心理学的類型(ユング著 佐藤正樹訳)
ユングによると人間は内向的と外向的の二つタイプがあり、さらに下位区分として四つの心的機能(思考、感情、直観、感覚)がある。このうち直観と感覚についてはユングも軽く触れるだけで、主に思考と感情の機能について論じている。このため話を簡単にするため、内向的思考、内向的感情、外向的思考、外向的感情の四つの心理学的類型にタイプを限定してみよう。
このように四つに分類される根拠について、ユングは長年の臨床経験に基づいて帰納したものだと述べてるんだけど、若干、理論的根拠も示されている。つまり社会における分業が発達してくると、社会集団の心的エネルギーを効率的に発揮するため、人間心理もまた社会を構成する一つの部品として、何らかの心的機能に特化したということだ。
だから例えば自分が内向的思考のタイプだと思っていたとしても、それは自分で選択したことじゃなくて、社会を構成する一員として強制されたもので、他の三つのタイプは無意識として抑圧されているということになる。ハイデガーのような哲学者は内向的思考タイプ、農民は外向的感情タイプというわけだ。
で、ルソーやシラーのように自然状態の人間やギリシャ時代の人間を理想とするのは、分業の発展による人間心理の特殊化への無意識的抵抗が背景にあるとしている
だけどいかなる社会でも分業がある限り、何らかの心的機能が抑圧されていることに変わりはないということだ。
こうしてみると、逆に抑圧された心的機能を復活させることは、社会を構成する一員ではなくなることであり、社会から脱落することを意味する。内向的思考タイプの人間にとって外向的感情に溺れることは悪であり、自尊心の欠如として人間性の堕落でもあるんだな。
だけど本人は外向的感情を抑圧してるんだから、あるとき突然、外向的感情が暴走することもあるわけだ。例えばハイデガーは内向的思考タイプだと思われるが、ナチに荷担したのは無意識に抑圧した外向的感情によるものかもしれない。だからハイデガーはナチ思想をそのまま受容するんではなくて、それを「頽落」として、あくまで現存在の本来性により自分がナチ思想を指導すると考えていたわけだ。
内向・外向という類型は一般に普及していて、陰キャ・陽キャと勘違いされてるようだけど、元々はそんなものではない。むしろ世界と自分との関係の捉え方の違いなんだな。つまり自己の同一性を中心にして世界を認識するのが内向タイプであり、外的対象を中心として自己を生成変化として捉えるのが外向タイプだ。
私見ではカント・ヘーゲルは内向的思考タイプだけど、ドゥルーズ・デリダは外向的思考タイプになるだろう。だけどカント・ヘーゲルにしても外向的思考や外向的感情を抑圧していただけだから、それらを意志や情念として認識はしていたわけだ。弁証法とは抑圧された外向的思考の暴走かもしれない。だけど自己同一性が破壊されない限り、それは外向的思考の表象でしかないんだな。ハイデガーにしても「気分」を現存在のあり方とすることで外向的感情に限りなく近づいてるんだけど、やはり世界への「頽落」を非本来性とすることで、内向的思考に凝り固まっていたようだ。
ユング自身、初期キリスト教の神学論争から始めて普遍論争に至るまで、内向・外向のタイプで分析していて、それはかなり説得力がある。実在論も唯名論もどちらも偏頗な主張であることは薄々分かっているのに、双方を両立させることはできず、普遍論争は有耶無耶に終わったんだな。普遍論争に決着がつかなかったということが、内向・外向の両立の不可能であることを示している。
ユングによると内向的・外向的のいずれか一方に特化するのは、人間本性の部分否定であり健全なことではない。特化が行き過ぎると何らかの心的な病状が発症することになる。にもかかわらず自己意識において両者を両立させることはできない。だって一方の心理学的類型からみれば、他方の類型は堕落になるわけだからね。しかもそうした特化は分業社会の要請が背景にある。個人は否応なく心理的に特化させられているわけだ。
ならばどうすればよいのか?
そこでユングが注目するのは無意識の心的エネルギーである。つまり無意識に抑圧された自分と異なる心理学的類型と一体になるために、意識と無意識をつなぐ「想像」に注目したわけだ。そうした想像が一個人において普遍的になっているのが芸術家、普遍性が極限まで到達したのが宗教教祖ということになる。私のような普遍性のない想像は個人的妄想となる。
だからある宗教にとって異端者とは偽の預言者であり、個人的にすぎない夢を普遍的想像としての預言と取り違えた者になるわけだ。
ユングによると想像は意識でコントロールできる部分とできない部分がある。そういう意味で意識と無意識の架け橋となるのが想像であり、人間本性を抑圧から全的に解放するには想像によるしかない。想像力の足りない者は、芸術や宗教による普遍的想像に頼るしかないということになる。人間にとって芸術や宗教が必要であるのは、それらがないと人間本性が部分的に欠如したものになるからだ。
まあこうして乱暴に要約すると、やはりユングはオカルトやニューサイエンスに親近性があるように思われるかもしれないが、それは誤解というもので、ユングのいう心理学的類型の両立は、いわば不可能への間断のない挑戦であり弛緩はない。私はオカルトを全否定しているのではない。ただ中には興味本位の弛緩も見受けられるということだ。私が尊重しているのは探求の本気度だ。
神学論争や普遍論争についてのユングの分析は一心理学者の視点を超えている。アベラールの中に不発に終わった両立を見ている点が興味深い。とてつもなく教養のある合理主義者が心という神秘の解明に挑んでいるようだ。
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