「共同幻想論」(吉本隆明著)を読む
不肖70歳の暴走老人。
退屈のあまり刺激を求めて過度に論争的かつ攻撃的になっているかもしれませぬ。他意はないです。エラソーで気分を害されましたらゴメンナサイ。
<角川文庫版のための序>
この序文で、吉本はあらためて「共同幻想論」が「国家が成立する以前のことをとり扱っている」ことを明言している。では何が主題かというと、個体幻想とは異なる次元の共同の幻想である。それは単一の幻想ではなく、宗教、倫理、習俗等、様々な種類の共同幻想があり、それらが一つの中心に凝集していく過程を本書は主題としている。
奇妙な主題である! 一方で国家が成立する以前の共同幻想を対象とするといい、他方では国家へ収束していく共同幻想を対象とすると述べられている。だが、やはり本書は国家論なのだ。吉本は、本書を執筆した動機が、ヨーロッパと我が国の「国家概念」の違いに驚いたことにあると述べているからだ。したがって国家成立以前の共同幻想を対象としているから国家論ではないと解するのは妥当ではあるまい。一見、本書は国家とは無関係ともいえる様々な共同幻想を扱っているが、それらの共同幻想は国家へと収束していく方向性を共有している。
だが本書が難解であるのは、その国家へと収束していく方向が必ずしも明瞭に示されていないからである。あたかも吉本は民俗学・文化人類学と国家論との狭間で思考しているようだ。どちらにも属していないことが、本書の独自性であり強みであるようにみえる。
それはなぜか?
おそらく吉本は「共同幻想」の特異性をまず打ち立て、その本質の解明を急務としたからであろう。それは既存の宗教学、民俗学、文化人類学、国家論等々がそれまで対象としてこなかった何かである。だが、そうなると、共同幻想が国家へ収束していく方向が相対的に見えにくくなるのである。西欧の国家観への驚愕というモチーフと、共同幻想の特異性を解明することに「固執した」こととが、微妙に食い違っているようだ。
したがって、それはなぜなのか、なぜ、国家への方向を直接示さずに、共同幻想の解明に固執するのか、また国家への方向を示すとすればどのような説明がありうるか、自分で考えてみる面白さがあると言える。まずはそのような問題意識で読んでみることにする。
<全著作集のための序>
この序文で吉本は、我が国の「幻のアジア」性について述べている。日本は自然条件のため大規模な運河、灌漑、干拓工事を必要とせず、このためアジア的な専制国家とはならなかったが、文化・宗教・政治制度は大陸から輸入したので、支配層は「観念の運河」を掘削することに権力と富を費やしたというのである。つまり支配層の共同幻想が農民たちの共同幻想を掘削していったということである。その結果、名目や象徴としての権力と政治権力が別個のものになり、それが日本の共同幻想の<アジア>的特性だというわけである。そして現代の共同幻想にも前古代的アジアが住みつき、それが現在の国家の非アジアに照応するという。
序文であるから、これが吉本の一方的御託宣なのか、文献・資料等に基づく考察なのか、不明である。それは本文で検証することにしよう。ただ、吉本が現実の国家よりも前に「幻のアジア」つまり共同幻想の解明に固執する動機については充分示されていると思う。
思想・芸術を表現とみるのは分かるが、吉本は政治もまた表現としてみている。このような言い方が生じたのは、吉本の言語観に根拠があり、吉本は言語学者と異なり、言語を「表現された言語」言い換えれば概念以前的実践(プラティク)としての言語と捉えているからである。
そしてそうした視点が政治、思想、芸術を統一的に捉える視点となったと述べている。さらにそれらがすべて幻想領域だというのだから、吉本の幻想概念は、概念以前的実践(プラティック)としての世界だとみることができる。
この「表現」はあたかも主体的行動のように見えるが、吉本が「表現された言語」という場合、主体は言語の関係項として表現されているのである。だから政治もまた、「表現された政治」として捉えるとき、その主体は政治的実践の中に表現された主体として存在するのである。
重箱の隅をつつくような議論だと思われるかもしれないが、吉本が言語学者に対して「表現された言語」の特異性を主張するからには、吉本の表現概念を前面に出して議論すべきであろう。
そして、表現によって統一的に見えてきたものが、幻想領域だとしているのだから、吉本の幻想概念は、表象ではなく概念以前的実践(プラティク)だということになる。それは内省ではなく生産である。吉本自身、幻想を「うみだす」とか、「作りだす」という言い方をしている。
つまり政治家が綱領を述べることが、ここでいう「政治的表現」ではない。同様に、思想家が自分の思いを述べることが「思想的表現」でもなく、芸術家が構想を作品として制作することが「芸術的表現」でもない。そうではなく、歴史のなかで政治、思想、芸術等々が概念以前的実践として生産される領域、それが表現としての幻想領域である。
(概念以前的であるのは現実の実践においては必ず当事者の意図しない要素を含むからだ。)
要するに、吉本の幻想概念を表象と捉えるのは誤読である。それは表象と非-表象の両方を含むものである。
「幻のアジア」は理論的に帰結された幻想であり、明らかに表象ではない。吉本が指摘するまでは、誰も「観念の運河」など見たものはいないからだ。だが、それは非-表象として存在するのである。共同幻想は、個人が共同体に対して抱く表象ではない。あたかも法律を知らなくても客観的に法律が存在するように、共同幻想は存在する。
また吉本の言語理論からすると、自己幻想あるいは個体幻想もまた表象だけでなく、非-表象を含むことは明らかであろう。作家は自ら意図せずに、日本語を使うという実践において、自己表出の水準を意図的ではなく無意識のうちに上昇させるからである。
序言にふさわしく、私もまた勝手なことを述べたが、これらは本論を検討することで検証してみたいと思う。
最後に吉本は「国家をたんに国家として扱う論者たちの態度からは現在はもちろん未来の情況に適合するどんな試みもうみだされるはずがないのである。つまり、かれらは破産した神話のうえに建物をたてようとしている」と批判している。
それはつまり、既存の国家概念は、古代の大陸伝来のものであれ、近代のプロイセン伝来のものであれ、我が国の支配層が導入したものだからである。吉本は、それらを「破産した神話」としている。「国家をたんに国家として扱う」という学術的な態度の中に既に、「観念の運河」が掘削されているのである。村落共同体の話ではない、おまえ自身のことなのだ。
<禁制論>
今日の事後的視点で本章を読むと、既に自己幻想、対幻想、共同幻想の三つが出揃っていて、それらの関係を説明するために「禁制」を取りあげているように見える。
だが本書が書かれた時点に立ってみると、吉本は、「禁制」を取りあげることによって、これら三つの幻想領域を発見したとみるべきであろう。吉本はフロイトを批判することによって、「対幻想」をはじめとする三つの幻想の位相構造を発見したのだ。
したがって冒頭のフロイト批判は禁制概念を仕上げるための単なる思いつきではなく、吉本の幻想論の中核であるように思われる。言い換えれば幻想領域が表象と非-表象とをともに含む構造であることを、フロイト批判によって発見したのである。
フロイトによると「禁制」には恐怖と願望の両価性があり、未開種族の近親相姦にはつよい願望があるが、同時にそれは共同体の破壊に繋がるから禁止の掟が生じたということである。それに対し吉本は、未開人の「心の劇」としてありうるが、近親婚禁止の制度としてはありえないとする。
つまり、吉本はフロイトが対幻想にのみ当てはまる精神分析を共同社会に拡張して適用したことを批判しているのだが、それはフロイトの<リビドー>概念が、あるときは個人の心的世界、あるときは<性>的な経験や行為の結果として、その区別が自覚的にならず無造作に混同されているからだとしている。
だが、なぜ、そもそもフロイトにそうした混同が生じたのか?
