、嬉しい気持ちになり、

グリコおはよう。
グリコ今日の仕事はこれで終わりだ。

様々話しかける様になってまいりました。

今日の昼は軽くしようと、縁側にて、桶に水を溜めて、トマトと胡瓜を軽く冷やして、紅葉を眺めながらの昼食としました。

するとまたグリコが、今日はかなり近くの葉っぱの影に隠れてこちらをみておりました。

私はひとかじりした胡瓜をグリコのほうへ向けてみました。

すると、グリコは葉陰から出てきて、私が胡瓜を手で持ったままに、少し、また少しと、くるる、くるると小さな声を発しながら、両手を添えて食べ始めました。
それからは私が畑仕事を始めるとグリコは度々現れる様になりまして、隣でこちらをみていて、作業が終わると縁側にて、その日に採れた野菜を食べさせてあげるのが私の日課となりました。

不思議な事にグリコは無断で野菜を食べる事はせず、家の中には入ってきません。
私が室内に入るとグリコも小川のほうへ帰ってゆくのです。

また季節は変わり、
寒さの厳しい、山々の眠る凛とした、
とても静かな冬となっておりました。

そんなある日、
実家の母から一通の手紙が届きまして、学生時代の友人が連絡をとりたいとの旨が書かれておりました。

私は携帯電話も持っておりませんので、少し下った車通りにある公衆電話で、その友人に掛けてみましたところ、来週鎌倉に一人で遊びにゆく、夜にでも駅前あたりで一杯どうか、そんな話しをされました。

私は外界から隔離した様な生活を送っておりましたが、たまに、少しだけならいいかという気持ちになり、悩みながらも承諾しました。

その日は鎌倉駅の御成改札を出た駅前の小さなバーレストランで友人とお酒を飲み、居合わせた女性客数名も一緒に会話が随分と盛り上がりまして、その中の一人の女性、幸子さんという方が、特に私の生活に興味を惹かれた様でして、小さな声で、来週末もここに来るので19時頃にぜひ来て欲しいと、そう言われました。

来れたら、と少し曖昧な返事をしましたが、幸子さんの優しい、母性を感じる人柄に、私も少なからず惹かれてしまったのか、お会いする事に致しました。

次もまた同じ店で二人でお酒を飲みながらいろいろな話しをしました。
幸子さんは、長年働いた会社を辞め、鎌倉で再就職を決めて、前回は鎌倉の新しい住まいの内覧の帰りでここに来たとの事でした。来月には引っ越しをして、新たな仕事が始まるそうで、私も少し身の上の話しを致しました。
改札口で別れ際に、私達は握手をして、次に会う約束をして、私は二階堂へ帰りました。

その翌日、
いつもの様に畑仕事をしていましたところ、
いつまで経ってもグリコは現れません。

翌日も、またその翌日も。

朝になると、グリコ、グリコ、と呼んでみたり。
小川を見に行ったり。
様々試してみても、

それから、
グリコが姿をみせる事はなかったのです。

移住より一年が経ち、
季節は春。
二階堂は花ざかりを迎えておりました。

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