マガジン

  • スピノザ覚書

    エチカを読んで着想したことのメモです。

  • 哲学書の感想

  • 文学の感想

    小説・評論の感想です。

  • サド論

    サドとその関連書籍の感想及びサドについての断想です。

  • ドゥルーズのスピノザ論

    ドゥルーズ著「スピノザと表現の問題」の感想文です。 インスパイアされた脱線を含んでいます。

最近の記事

スピノザの神と人間

 有限様態である人間が神の変状だからといって、両者が単純に繋がっているわけでもない。  そんな簡単な話なら「エチカ」を読んで、たとえ理解に苦しむ箇所があったとしても、結局、すべての問題は神が答えなんだろ、ってことで片付いてしまう。  ドゥルーズのスピノザ論によると、神の思惟する力と存在する力は二つの別のルートで人間に関わっている。  これは「エチカ」の定理を参照して私も確認した。  つまり、神の存在する力は直接人間に通じている。神と人間は双方ともに現実存在する。 (第1部定理

    • 何を言っているのかよく分からない

       何を言っているのかよく分からない、ということはよくあることで、若いキミたちの言っていることがこれだけ分からないということは、私の言っていることも全然分からないということでもあるわけで、それは今に始まったことではなく、昔からずっとそうだったのだから、分からないこと自体を楽しむユトリをもって分かる努力をする方がいい、などと言っていたのは誰だったか、確かサルトルがジュネに対して、少なくとも自分はジュネと違って他者を理解しようと努力しているなどと胸を張って威張っていて、それはそんな

      • スピノザの「本質」と「本性」の差異

         私は「エチカ」を読みながら、「本質」と「本性」は同じ意味だと単純に思い込んでいたが、読み進めるにつれて両者を区別しないと理解しがたい局面にぶつかった。それは後で詳述するとして、まず両者の違いについて、私見を述べてみよう。  実は両者の違いは、「エチカ」の冒頭の定義にある。  このように本質と本性は日本語としては語感が似ているが、ラテン語ではessentiaとnaturaとなっており、大違いである。  そこで、これはひょっとしたらジジイの個人的妄想であるかもしれないが、仮説

        • スピノザの「人間精神」

           スピノザの人間精神はダブスタのように感じられることがある。  一方で、人間精神は「その身体の中に精神によって認知されないような何かが起こることは決してありえない」(2部定理12)とある。  ところが他方で、人間精神は「人間身体そのものは認識しない」(2部定理23証明)としているからだ。  二つの定理は一見矛盾している。  この点については、定理12は神が把握する人間精神、定理23は人間が把握する人間精神と区別すれば矛盾はない。  ここで論点としてみたいのは、どのようなロジッ

        マガジン

        • スピノザ覚書
          24本
        • 哲学書の感想
          25本
        • 文学の感想
          9本
        • サド論
          5本
        • ドゥルーズのスピノザ論
          9本

        記事

          快感原則の彼岸(フロイト著 中山元訳)

           なぜフロイトは第一局所論で満足せず、第二局所論を必要としたのか?  本論文に明記されているとおり、第二局所論が必要となったのは治療上の理由からだ。フロイトの論述は入り組んでいて全体像が掴みにくいんだけど、あえて単純化すれば、要するに第一局所論のように意識と無意識を対立的に捉えて、医者が患者に分析結果を伝えるだけでは根本的な治療にはならないということだ。  なぜなら幼児期の原抑圧は決して意識化されることはなく、医者が分析結果を伝えても患者はそれに抵抗するだけであり、仮に受け入

          快感原則の彼岸(フロイト著 中山元訳)

          欲動とその運命(フロイト著・中山元訳)

           自我論集(フロイト著・中山元訳)所収の本論文を読んで最初に思う疑問は、フロイトのいう内部刺激とは一体どこからやってくるのか? これである。  フロイトはまず欲動を定義して、それは外部刺激に対する瞬間的反応ではなく、内部刺激に対する恒常的な力だとしている。   外部刺激が存在することは明らかだが、内部に由来する刺激の源泉とは一体何か。その説明はない。  その正体についてヒントになるのはフロイトが公表を放棄した「科学的心理学草稿」である。そこでは神経末端装置によって外界の刺激

          欲動とその運命(フロイト著・中山元訳)

          性欲論三篇(フロイト著 懸田・吉村訳)

           本書の冒頭でフロイトはまず用語の定義を次のように行っている。    性目標Sexualzielは、確かにzielだから「目標」と訳すしかないだろうが、性対象と性目標は日本語の語感として似ていて紛らわしい。私見では、そのものズバリ「性的部位」とした方が分かりやすい。倒錯の性行為として性器以外も標的 ziel としている事情が明確になるからだ。性目標とは性行為の部位のことである。  フロイトは性対象を「人」Person、性目標を「行為」Handlungと明確に区別していること

          性欲論三篇(フロイト著 懸田・吉村訳)

          心理学的類型(ユング著 佐藤正樹訳)

           ユングによると人間は内向的と外向的の二つタイプがあり、さらに下位区分として四つの心的機能(思考、感情、直観、感覚)がある。このうち直観と感覚についてはユングも軽く触れるだけで、主に思考と感情の機能について論じている。このため話を簡単にするため、内向的思考、内向的感情、外向的思考、外向的感情の四つの心理学的類型にタイプを限定してみよう。  このように四つに分類される根拠について、ユングは長年の臨床経験に基づいて帰納したものだと述べてるんだけど、若干、理論的根拠も示されている。