吉本は「心の劇」という言葉で、既にその応えを書き留めている。
「心の劇」とは表象である。そして吉本のいう「制度」とは非-表象である。だから、吉本のフロイト批判は、表象(心の劇)でもって非-表象(制度)を根拠付けることはできないと言い換えることができる。
タイトルは「禁制論」だが、禁制を主題として既存の学説を批判しているのではない。吉本はここで新しい禁制概念を創出しているのである。
この新しい禁制概念によって、三つの幻想領域が形を表してくる。だから本書の冒頭に掲げられたのであろう。個体幻想に関係する禁制は、自己の自己に対する禁制として強迫神経症として現れる。また共同幻想に関係する禁制は、黙契として現れる。これらはそれぞれ対幻想のみに関わるフロイト的な禁制とは別の禁制概念である。
そして、この新しい禁制概念によって三つの幻想領域が初めて確定されているのだから、ここは少し立ち止まって考えてみよう。吉本のフロイト批判は心の劇を制度と取り違えているということであった。だがこの批判は吉本自身の禁制概念にも当てはまるのではないか? 吉本が注目するのは、「禁制」における心の両価性(恐怖と願望)である。
「たかだか・・・意識としてあらわれるに過ぎない」と言い、そのような意識としてのあらわれ(つまり表象)によって制度を根拠づけるのは誤りだというのであるから、吉本の禁制概念は、意識に現れないもの、「心の劇」ではないもの、いいかえれば非-表象でなければならないはずである。果たして、そうなっているか?
これが吉本の禁制概念だが、不明瞭で分かりにくい。特に「対象として措定する意識」とか、怖れ、崇拝となると、吉本の禁制概念もまた、フロイトと同じように「心の劇」ではないかと疑ってしまう。だが、注意深く読むと、「対象は過小にか過大にか歪められてしまっている」というように、意識した結果として両価性を捉えていることが分かる。つまり意識によって歪めた表象ではなく、歪められた現実が問題となっている。
これは深読みによる吉本擁護ではない。吉本が取りあげた禁制の例示をみれば明らかである。吉本は自己幻想に関係する禁制として、自己にとって自己が禁制の対象である状態、すなわち「強迫神経症」を例示している。この病例の場合、確かに意識は自己を「対象として措定している」側面もあるだろうが、意識が自己を歪めているのではない。これは明らかに表象だけに限定されるものではなく、表象を超えた病理構造である。
また共同幻想に関係する禁制として「黙契」を例示している。これもまた後にみるように意識が措定している黙契の内容と、その現実的関係にはズレがあり、明らかに表象を超えたものを含んでいる。
つまり吉本はフロイトのように、恐怖と願望が意識としてあらわれた表象によって禁制を根拠づけるのではなく、病理構造、性的構造、社会的構造という一連の非-表象に基づいて自己幻想、対幻想、共同幻想に関係する三つの禁制を根拠づけているのである。
そうした理論的な流れが充分説明されていないので、唐突に、強迫神経症や黙契が出てくるように思われるのだが、それらはフロイトに対する表象批判として取りあげられていることに留意すべきである。
吉本は共同幻想の禁制と黙契とを区別しているが、両者は混然一体となっており、「<黙契>は習俗をつくるが<禁制>は幻想の権力をつくる」として、その両者がからまった状態を知るために、吉本は「遠野物語」を参照するのである。
本書が一世を風靡したのは、ここである。通常の発想であれば「古事記」「日本書紀」を参照するところ、あえて最初に柳田民俗学を参照するところが注目され、その後も先見性があると評価されている。だが、なぜ柳田民俗学か?
それは文脈から明らかだが、宗教的な禁制は、大陸から輸入された国家観を既に反映したものであり、本書の主題である「国家が成立する以前」(序)の共同幻想の解明に適していないからである。
つまり国家以前性としての共同幻想の探求、これが習俗としての黙契に着目する理由であり、遠野物語に着目する理由である。そうした理論的展望のもとに遠野物語が選択されたのであって、決して単に共同幻想の一事例として任意に参照されたのではない。
そして習俗としての「黙契」が共同体の「禁制」と「からまったまま混融している」のは、国家以前性としての様々な共同幻想が、国家へ向かい一つに収束する方向性が潜在していることを示しているのである。
遠野物語に対する吉本の読みは驚くべきものがある。
吉本は最初に「死者」と「他界」とを区別している。「死者」は宗教理念と関係するが、「他界」はそうではないというのだ。ここに既に宗教的禁制と習俗的黙契の混融した状態が指摘されている。したがって吉本が「他界」と言うとき、それは国家以前性の共同幻想を示しているのである。だが、それは問題提起として触れただけで、本章ではなく後章の「他界論」で詳説されることになる。
それにしても本書を読みながら感じるのは、なぜ共同幻想をテーマとしている本書で、入眠幻覚や類てんかん、既視などの病理現象が頻繁に取りあげられるのかという疑問である。それらは共同幻想とは一見無関係に思われる。だが吉本によると、それらの<病理現象>が異常であるのは、あくまで共同幻想成立後の現代社会においてであって、既に成立した共同幻想と個体幻想とが逆立しているから異常に見えるのである。
ところが個体幻想と共同幻想とが分岐析出する初源においては、それらは<共有された幻覚>として正常なのである。
遠野物語から吉本が抽出するのは、山人畏怖であるが、その初源には狩人の入眠幻覚があるとしている。だが、この入眠幻覚は現代人にとっては異常であるが、当時は狩人に共有された入眠幻覚であり、共通体験として語られうるものであり、そうした個体幻想と共同幻想が初源において融溶している段階のものであるとしている。
つまり吉本は村落共同体における<入眠幻覚>を単なる病理現象とは見ていない。<入眠幻覚>は歴史的に変遷を経て仕上げられた概念であり、社会構造と無関係ではないものとして捉えられている。入眠幻覚は共有されて初源の共同幻想となる。だが、どこで共同幻想は個体幻想と対立し逆立するようになるのか?
