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僕の鬱からの立ち直り(完璧主義、HSP、メンタルにお悩みの方へ)

今回もまた、僕の学びの詰め合わせのような内容です。(電話での会話をベースにしています、忘れたくないので!)鬱の症状からは、波はありながらも順調に回復をしてきていて、最近はいつもの自分らしい物事の捉え方が戻ってきたように思います。卒論、そして引っ越し関連のやることに目処がついた、などの後押しがあってなかなか最近は調子が良いです。

立ち止まっても良い

今の自分は鬱の症状で思った通りのいつも通りのペースでは動けていなくて、足踏みしている感覚が強い。でも、これを上手く言い換えてあげれば、「納得できたらすごく進めるタイプ」のスタート前の準備期間。でも、この発想でダッシュし過ぎるとまた同じパターンで燃え尽きてしまいそうだから気をつける。

定まってなくても良い

最近の自分の中での大きな焦りというか悩みは、24歳を目前にして、まだ何も腹を括って取り組めていないこと。起業家たちへの憧れと、最近の圧倒的な劣等感はここから来ているのだろう。でも、「腹を括ってやる内容」を定めていく時期はもっと後でいいのかも知れない。自分の祖父は商業高校を出ているが、その経理の知識が生きたのは何年も経ってからだった。自分が何をやりたいかは、社会に飛び込んでみてから、周りの人の助けとともに徐々に明らかになるものなのかも知れない。だから、そんなに「定まっていない自分」を恥じる意味も無いのかも知れない。

でも、自分のここ最近の不安は「結論を早く出さないと人生上手くいかないんじゃないか?」という感覚から来ている。就活をしていた半年間、とてもありがたいことに、刺激的な方々にたくさん出会うことが出来た。今の鬱は「その経験を消化するのに時間がかかっている状態」とも捉えられそうだ。イキイキと輝いている起業家の大人の方々に出会えた。でも、彼彼女らがみんな早くから方向性を定めていた訳ではない。早くから何か一つに絞って頑張らないと大成できない訳じゃない。ある意味、起業家の方たちの中のスタンダードは世の中の普通からはかなり遠いところにある。広い世界の一部であって、それが全てじゃない

鬱ありがとう

鬱のおかげで、刺激的過ぎた過去1年半の整理がついた感じがする。頭の中での捉え方が変わったら、感じ方も変わってくる。自分は、なんでも考える時間が必要なタイプの人だから、立ち止まることが必要だったのかも知れない。

捨てずに保留

やりたいなと思ったことを捨てる必要はなくて、保留にしておけばいい。これはもう絶対やらない、みたいな「究極の選択」じゃなくて、時間が出来た時、一つのことが身についた時に取り組もう、くらいで良い。

1つずつ着実に

物事を一個ずつ極めていくのは悪いことじゃない。母のお友達には、バレエと音楽(ハープ奏者)が仕事という「二足の草鞋」だけど、それ以外は捨てているという人がいる。すごく活動的なタイプの人で、朝4時からフル稼働して、料理もしっかりするとても活動的な人だ。でも、逆に言えばそんな人でも同時並行で進められることの数はそれほど多くない。だからこそ、自分の心の声に耳を傾けて、優先順位の高いもの(やりたいこと・好きなこと)から楽しく順番にやっていけば良い。

捉え方の取捨選択

本でも人の話でも、なんでも真に受け過ぎるから自分は最近息苦しい感じがするのかも知れない。人間はみんな違って、一人ひとりに違った「最適」がある。だから、世の中に転がっている「不調の攻略本」(書籍や人の書いた記事)に救われるパターンもあるけど、万人に効く特効薬はないということを忘れないようにしたい。現在進行系である自分の鬱からの回復の経験でも、「自分の考え方が良くなかった(ズレていた)から体調を崩したからそれを正す」みたいに既に存在するサンプルに完全に合わせていくのではなくて「他の人の苦しい時の切り抜け方としてこんなものもあるけれど、自分のスタイルはこう」という発想で捉えていきたい。

素直vs批判的思考

本の受け取り方の器を広くしたい。純粋に吸収しようとし過ぎるのは、自分の長所でもあり短所でもある。だからバランスが大事。性善説で生きてこられたからこその、この素直さ(自分で言うな)なのかも知れない。ある意味自分は「冗談通じない人」かも知れない。悪い発想を疑うことをしなくても、幸せに生きてこられたというありがたい事実に感謝しながらも、もうちょっと物事を批判的にみるようにしたいと思う。

メリハリ大事

学校のやること、仕事という毎日のガイドラインがあると「空き時間どんな楽しいことしよう?」の発想が強い。やるべきことをやることで得られる達成感や喜びがあって、ゴロゴロするありがたみも感じられるのは豊かだ。
予定があまりにもスカスカだと、メリハリのある生活を自分を律してデザインしないといけない。自由と責任は抱き合わせだ。

ここ数ヶ月は、良くも悪くも時間的余裕があって、1人でいけるところまで突き詰められてしまう環境が揃っていたにも鬱になってしまった一因だったのかも。進まない焦りから、鬱で普段より集中力が大きく低下している中で、休み無くずっと取り組んでも、やはり思うように進まない。進まないからまた落胆して、自分にムチを打って頑張ろうとする。でも、思うように頑張れない。まさに負のスパイラル

1人で頑張ってもどうにもならない時は、早く人の助けを求めないと。留学先では助けを求めないと出来ないという現実があまりにも明らかだったけど、今回は自分の母語が使える環境だから甘えられない、という「自分の中の変なプライド」が邪魔してしまったのかなと思う。反省。

目的と手段が逆転しても良い

守備一貫性が全てじゃない。例えば、旅先での綺麗な景色をより良い形で写真に収めたくてカメラで写真を撮り始めたとする。でも、途中から「綺麗に写真に収めること」よりも、その過程というか付随品とも言える「写真編集」が楽しくなってきたのであれば、編集を楽しむ事を目的に写真を撮っても良いと思う。良い意味での目的と手段の逆転!