          心理学的類型(ユング著 佐藤正樹訳)

          完全雇用は存在しない

           完全雇用という概念はイデオロギー的概念であって、現実社会においては完全雇用は歴史上ただの一度も実現したことはなかった。これが私の見解である。  なぜなら自然失業率の設定次第でいくらでも完全雇用と称することができるからだ。  つまり完全雇用とは実際の失業率から自然失業率を控除した残りがゼロの状態だとされているが、自然失業率の解釈次第でどうにでもなる数値だ。  だからマネタリストの中には実際の失業率が10%であっても、それは自然失業率だから完全雇用だという主張する者もいる。  

          完全雇用は存在しない

          カントの批判哲学(ドゥルーズ著 國分功一郎訳)

           本書は150頁の中の約100頁、つまり三分の二近くを「純粋理性批判」と「実践理性批判」の解説に充ててるんだけど、ターゲットは最後の「判断力批判」にあるのではないかと思う。  前半の二批判の解説を読むと、最後の「判断力批判」におけるカントの問題提起がいかに困難なものであり、いかに特異な問いであったかがよく分かる。そういう仕掛けになっている。  ドゥルーズによると、イギリス経験論(ロック、ヒューム)と大陸合理論(デカルト、ライプニッツ)は見かけほど対立しているわけではなく、どち

          カントの批判哲学(ドゥルーズ著 國分功一郎訳)

          スピノザの「愛」

           「エチカ」の体系によると、神の自己愛が存在しない限り一切の愛は存在しないことになる。そういうロジックになっている。  そこで神の自己愛がなぜ成立するのかを論点としてみよう。  そもそも神は最大の完全性であるから、精神がヨリ大きな完全性に移行するという喜びはない。そして愛とは外部の観念を伴う喜びであるから、神には愛という感情はない。  だがスピノザの神は能産と所産に分裂する。つまり生み出す自然と生み出された自然だ。福居純の言い方だと神の脱中心化である。  すると自己原因である

          スピノザの「愛」

          スピノザの「表象」概念

           スピノザの「表象」概念については「エチカ」第2部定理17に詳細な説明がしてあるんだけど、文章だけだとややこしいので図解してみた。    スピノザは人間身体を軟らかい諸部分と流動的諸部分の二つに区分している。それが上図のように重なっているとしてみよう。  すると外部からの物体が人間身体に接触すると、サンドイッチ状になって二つの部分が凹むことになる。  すると外部の物体が人間身体から離れた後でも、凹みが残る。  その凹みに流動的諸部分が流れると、外部の物体が存在しなくても、

          スピノザの「表象」概念

          吾輩は猫である(夏目漱石著)

           作品のタイトルは重要であって、タイトルによって作品の印象がガラリと変わってしまう。で、この作品は「吾輩は猫である」という人を食ったようなタイトルによってユーモア小説のように思われているんだけど、他のタイトルであることも充分ありえただろう。例えば「名前のない猫」というタイトルなら、ちょっと哀れっぽいイメージになる。  この小説の冒頭では猫に名前がないこと、親から引き離されたこと、非常に空腹であること、の三つの主題が列挙されている。  親から引き離されたという主題は、漱石も同じ

          吾輩は猫である(夏目漱石著)

          スピノザの「完全性」

           確かにエエ歳をして、定理・証明で根拠づけながら感想を述べるのは大人げないとは思うんだけど、スピノザの抽象的な言葉が、自分の生にとって何を意味するか、具体的に探求したいだけだから勘弁してもらいたい。  スピノザの定理では、「喜び」とは精神がより大きな完全性へ移行することだ(3部定理11)としているんだけど、この「完全性」が具体的に一体何を意味するのかよく分からない。  フィーリングではなんとなく分かる。そりゃ、精神の力能が大きくなれば満足という喜びはある。だけどそれは人と出

          スピノザの「完全性」

          断酒のスピノザ的方法

           私はアレン・カーの本で禁煙には成功したんだけど、断酒の方はムリだった。アルコール自体は無味だから美味と感じるのは、アルコール以外の味だと言うんだけど、そんなことはない。  たとえノンアルがアルコール以外の味を同じにしても、ビールの味とはまったく違う。アルコールが加わって味全体が変化するのだ。  無味であるはずのウォッカを紅茶や珈琲に垂らしても味が素晴らしく変化する。アルコール以外では出せない味だ。  和食で酒を飲まないヤツは万死だな。  アルコールに限らず、すべて依存性のあ

          断酒のスピノザ的方法

          文学の力

           私は若い頃は小説が好きで、哲学は小説を読むための肥やしであった。  実際、吉本隆明や柄谷行人らの文学批評は哲学的でもある。  それがいつのまにか逆転して、哲学が読書の中心となり、小説は息抜きになってしまった。  江川隆男はイメージなき思考を徹底すると小説が読めなくなった、と述懐されている。(「超人の倫理」あとがき)  その点、私は大甘でヌルい思考なので、そこまでの心境には到達しないものの、かつてのようにイメージの世界に没入することが難儀になったのは確かである。  これはコメ