それは、村落共同体から離れることへの恐怖としてである。ここにおいて単なる狩人の疲労による幻覚が、共同体から出離してはならないという共同幻想の<禁制>へと発展するのである。吉本はそのことを遠野物語により、①山人への恐怖、②山人との出会いが夢か現か分からない恐怖、③山人の住む世界への恐怖、というように発展段階として抽出している。そしてこのような発展は、明らかに表象としての「恐怖」が主体となっているのではない。
共同体を維持するという非-表象としての「黙契」が、表象としての恐怖を生み出しているのである。つまり村人は無意識面では黙契を受け入れつつ、意識面では入眠幻覚にあらわれる恐怖として抑圧されているのである。それは個体幻想と共同幻想の初源の対立である。
このことは共同体の禁制が、心の劇によって生じたものではなく、社会構造と無縁ではない入眠幻覚という病理構造によるものであることを示している。
<憑人論>
本章を読みながら、ふと思ったのは、吉本は共同幻想と自己幻想のどちらが先行すると考えていたのかという疑問である。本章を読む限り、どうも共同幻想が自己幻想に先立つものとして捉えられているようだ。共同体があってこその自己であるならは、それは一見、自明のことと思われる。だが自明性を疑うことこそが、哲学の本務である。
個体概念が西欧に出現するのは13世紀ドゥンス・スコトゥスに淵源があるらしい。そこからデカルト・スピノザ・ライプニッツと継承されて現代に至るのだが、たとえ共同体が歴史的に個体に先行することが事実であるとしても、なぜそのような事実なのか、という問は権利上の問として立ててもよいだろう。
吉本がその問に答えているかどうかは不明だが、少なくとも「入眠幻覚」を鍵として、共同幻想の先行性が説明されているように思う。だから「入眠幻覚」概念は本書において最重要の概念である。
ここでいう「入眠幻覚」は精神病理学の概念ではない。吉本は専門家の「入眠幻覚」概念ではなく、前章でも述べたとおり社会的歴史的な構造を考慮した「入眠幻覚」概念を新しく打ち立てているのであるから、専門家の見解と食い違うのは当然であり、それをもって吉本の説を無視しうる理由にはならない。
吉本は「入眠幻覚」を原-民話の共同幻想として捉えているのであり、それが単なる個人病理を超えて社会的構造と繋がるのは当然である。
問題は、この拡張された入眠幻覚概念に含まれる三つの志向、<始原的なもの><他なるもの><自同的なるもの>は、共同幻想なのか自己幻想なのか、である。
吉本の説明では、共同幻想が自己幻想へ移ってゆく位相として、三つの志向が捉えられることになる。まず、吉本は<始原的なもの>への志向として、幼時の柳田の「気質」、すなわち母親から離れる恐怖を例示している。それは「気質」だから、個人的なものであり、自己幻想であるようにみえる。だが、吉本はそのような「気質」は、「少年期のある時期にたれもが体験できるものである」と述べており、「遠野物語」の狩人たちに共有された入眠幻覚と同様のものと位置づけている。
次に<他なるもの>への志向であるが、吉本はその例示としてESPに言及しており、「正常な共同幻想の位相は存在しない」と微妙な言い方をしつつ、自己喪失だから自己意識ももっていないとしている。それは共同幻想を脱しつつ他の対象に憑くものとして、巫覡(ふげき、シャーマン、呪術師のこと)の自己幻想としている。
さらに<自同的なるもの>への志向については、宗教体験を例示し、「自己が拡大された自己に憑く」として、宗教者の自己幻想としている。
興味深いのは中間の巫覡の自己幻想である。それはESP に対応するのだが、自己喪失として自己意識がないにも関わらず、吉本は「自己幻想」とするのである。ここからも吉本が「自己幻想」を非-表象として位置づけていることが分かる。共同幻想からの自己幻想の分岐は、自己意識の誕生ではないのである。吉本は自己幻想の誕生を、「憑人」という非自己意識としての幻想の運動によって示している。
これは一体どういうことだろう? 人は自分でも知らぬ間に個体になってしまっているということだろうか? 個体と自己意識が一致しないことは何ら不思議ではない。ライプニッツの「微小表象」についても言えることであるから、吉本の自己幻想もそのようなものとして捉えるべきであろう。自己幻想とは<憑く>という運動によって個体となった共同幻想である。
そして「遠野物語」からの例証は、<予兆>譚であるが、共同幻想から次第にひとりの人物の自己幻想にまで結晶する過程が引用されている。
つまり自己幻想が成立する初源においては、それは共同幻想と同じような位相に存在するということだ。吉本はこうした人物(芳公馬鹿など)による予兆は、「鼠が火事を予兆して移動するといわれているように<予兆>しているにすぎない」としている。だから、共同幻想が、こうした人物へと結晶する自己幻想とは、自己意識ではない。
すると共同幻想が自己幻想へと結晶する理由とは何か?
吉本の答は共同体における地上の利害である。自己幻想への結晶が自己意識のドラマではないとするなら、それ以外にはありえないだろう。勘違いしてはならないのは、共同体の地上的利害が共同幻想へ反映しているということではない。そうではなく、地上的利害が共同幻想を動かし、個体化へ導いているということだ。それが「憑き筋」である。
意外だが、吉本は共同幻想それ自体は対立のないものとして捉えている。もし対立があるとすれば、それは共同幻想と自己幻想との逆立した関係においてである。
つまり共有された入眠幻覚は共有されている限り、排斥はない。誰もが予兆経験のあるものとされている。ただ、地上的利害によって、一人の人物が排斥されることにより、その人物に共同幻想としての予兆経験が固着することによって、共同幻想が個体化するのである。それが自己幻想である。それは自己意識ではないから、心が喪失した忘我の状態でも自己幻想なのである。というかむしろ逆に自己意識を喪失したシャーマンにならなければ自己幻想になれないのである。こうしてみると自己幻想は自己意識によって作られるのはなく、逆に集団内部の利害関係によって生み出されたものであることが明らかである。
すると成立した自己幻想において、どのように自己意識が生じるのかが、次の問題となる。それは三つの志向のうちの最後、宗教者の自己幻想として例示された<自同的なるもの>への志向である。それは本章の前半で素描されただけで、「遠野物語」による例証はされていない。これからの問題であろう。
<巫覡論>
本章は芥川龍之介の「歯車」の引用から始まるのだが、いかにも唐突である。この「歯車」を引用する意図が、<離魂>譚に触れようとするものであるのは分かる。ならば、それに続く「遠野物語」の<離魂>譚の例証で充分ではないか。なぜ、現代(といっても昭和初年だが)に戻るのか?
これは私の推測だが、吉本はここで、共同幻想から分岐析出された自己幻想の運命について触れたかったのではないかと思う。芳公馬鹿や孫太郎などの巫覡はあれからどうなったのか、どうなってゆくのか? 彼らは共同社会の地上的利害によって排除された人物たちであり、共同幻想が固着して個体化したものである。それは自己幻想として共同幻想から独立しているが、共同幻想と同じ位相にあり、誰でもよい任意性がある。彼らの行う予兆は、鼠が予兆するのと変わらないのである。その任意性は、その後の自己幻想において完全に払拭されたのか?
おそらくそれは現代においても払拭されていない、と私はみる。吉本は、そのことを「歯車」の引用によって示したのだと思う。吉本は「遠野物語」の<離魂>譚においては「<他者>の概念は存在しない」という。では、「歯車」はどうか?
そう言われても引用した理由があまり「はっきり」しない説明だが、要するにこれは自己と他者との関係の任意性が述べられているのだと思う。他者の「登場を不可欠のものとし・・・登場しないかのような形でも存在しうる」ということは、他者との関係があってもなくても良い、ということである。<第二の僕>を見たとも言えるし、見なかったとも言える位相に自己と他者が存在しているからである。すると現代人の自己意識の唯一性・単独性はどうなるのか? 確かに私は自分が唯一単独であると思っているが、人との関係ではお互いに唯一でも単独でもない。ハイデガーのいう世人だ。「歯車」の離魂譚はそれを極端化したものにすぎない。そして、この自己と他者との関係の任意性、偶然性は、自己意識の唯一性と釣り合わないのである。
これを自己幻想が発生した初源の人物たち、「芳公馬鹿」や「孫太郎」と比べてみたらどうだろう。共同幻想から分岐した自己幻想は、憑きの状態では自己意識もなく、鼠と変わらない任意性がある。結局、そのようにして生成した自己幻想もまたお互いに任意の関係とならざるを得ないであろう。それは現在まで続いているのである。
だが、この他者との関係が絶対になる場面がある。それが対幻想であると吉本は主張している。
つまり自己幻想は、意識喪失から離魂状態まで含み、ときに共有された入眠幻覚として共同幻想と同じ位相にも存在しうる。それゆえ自己幻想は特殊であっても交換可能であり、かけがえのないもの、つまり特異性はない。吉本にとって自己幻想とは器のようなものであり、そこには自己意識も含まれるが、同時に様々な精神病理事象も含められるものである。するとその器としての自己幻想は、あたかも精神科医からみた治療対象と同様に、誰でもよい交換可能な任意性を持っているといえる。
だが、この任意に分岐した自己幻想同士が対になると、それは必然的で特異な関係となるのである。それが対幻想ではないか? そして自己意識の単独性・唯一性は対幻想の特異性と釣り合いがとれているように思われる。「勝手に消し去ることができない綜合的存在」という部分には重い意味があると私は考える。
すると本章における吉本の理論的構想は、自己幻想の任意性に代えて、対幻想の唯一性・単独性を素描することにあるように思われる。それは上の引用文のように一方的御託宣に終わっているが、具体的には次章以降で解明されることになる。
<補足>
入れ物だった自己幻想がかけがえのない特異性をもつのは、対幻想(男女・女女・男男のカップル)によってである、というのは説得力があるように思うが、それはリア充中心主義ではないか、対幻想とは無縁のボッチはどうなるんだ、という疑問も生じる。
思うに、いかなる個人も男女のペアを親として誕生したのだから、親との関係で対幻想が生じるのである。
あまりにも当たり前だから、本書はそこまで言及していないだけだ。
では自己意識はどうなるのか? どのようにして自己意識は自己幻想の中に宿るに至るのか? それは本書全体によって明らかになるだろう、だが、本章の後半で興味深い用語が出てくる。それは「自己幻覚」である。
この「自己幻覚」は頻繁に使われるので、自己幻想の言い間違いではない。では一体何か? 注意深く読むと、それは「表象」であることが分かる。つまり自己幻想を表象として捉えたものが「自己幻覚」である。したがってそれは自己意識の芽生えであろう。
だが注意しよう。この表象としての「自己幻覚」は成長するのである。最初は漠然とした存在意識であったものが、次第に反省的な自己意識へと成長する。意識とは関係の関係だから当然である。だが、それは既に生じた自己幻想の内部で成長するのである。
<いずな使い>が<離魂譚>より高度だというのは、自己意識を獲得しているからではない。それは自己幻想の離魂譚にも表象として存在する「自己幻覚」の意識が対象化されず外へ浮遊していくのに対し、<いずな使い>においては<狐>に対象化されているから高度なのである。そして<狐>は女に化けるのだから、自己意識が対幻想に関係する、と私は思う。
だがなぜ対幻想は男女関係なのか、同性同士ではダメなのか? 吉本の説明では、対幻想は共同体と家族の利害関係を反映しているからだという。そして「遠野物語」の時代においては、事実上、家族は男女関係としてしか存在しなかったから、そうなるのである。出典は忘れたが、講演において吉本は性的関係であれば、対幻想は異性、同性を問わないと言っていた。
こうしてみると、「憑く」ことに二つの意味があることが分かる。一つは、<いずな使い>が共同幻想を「いずな」(霊的小動物のこと)に対象化させること、もう一つは村人が<いずな使い>を共同幻想の象徴として対象化させることである。
そして文脈からみて、吉本は<いずな使い>の行う対象化の方をより高度とみなしている。なぜか?