趣味⇔ビジネス

「この目的を持ってこの手段を選んだから、手段が目的になってはいけない」この発想もわかるけれど、趣味はやっている本人的に楽しいのであれば「手段と目的の逆転」があっても良いと思う。合理性だけで全てを語ると一辺倒でつまらない。趣味の対義語は、目標設定から逆算するビジネスとも言えるかも。どちらの発想も大事だからこそ、使い分けないとね。

自問自答「楽しい?」

写真でも文章でも、こだわることは際限なく出来てしまう。でも、趣味なのだから、98点を100点にすることに苦しまなくて良い。「ここまで来たから詰め切らないと!」と思わなくて良い。側から見たら大変そうでも、本人が楽しいのが趣味。人からの見え方ではなく、自分の主観が大事。

自分は、「写真の編集の義務感」という壁にぶち当たった。自分にとっての写真は、生業のプロ写真家と同じクオリティにすることが楽しいわけじゃない。最近の自分的には、編集は極論しなくても良い。編集もやり始めたら楽しいけれど、撮っている時の没入感と違って、編集を長時間していると疲弊してしまう。細かい色味とかにこだわれるというのはとても楽しい作業ではあるけれど、自分の中としては「撮ること」に重きを置きたい

趣味が趣味じゃなくなる瞬間

もう一つ気付いたことがある。写真を撮り始めた最初は「気軽に携帯よりも美しいそのままの景色を」だったのに、ある一点からは「このプロ写真家と同じ装備じゃないと彼らの水準に負けるからヤケになって重たい機材を持ち歩いて、半分仕事みたいに写真を撮っていた」と感じる。

自分がどこに楽しみを見出しているのかを大事にすれば、それでいい。どこまで自分は楽しんでいて、どこから先は「仕事感」なのかを把握していれば大丈夫。これが恐らく趣味をずっと楽しい趣味で在り続けさせるためのコツ。自分が楽しくてこだわりたい部分を、一個ずつ90%のクオリティまで持っていって、「仕事感」が出て来た瞬間に一歩引けばいい

自己満足地点

小さい頃は、ゲームだから自己満足できる地点が明確だった。「マリオカートの世界記録を出した」(2日で更新された。悔しかったけど、1回世界の頂点に立ったということでとっても自己満足出来た)→「満足してモンハンに移行」みたいな。この感覚を持っておけば、しっかり自己満足をした上で、色々な趣味に手を出せる。

小さい頃は「自己満足ポイント」をとても感覚的にみつけられていたのかも知れない。周りのレベル感的にも、そこまで「完璧主義」になれない状況だった。だって、所詮は小学生レベルなんだから。でも、最近はYouTubeとかでプロの情報が簡単に仕入れられてしまう。頭の中で、プロたちが自分の競争相手に簡単になり得てしまう。だからそれは精神衛生上やめておいた方が良い。

上には上がいて当たり前

歳を重ねると、素晴らしい人(なんちゃってではなくてホンモノ)にもたくさん出会えて、それはとても喜ばしいことだ。スキーでも技術戦に出る友達が練習相手になってくれたおかげで自分はプライズ(スキーの1級の上の資格的なもの)を取れた。(プチ自慢みたいだけど、こうして自己肯定感を上げる)だけど、そのレベルに引っ張られすぎたら大変。自分がスキー以外のスポーツを部活でやっている間も、スキーに全力で取り組んできた人たちと自分を比較して、いちいちがっかりするのは変な話だ。だから、1つの分野で何かを極めている仲間をみても、そんなに強い劣等感を抱く必要はない

大谷翔平:「憧れるのはやめましょう」

大学生になってからは、色々なすごい仲間や知り合いたちとの出会いに恵まれて、どんどんと憧れが膨らんでいった(理想が高くなっていった)ように思う。

大谷翔平じゃないけれど、「憧れるのは辞めましょう」の発想は大事なのかも知れない。「今日1日だけは、やっぱり憧れてしまったら超えられない。僕らは今日超えるために、トップになるために来たので、今日1日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけを考えていきましょう」、これはカッコ良すぎる。でも、各方向にいちいち憧れていたら一生トップにはなれない。全分野においてトップじゃないと気が済まない完璧主義で苦しむなんてとっても馬鹿らしい発想だ。でも、鬱になると視野が狭くなって、こんなことには全然気付けないまま自分を卑下し続けて、負のスパイラル真っ逆さまだった。これは、鬱が自分に与えてくれた良い教訓だと思う。視野が狭くなっている自分に気付けるようにしたい。

交友関係で完璧主義なんて無理

友達付き合いでも同じことが言えて、みんなとそんなに親密に仲良くしようだなんてそもそも無理だし、「自分が本当にその人と仲良くなることを望んでいるのか?」という根本的な問いに立ち返ることが大事だと思う。

さっきと同じパターンで、鬱の自分は「なんでみんなと上手く仲良く出来ないんだ、自分のコミュ力と人間性がゴミだから…」と自己嫌悪を繰り返していた。

でも、良く考えてみたら「来るもの拒まず去るもの追わず」それで良い。自分は、友達関係が昔からなかなか切れないタイプではあるけれど、切れてしまう交友関係だってある。社会人になったら、お互い連絡の頻度は少なくなるかも知れないけれど、仲良しは仲良しだと思う。

さいごに

今回もまた僕の学びの詰め合わせでした。最後まで読んでくださってありがとうございます!また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋


僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。