本書はそこまで述べていないが、推測すると、関係の強度に違いがあるからだと思う。つまり<いずな使い>と「いずな」との関係は、<いずな使い>と村人との関係よりも強固なのである。そして<いずな使い>が巫女の場合は、さらに強くなる。それは性的関係の方が、任意の個人との関係よりも強固であることと同じであり、対幻想が特別の関係を基盤としているからである。
●幻想とは何か?
本書を読んでいるうちに、そもそも吉本の言う「幻想」とは何かが不明瞭になってきたので、現時点で分かっているところを整理してみる。
吉本の「カール・マルクス」を読むと、下部構造が上部構造の土台となるという史的唯物論を真っ向から否定していることが分かる。吉本のマルクス解釈によると、土台となるのは経済構造ではなく、人間と自然との疎外関係であり、そのうえに下部構造(経済構造)と上部構造(幻想領域)が位置するというものである。つまりマルクス思想の中核は「自然哲学」であり、経済学も哲学も自然哲学を基にしているという解釈である。だからこそ、幻想領域は経済構造からではなく、人間と自然との疎外関係から直接導出されるのである。
では史的唯物論はどうなるのか? 吉本は幻想論に「固執する」と述べているので、そこは推測でしかないが、吉本は経済と幻想という二つの構造を、スピノザの属性概念と類似したものとして捉えていたようだ。つまり実体に対して思惟属性と延長属性が同根でありつつ異なるように、人間と自然との疎外関係に対して同根でありつつ異なった二つの表現として経済と幻想を捉えていたように思われる。このため両者は異なりつつ並行関係にある。こうした視点で、吉本の幻想概念を整理すると、次の二点にまとめられる。
①幻想領域は表象ではない。
自然と人間との疎外関係は相補的である。つまり幻想領域に限定してみれば、人間による自然の疎外(表象による自然の対象化)と自然による人間の疎外(原生的疎外すなわち無意識の衝動)とが相補的である。(経済活動も同様に相補的である)したがって幻想領域は表象だけではなく、無意識の衝動によっても構成される。これは吉本がしばしば精神病理現象に言及していることから明らかである。ではフロイトとどこが異なるのか。
②幻想領域は等質ではない。
幻想領域は経済構造とは異なる自立した構造であるが、経済構造と同根であるため、共同体・家族・個人という経済的利害関係と並行する構造を持つ。それが共同幻想・対幻想・自己幻想であるが、これらは利害関係と同様に相互に対立する異質な幻想となる。フロイトは表象と衝動の二大分割しかないため、共同体・家族・個人に対して表象一元論となる。これが吉本のフロイト批判(精神分析の拡大適用批判)の本質である。
吉本が「幻想」という言葉を選んだ理由は、「表象」「観念」「精神」等の言葉がすべて等質空間を示しているからであり、これに異質構造としての「幻想」を代置するためである。
したがって吉本の幻想論は観念論ではない。史的唯物論とは別のやり方であるが、マルクスの「自然哲学」を発展させたものである。
それがどうしてこれほど難解になるのか? おそらく、吉本自身、三つの幻想が異質であると言葉で言った瞬間、それが「異質」でなくなることに気づいていたからだと思う。所詮、分かり易い図式は、それもまた表象一元論である。あくまで幻想の内部で悪戦苦闘しながら、それが「異質」であることを体験するしかないのである。
<巫女論>
はじめに吉本は柳田の説を紹介している。それによると「<巫>は日本では原則として女性であった」とし、その理由を、①女性の感じやすさ、②女性が子供を産み育てるかなめであること、から「ひとびとの依存心があつまる巫事」に適するとしている。
吉本は、それは単に事実を述べただけのことであり、男性が巫に適する理由も同様にいくらでも列挙できるとしている。なぜ<巫女>は女性でなければならないか、その必然的理由はなにか?
こういう説明で納得する人はいないだろう。ただちに反論が生じるからだ。では共同幻想が仮に性的対象であるとして、その場合でも、なぜ男性ではダメなのか? 共同幻想を性的対象となしうるなら、特に性別にこだわる必要はないはずである。吉本は神でも人でも狐でも犬でも、巫女は性的対象となしうると言うが、ならばそれらは全て男性あるいはオスなのか? 確か狐は女性に化けるのではなかったか。
この疑問に対し、吉本はフロイトの説で答えようとしている。それによると女性とは、最初の<性>的な拘束が同性であった心性をもつ者と定義され、「その拘束からのがれようとするとき、ゆきつくのは異性としての男性か、男性でも女性でもない架空の対象だからだ」というわけである。
ところが、男性は最初の性的拘束から逃れるために性的対象に向かうことはありえないというのである。これが、男性が共同幻想を性的対象となしえない理由である。
精神分析が対幻想においてのみ有効とみる吉本からすると、この部分において全面的にフロイトに依存しているのも頷ける。だが、そこにはフロイトとの微妙なズレがある。
吉本が参照している『続精神分析入門』においては、「女の子」が自己と同一の性(母)から逃れるのは、リビドー(ペニスへの願望)によるものであり、願望の対象として逃れる先は「父親」あるいはペニスの象徴的等価物としての「人形」「子供」である。
だが吉本の場合、逃れる先は「自己幻想」あるいは「共同幻想」となっている。
これはフロイトの誤読ではなく、むしろフロイトの可能性を最大限に引き出したものと私は思う。つまりフロイトにおいては家庭内の表象劇にとどまっていた「父親」「人形」「子供」を、「共同幻想」と「自己幻想」へ拡大したのだ。
一見、それは吉本のフロイト批判(精神分析の拡大適用)を吉本自身が侵しているようにみえるが、留意すべきはフロイトの場合は表象(父親、人形等)を表象(共同体の長、王)へと拡大しているに過ぎないのに対し、吉本の場合は、「自己幻想」「共同幻想」へ向かうことによって、それとは異質の「対幻想」が生産されるとしている点である。まだ、私自身、この段階ではうまく整理できていないが、少なくともフロイトとは違うということを確認して次へ進む。
吉本は明示しないのだが、前述したように、共同幻想から自己幻想が分岐する過程は、巫覡が<いづな>を共同幻想の象徴として対象化する過程と、村人が<巫覡>を共同幻想の象徴として対象化する過程の二つがある。
同様に、ここでも対幻想が生じる過程が二つあることが示されている。まだ、この段階では「対幻想」と明記されていないが、おそらくそういうことだろうと推測している。
ここで初めて「対幻想」が出てくる。巫女の<性>的対象云々は「対幻想」の産出過程の説明だったというわけである。
この後、吉本は巫女の「対幻想」が日本特有のものではなく、世界でも形を変えて普遍的に見られることを説明している。例えば<聖女>が日本の巫女と異なっているように見えるのは、ただ抽象度の違いであり、「<聖女>の<性>的な対幻想の対象である<神>は、きわめて抽象された次元に存在する」からであるとしている。
またシャーマンと巫女との違いなども、様々な事例引用で説明されているが、基本的には<対幻想>の異質性が事例によって説明されている。
ところで、吉本の著作を読んでいて、多少イライラしてくるのは、「同化」である。
言っていることの趣旨はなんとなく分かるのだが、「自己幻想を共同幻想と同化させる」とは何か? 二つの幻想が異質であるのに、なぜ同化できるのか?
この問いは、共同幻想・対幻想・自己幻想が異質であるとして、それがいかなる意味での異質性なのかという問いでもある。
例えば共同幻想と自己幻想が逆立するのは当然だが、その逆立は意識して解消すれば克服できるような逆立なのか? 幻想が表象を超えるものである限り、その逆立は意識しても解消されない。吉本は、そのことについて、共同幻想の時間と自己幻想の時間とが異なっているという説明を行う。
したがってシャーマンは知識を伝授されて逆立を克服するのではなく、修練によって自己幻想の内的時間を生理的に変調させて共同幻想の時間と同致させる必要があるというわけである。
このことから三つの幻想の異質性は、各々の内的時間の異質性に基づいていると推測される。ではなぜ、内的時間が異なるのか、ということまでは吉本は説明していない。だが、こういう探求は途中で止めるわけにはいかないのである。
吉本がこうした時間概念を獲得したのは、比喩としてではなく、「言語にとって美とは何か」によるものと思う。言語表現としての文学作品における時間と空間は、それぞれ自己表出と指示表出に対応している。そして時間と空間の座標軸は自己表出と指示表出によって変動するのである。それはあくまで虚構としての時間・空間だが、幻想領域を言語表現とみなすならば、同様に幻想の時空もまた自然的な時空とは異なっている。吉本の言う「時間化度」「空間化度」がカント的な時間・空間と異なっているのはその点である。
これまで<禁制論><憑人論><巫覡論><巫女論>と続き、次章が<他界論>である。本書全体を一つの論文としてみれば、査読者は「いったい何が言いたいの?」と思うに違いない。
もし前章までを「第一部 共同幻想の時間的異質性」とし、次章を「第二部 共同幻想の空間的異質性」とするならば、吉本がここで何を問題としようとしているのかが明瞭となる。
だが、吉本は博士論文を書こうとしたのではない。また専門家としてフロイト研究やハイデガー研究をしているのでもない。それらの引用考察はツールに過ぎないのだ。吉本が序文で共同幻想に「固執する」と言っているのは、超越論的な視点で共同幻想を論じるのではなく、内在的に論じたかったのだと思う。
それが、一見、ぶっきらぼうとも見える章立て、体系的でもなく並列分散的な章立てに現れているように思う。
この文章が意味不明であるとすれば、それは「作為」という言葉の意味が不明だからである。吉本は、この言葉で何を言おうとしているのか?
この場合、語感からすると「心的に<作為>された幻想」が表象としての死に対応し、「心的に<体験>された幻想」が現実の死に対応すると勘違いしてしまうのだが、よく読むと吉本は現実の死が体験不可能であることを前提したうえで、<作為>された幻想が共同幻想だと言っているのである。
なぜ、<作為>という用語を用いるのか? それは共同幻想における死を私たちは直接知ることができないからである。それは「悲歎や怖れや不安」へと変形されるのである。
<作為>とはこの変形であると私は思う。それは共同幻想における禁制が、自己幻想の表象としては「恐怖と願望」へ変形されるのと同型である。私はこの解釈に自信がある。上記の引用文の<作為>を<変形>に置き換えれば、意味が明瞭となるであろう。
つまり共同幻想は謎なのだ。私たちは変形という<作為>された幻想によってしか、つまり恐れとおののきによってしか共同幻想を知ることができない。知ることができるのは自己幻想の内的時間を変容させたシャーマンだけである。吉本は<禁制論>からそのことを言い続けているのだが、勘の鈍い私は、ようやく気がつくのである。
こうしてみると、習俗、宗教、法律、国家、・・・等々が共同幻想であるというのは、あくまで自己幻想の表象としてであって、共同幻想の水準においては、その実体は謎なのである。それは天皇制を制度的対象として研究することと、実在の天皇に畏怖を感じることとの違いでもある。
この<侵蝕>も分かりにくいが、共同幻想の時間と空間が、他の二つの幻想の時空と異質であるなら、<侵蝕>とは共同幻想によって、他の二つの幻想の時空が追放され消滅することを意味するのであろう。
そして吉本は共同幻想の自己幻想への<侵蝕>が時間的であるのに対し、対幻想への<侵蝕>が空間的であるとしている。
なぜそうなるのか詳述されていないが、ハイデッガーに準拠して自己幻想が時間的存在であること、また対幻想の基盤が<家>の土地への定住に関係することを根拠としている。これは理論的素描というしかないが、次のように吉本が具体例として展開すると説得力がある。
例えば三角寛著『サンカの社会』を参照して、狩猟・採集に依存し土地に定住しない移動集団である<サンカ>は、樹上葬の慣習があり、吉本はそれを「<死>を現存在の時間性の変化としてみる」ことだとしている。これに対し定着農民である『遠野物語』には、他界としての墓所があるというように、葬制の違いの理由が、吉本の理論で解明されるのである。そして本章の最後に次の言葉がある。
この人口に膾炙した言葉は、しばしば評論家によってその矛盾を指摘されているところである。なぜなら、「共同幻想論」として共同幻想を強固な存在として語りつつ、その消滅を課題としているからだ。吉本自身、<死>を共同幻想による自己幻想の<侵蝕>と定義しているのだから、共同幻想の消滅とは、死の克服を意味することになる。それは死すべき人間にとって不可能であり、矛盾であろう。
私としては、この文章は、『共産党宣言』の「資本主義的私有の終焉の鐘が鳴る」に相当するものだと思う。マルクスの論理からすると、市場機構が消滅することはありえない。それは人間が思想を表現するうえで言語を必要とするように、抽象的人間労働を交換するには貨幣を必要とするからである。貨幣抜きでの直接交換は、いわば言語なしで思想を交換するようなものである。それが不可能であることはマルクス自身が解明したことである。だから論理的矛盾というしかない。
だが一方、たとえそれがイデオロギーであるとしても、そうした理念がない限り貨幣の解明は不可能となるのである。私は、吉本のこの言葉を共同幻想解明のための理念とみる。
<祭儀論>
本章の主題は、祭儀によってなぜ地上の権力が生じるか、である。
それは祭儀の主が神になることによってであると言えば、当たり前であるが、問題はなぜ神になることができるのか、そのプロセスを幻想の内部から説明することである。それが問題であるのは、我が国の場合、天皇と農民の農耕祭儀が必ずしも一直線に繋がらないからである。
そこで吉本が注目するのは、池上広正著『田の神行事』という奥能登の農耕祭儀に関する論文である。吉本はこれを詳細に取りあげているが、要約するとその地方の農家では毎年12月5日に田の神を迎え、「タネ様」(種籾の俵)を並べ、「アエノコト」という饗応を行い、2月9日まで続く。2月10日は、「若木迎への日」として豊作祈願とともに松の木を伐って持ち帰り、2月11日には家の主人が松を立てて豊作を祈る。その日から田の神が田に下りられるという。
つまり吉本は前章の<他界論>を踏まえ、今度は逆のプロセスをみているのである。対幻想の<死>が共同幻想の対幻想への<侵蝕>であるなら、逆に対幻想の<死>は新しい共同幻想の誕生を意味する。それがここで言う、<子>神である。
そしてこれは『古事記』においても、須佐男が殺した大気都姫から、稲、栗、小豆、麦、大豆ができたという説話にも共通してみられるとしている。さらに「古代メキシコの母子神」にも同様の説話があり、日本のみの特殊例ではないことが示されている。
これがなぜ天皇の大嘗祭に繋がるかといえば、大嘗祭はこうした農耕儀礼を抽象化したものであり、幻想のプロセスとしては類似しているからだと説明している。(だがあくまで類似であって微妙だが重大な違いもある。それは「田の神行事」では穀物神が夫婦神であるのに対し、大嘗祭では単一神と天皇が対になっているという点である。)
吉本は、その抽象化は時間と空間の縮約によって行われるとしている。つまり、「田の神行事」の12月5日から2月10日までの時間が、大嘗祭の日の数時間に縮約され、それは空間の縮約、すなわち農耕民の<家>と<田>の間の往来が、悠紀殿と主基殿への出入に縮約されることによって可能となるというわけである。実際、悠紀殿の中には枕と寝具があると言われている。(私見では、このことは前回指摘したとおり、対幻想の共同幻想への溶融が空間的変形によるものであることを示している。)
これは明快であり、これ以上の説明は無用であろう。この洞察は吉本幻想論の成果であり、この部分だけでも本書は一読の価値がある。
こうしてみると吉本は、共同幻想・対幻想・自己幻想の三つの領域のみが相互に異質だとしているだけでなく、共同幻想の内部でも異質性があると主張していることが分かる。
なぜなら農民の共同幻想は穀物の生成を願うという共同利害に関与しているだけだが、それが天皇を中心とする共同幻想となると共同規範へと転化しているからだ。吉本はその転化が<抽象化>によって起こるといい、<抽象化>とは時間と空間の縮約だと説明している。
このことは天皇中心の共同幻想と農民の共同幻想の時空が相互に異質であることを示している。「心的現象論」においても精神病理現象が自己幻想の時間化度と空間化度との違いによって説明されている。つまり自己幻想内部の時空も異質なのである。今風の表現をすれば、幻想の一義性としての内在平面は、差異に満ちた異質空間でもあるということかもしれない。吉本はそういう愚にもつかぬ要約ではなく、様々な事例によって理論の含意を導出することによって理論のもつ力を実証することに専念したのである。
<母制論>
本章では「母系制」と「母権制」が出てくるので、両者の違いをまず確認しておく。どちらも母方の血筋を中心として居住や相続が決まることは共通だが、母系制では政治的な支配権と母系とが分離しているのに対し、母権制では結合している。ということは先史時代はともかく、有史以後の我が国は邪馬台国や古事記に見られるように政治権力が女性から分離していたので、母系制だった可能性はあるが、母権制ではなかったということである。
本章の主題は、人類がなぜ母系制あるいは母権制の時期を通過したのか、その原因である。
人類が共通してその時期を経過したと推測される根拠は、世界中の神話が一様に母系制の存在を暗示していることによる。
吉本はまずモルガン・エンゲルスの集団婚説の検討から始めるのだが、エンゲルスが集団婚の原因を嫉妬からの解放としていることを批判するのである。それは当然であり、嫉妬が存在するということは、閉鎖的な男女関係が集団婚に先立つことになるからだ。原因と結果が逆になっている。
集団婚説はもう終わった説だからどうでもいいようなものだが、興味深いのは、吉本が次のように主張していることである。
そこまで主張されると、それは<嫉妬>感情を大切にする吉本の独断ではないでしょうか?と思ってしまうのだが、吉本が言っていることは、あくまで「歴史的」な時期である。つまり言語を使用する段階では、対幻想が成立しているのだから、当然、<嫉妬>感情もあったはずだというに過ぎない。
ということは、エンゲルスが言語以前の先史時代について集団婚を唱えているのであれば、吉本の批判はその限りでは成り立たないということになる。現代では否定されているとはいえ、集団婚が存在しなかったこともまた実証されていないのである。
この「原始的なある時期」が先史以前か以後か不明だが、対幻想の存在を前提にしているのだから、言語成立後と思われる。たとえ書き言葉が成立していなくても、少なくとも何らかの音声言語がなければ男女の関係は成立しないからである。そして婚姻制度は共同幻想なのだから、それと対幻想との関係が、制度の内容(集団婚か否か)より本質的な問題だということである。どうも先験的な物言いだが、言っていることは分かる。
つまり婚姻制度は性行為に還元できないということであり、性行為のみが基礎にあるなら、婚姻制度は最初から不要だということである。
吉本の著作を読む場合は常識を払拭して、暗黙の前提を捨てなければならない。私たちは婚姻制度といえば、直ちに家族制度と結びつけてしまうのだが、エンゲルスの集団婚にしても吉本の言う「婚姻制度」も、そうした近代的意味での婚姻制度ではない。
吉本は次章で対幻想が共同幻想から分離独立することをもって家族の成立としているのだから、<母系>制と家族の成立を同一視すると、ここでは矛盾したことを言っていることになる。したがって両者は別のものであり、<母系>制の方がよりプリミティブなのである。そして<対幻想>が<共同幻想>と同致したり分離したりするのは、論理矛盾ではなく、<対幻想>もまたその内部に異質性があるということだ。
この「同致」だが、前述したように私はこれを対幻想の内的空間の変様とみる。吉本はこの主張について『古事記』のアマテラスとスサノオの関係を傍証としている。誤解してはならないが、吉本は神話上の近親姦が、現実の男女の対幻想と共同幻想との同致を象徴しているなどと粗雑なことを言っているのではない。アマテラスとスサノオの関係は「部落内の」男女の対幻想とは全く異質である。もし同じであるなら対幻想はすべて近親姦になってしまう。俺の妹がこんなにかわいいわけがない。
ここで吉本は神話に見られる近親姦についてまったく独創的な見解を述べている。それは、本来、閉じている男女の対幻想が、空間的拡大として変様するのは兄弟・姉妹の関係としてである、ということである。着想の元はヘーゲルだが、それを神話の近親姦の解釈まで拡大したのは吉本の独創である。近親姦への別種の視線が可能となったのだ。近親姦といえばバカの一つ覚えみたいに禁止によって説明するのが通常であるが、吉本は空間的変様として捉えている。
つまり吉本が問題としているのは、実際に古代の王家で近親婚があったかなかったかということではなく、男女の対幻想が共同幻想に<同致>するには、空間的変様という飛躍が祭儀行為として必要であり、神話上の姉弟間の近親姦は空間的拡大としての変様を意味するということである。それはアマテラスとスサノオの関係が実際の近親姦を象徴しているのではなく、共同幻想としての規範を象徴しているということである。
これを粗雑に読むと、現実の姉妹・兄弟の対幻想が神話の共同幻想に同致すると誤読してしまうのだが、この神話上の<対幻想>は、現実の男女の<対幻想>ではなく、それを象徴的近親姦によって空間的に拡大変様した<対幻想>であり、共同幻想とイコールであることは文脈から明らかであろう。異質な<対幻想>と<共同幻想>が同致するには、オカルト的な祭儀によって対幻想の内的空間を変様しなければならない。それが神話における幻想としての近親姦である。
ところで吉本は理論的発見に熱中するあまり、若干、不用意な言い方をすることがある。吉本が幻想論によって論証していることは、対幻想が共同幻想に同致したとき婚姻制度が成り立つと言っているだけであり、それが<母系>制であることの論証にはなっていない。
母系制であるのは、やはり事実上、我が国ではそうだと言えるだけである。したがって「母系制はなんらかの理由で・・・成立する」ではなく、「成立した婚姻制度はなんらかの理由で・・・母系制である」というべきであろう。実際、吉本が「なんらかの理由」として挙げているのは、女性が定住し男性が狩猟で外へ出たというような事実であり、その局面では幻想論を根拠にしていない。つまり吉本は婚姻制度を幻想論によって根拠づけているのであって、母系制を根拠づけているのではない。主題と論述にズレがあると前述したのはそういう意味である。
ただ吉本が<祭儀論>の後に<母制論>を続けた動機は分かる。<祭儀論>においては農民の共同幻想がそれとは異質の天皇を中心とする共同幻想へ同致するために、大嘗祭という祭儀行為による幻想の時空変様を必要としたように、<母制論>においては、男女の対幻想が婚姻制度としての共同幻想へ同致するために、神話における姉弟間の近親姦という象徴的祭儀によって、対幻想の空間的拡大変様を必要としたということである。
この後、吉本は南島における<イザイホウ>の神事についても言及しているが、ここでも事実上、女性達が儀式の主宰者だったから母系制が推測されるということであり、なぜ<対幻想>の同致が母系制になるのかという説明ではない。男女の対幻想が共同幻想に同致することと、それが母系制であることは別の事柄である。
おそらく吉本は<巫女論>において女性が祭儀の主となる理由をフロイトに依拠して説明したから、もう説明不要と考えたのかもしれない。だが厳密に言えば、巫女が単独で対幻想を共同幻想に同致させることと、男女の対幻想が共同幻想に同致することとは同じではないと私は思う。そこをリンクさせなければ<母制論>の主題は解決していないことになる。このことは<巫女論>において感じられた疑問、つまり巫女を主役とする対幻想がなぜ、男性に共有されるのかという疑問にも繋がる。
吉本はそのことに気づいていた。だから次の<対幻想論>ではそれが主題となるのである。つまり<母制論>と<対幻想論>はセットになっている。
<対幻想論>
本章の冒頭で吉本はモルガン・エンゲルスの原始集団婚やフロイトのトーテム論について言及するが、それらは幻想論との差異を際立たせるための引用だから省略する。問題としたいのは次の文でる。
この「同致できるような人物」とは対幻想を変様させる人物だから、シャーマンとしての巫女のことであろう。それを血縁から疎外するということは、逆に<家族>が共同幻想から分離独立するということを意味する。
具体的には宗教権力が巫女とともに血縁の外に疎外されるのだから、残存した<家族>が共同体の権力から分離することになり、ここに権力なき<家>制度が成立するというわけである。
私見では、天皇<家>に苗字がないことも、この吉本の見解で説明できる。それは「<共同幻想>に同致できるような人物」言い換えれば国の象徴を現在においてもなお血縁から疎外していないからだ。
(従来の説明では、系譜的に見れば天皇が民に姓を与えたのだから、天皇自身には姓がないとされているが、それは結果による結果の説明、つまり表象知であって、スピノザの言う原因による説明、つまり理性知ではない。吉本はなぜそうなのかを原因に遡って探究しているのである。)
だがなぜ巫女は血縁から疎外されることになるのか?
吉本は<巫女論>において女性が祭儀の主役となることをフロイトに依拠して説明していたが、本章ではそれとは別の視点で、女性が主役となる理由を説明している。
それは女性が出産することである。要約すれば、女性の出産と穀物類の成長との類似に気がついたとき、人間に時間の観念が生じたということである。もちろんそれはカント的な時間ではなく、幻想としての時間であり、質的に一様な時間ではない。「類似」であるから、今風に言えば異質な時間の差異的共存である。そして女性の出産と穀物類の生長とが幻想の時間として同調していた間は、対幻想と共同幻想が同致していたということになる。吉本は言明しないが、この段階が巫女の<対幻想>であろう。対幻想と共同幻想が同致していたのだから、<母系>制もまた、この段階で成立したと思われる。
このように女性の出産という視点を取り入れると、幻想により成立した婚姻制度が原初においてなぜ<母系>であったのか、世界中の神話が<母系>を暗示しているのは何故かという理由が明らかとなり、<母制論>の主題はこの段階で解決したと言いうるのではないかと私は思う。
そして栽培収穫と子供の出産成長との違いが自覚され、対幻想と共同幻想の時間的異質性が自覚され、対幻想が共同幻想から分離して<家>が成立したということである。
こうしてみると巫女の<対幻想>と男女の<対幻想>との違いは、時間的なズレであることが分かる。共同幻想と対幻想との間だけでなく、同じ<対幻想>の内部にも異質性があるのだ。そして共同幻想から分離して<家>が成立するのだから、共同幻想との同致にとどまる巫女が血縁から疎外されるというわけである。男女が自分たちの世界を神話とは異なるものであると自覚したとき、巫女は血縁から疎外され、共同体に対して閉じた世界が<家>として成立するというわけである。この「疎外」は、血縁からの疎外であって、家から巫女を追い出すという意味ではない。言い換えれば、天皇を血縁上の祖先であると信じている<家>は、いまだに神話の世界に留まっているのであり、共同幻想から独立した<家>とは言えないということである。吉本の抽象的な言葉には、切実な具体性が伴っていると私は思う。
この新しい視点を仮に「生物出産系」とし、<巫女論>での視点を「フロイト系」とするならば、「フロイト系」は対幻想を女性の側から捉えたものであり、「生物出産系」は対幻想を男性の側から捉えたものとみることができる。なぜなら「フロイト系」の説明は、女性が対幻想を持つことの説明であって、男性は除外されているからだ。だが女性の出産と穀物類の生長との類似は、女性だけでなく男性も自覚しうるものであり、ここにおいて対幻想は男・女のものとなる。だからこそ、巫女は<対幻想>を<共同幻想>に同致するが、同時に村人も巫女を同致の象徴としてみることができるのである。狐や蛇が女性に化身するのは、そのためである。
これにより<巫女論>で感じた疑問、女性のみが対幻想を共同幻想に同致するのであれば、男性にとって対幻想はどうなるのかという疑問が解けたことになる。
このように<対幻想>を使うと多くのことが説明可能となるのだが、吉本自身はどうやって<対幻想>概念を得ることができたのか? それは言葉からである。
本章で吉本は<対幻想>について分かり易く説明している。それによると「夫」「妻」「父」「母」「兄弟」「姉妹」・・・という言葉が存在するのは、性としての自分が、集団の中の自分とは異なった存在だからであり、この<性としての自分>が対幻想だというわけである。
アッ!と驚くどころかエッ?と言いたくなるような説明だが、いつも目にしている言葉を別の視線で見ることができるのは詩人としての能力であろう。だが、同時にそれは<対幻想>の表象でしかないことも吉本は自覚していたようだ。詩人が理論家となるにはさらに自明が自明でなくなるのはなぜかという問い、表象を超えたものへの洞察が必要である。
本章で吉本は夏目漱石の自伝的小説『道草』を取りあげ、漱石の悲劇は夫婦関係に<対幻想>の本質を求めたことであるとしている。読み物としては面白いが、これは<対幻想>の内容説明にはなっていない。ならば何のために夏目漱石を取りあげたのか? おそらく吉本は限界概念としての<対幻想>を説明したのであろう。<対幻想>を表象として完全に捉えることは不可能であり、その根底に謎があると私は思う。対幻想の存在を知ることはできる。その存在は謎ではない。「世代」観念として客観的に存在する。だが、その本質が何であるかは男も女も知ることはできないのである。それが夏目漱石の悲劇に集約されている。
吉本は鴎外と比較して漱石の悲劇の特殊性を指摘しているが、むしろ漱石の悲劇は普遍的ではないかと私は思う。集団の中の個人と家族の中の個人が異なった存在である限り、その齟齬は不可避なのだ。その程度の齟齬は大なり小なりどの家族にもある。もし漱石の悲劇に特異性があるとすれば、それは本来、表象として把握することのできない<対>幻想の本質を意識対象として求め続けたことにある、と私は思う。
吉本もまた<対>幻想が存在することを指摘しているだけで、その本質は述べていない。そして吉本はヘーゲルを引用するのだが、不思議な引用の仕方をする。吉本は『精神現象学』の一節を長々と引用した後、それを検討する文章の中で次のようなカッコ書きをしている。
ところが、この「一方の意識が他方の意識のうちに、自分を直接認める」という言葉は単なるイメージであって、「現実の精神そのものではない」とヘーゲル自身によって否定されているのだ。ヘーゲルは次のように述べている。
吉本はヘーゲルを我田引水しているのではない。あくまで<対>幻想の本質が「あらわれるものとすれば」と仮定のもとにヘーゲルを引用している。逆にいえば、<対>幻想の本質はあらわれないのかもしれない。
こういう微妙な言い回しを断罪してはならない。思想を理解するにはは微妙な事柄への偏愛が必要である。
私自身、うちのカミさんとは30年以上の付き合いだが、あいにく「一方の意識が他方の意識のうちに、自分を直接認める」ようなことは一切ない。相手の「意識のうち」など分かるはずがないのだ。
<罪責論>
本書について、私が関心をもつのは、倫理・宗教・規範・国家等々の諸概念、それらは同時に我が国の支配層によって外国から輸入された諸概念でもあるが、それらが吉本の幻想論によってどのように変革されたのか、これである。
序文を読む限り、それこそが吉本の本書執筆の動機であり主題であったように思う。
そして前章の<対幻想論>までが幻想概念の原理論であり、そこで明らかにされた幻想概念によって、最後の三つの章<罪責論><規範論><起源論>において、その主題を解決しようとしたのであろう。あるいは少なくとも解決への道筋を示したのだと私はみる。
とするならば、吉本はなぜ他の著書のように、第一部 幻想原理論、第二部 幻想方法論などと分かりやすい目次にしなかったのか?
それは主題の困難さによると思う。この主題を徹底的に突き詰めてゆくと、それは読者との接点がなくなってしまうことになる。書き手と読み手の双方の変革を必要とするからである。したがって吉本としては、読者に受け入れられやすい古代史研究の外観を通して自ら創造した幻想論の含意を暗示するしかなかったのかもしれない。
だが、そうした外観を取り外してみると、そこには異様とも言える吉本の倫理観が見えてくる。それは古今東西、いかなる倫理思想とも異なるものである。
本章は、その倫理観を明らかにしたものだが、初めて出てくる「共同幻想の構成」とは、フーコー流に言えばダイアグラムのことであろう。つまり吉本は、倫理・宗教・規範・国家等々をそれ自体、個々単独のものとして捉えるのではなく、それらが三つの幻想領域の関係の異なった位相にあるものとして捉えたのである。そして三つの幻想の相互関係によってさらに各幻想領域内部も異質となる。それは「倫理」を同一性ではなく差異として捉えるということであり、吉本思想の特異性は、「倫理」の根源を自己と共同体との関係ではなく、<対幻想>に置いたことにあると私は思う。
吉本の倫理観の特異性に着目した論考は未だみられないが、現代思想が行き詰まっているのは、たとえ概念以前性としての非-表象に着目したところで自己幻想と共同幻想との関係に固執する限り、自己意識の呪縛から逃れられないからだと思われる。それは一巡して同一性に還帰するのであり、真の差異にはつながらない。<対幻想>に倫理の根源をみる吉本の倫理観こそ「倫理」を差異として捉えることであり、また人間概念の新たな変革へ導くものと思われる。
吉本はしばしば共同幻想と自己幻想との「逆立」を言うのだが、狩人の共有された入眠幻覚のように初源においてはそれらは対立していない。確かに<憑人論>においては自己幻想が共同幻想から分離していくことが示されている。だが「芳公馬鹿」や「孫太郎」は、鼠と変わらない位相で予言するのである。共同幻想と自己幻想が真に対立するようになるのは<対幻想>を媒介にしてである。
原始社会においても共同幻想から最初に分離するのは対幻想であって自己幻想ではない。この視点は吉本の「古事記」解釈についても一貫している。その解釈が一見、強引に見えるのは、幻想論から必然的に導出されるからだ。それは文献解釈というよりは自己流の独断のように見えてしまうのである。だが、すべての理論は独断であり、それを事例にあてはめて妥当と思われたとき標準理論となるのである。フロイトの「無意識」概念も同様の経緯がある。それも最初は独断論だったのである。
吉本は「古事記」を自己の論考の文献根拠としていているので、神話の扱い方について次のように述べている。
吉本は表立った「構成」概念を説明しないので、それが何であるか整理してみよう。「構成」というのだから、それは複数の要素が関係する。それは何と何か?
吉本は『古事記』のアマテラスとスサノオとの関係について、共同幻想の内的差異を暗示している。それは前氏族的で土着的段階の<共同幻想>と、大和朝廷を中心とする天上的な<共同幻想>である。暗示というのは、吉本の錯綜した文章からそう読み取れるということである。共同幻想がその二つに綺麗に割れるというのではなく、絡み合って質的差異を「構成」しているということだ。だから構成とは、共同幻想の古層と新層という二つの要素によって構成されるのである。それは幻想領域の内部にも質的差異があることを示している。
そして吉本は「神話」もまた共同幻想だが、神話の具体的内容を捨象して、「<共同幻想>の構成」として抽象化するのである。なぜか?
それは「神話」の時間的ズレによる。吉本はブリュルを引用しているのだが、長くなるので図式的に要約すると、「神話」は「融即」の時代から疎外され、同時に「現代」にも届いていないという中間の性格をもっている。だから「神話」の内容を「融即」としてそのまま真に受けることも、逆に出土物との関連を実証的に探求することもできないということである。
このため吉本は「神話」を共同幻想そのものではなく、共同幻想の「構成」として抽象化するのである。「どんなことも」とは神話内容のことだが、それが恣意的である、つまり内容自体には必然性はなく、必然性があるのは共同幻想の古層と新層との構成関係だけだということである。この構成による抽象化が「融即」からの「神話」の疎外に対応している。内容を恣意的とするのは、原始心性の内容は現代人にはもはや捉えることができないからである。難解だが、言っていることはそういうことのようだ。
さて「倫理」が問題となる以上、ニーチェの『道徳の系譜』が取りあげられる。
(ちなみに柄谷行人の影響なのか、昨今は「倫理」と言えば、道徳とは異質なもののように考えられているが、語源的には同じものであり、使う人によって異なる定義が与えられているだけである。)
これ以上にないほど明快な宣言だが、吉本の『古事記』解釈をみると、本章では①イザナギとスサノオ、②サホ姫とサホ彦、③ヤマトタケルとヤマト姫、の三つであり、②と③は宣言を検証するための解釈となっているが、①は一見、ニーチェ的な解釈にとどまっている。だから流し読みすると支離滅裂な印象を受けるのだが、注意深く読むと①についても「対幻想」との関連が暗示されている。それはスサノオが「妣(ハハ)の国である黄泉の国」へ行きたいという箇所であり、吉本は「妣の国」を「母系制の根幹としての農耕社会」ではないかと推測している。その社会は<対幻想>と<共同幻想>が同致している社会だから、「妣」すなわち対幻想へ加担するか否かが、スサノオという個人倫理の発生となっているとみることができる。
そのように説明すれば明快になると思うが、文献的にはそこまで断定できないのだろう。だから推測に推測を重ねるしかないのである。本章の不明瞭なところは、逆に吉本の文献への誠実さとみることができると私は思う。
<規範論>
前の章で、吉本思想の特異性は<対幻想>を倫理の根源としていることにあると指摘したが、そうなると、それが一体、現在の私たちにどう関係するのかが疑問として生じるだろう。例えばLGBTや家族の問題などについて、対幻想と共同幻想との関係から、どのような展望が得られるか興味深いところである。だが、その答えを本書に見いだすことはできない。吉本は古代史に固執しているからだ。
本章も最初に読んだ印象では、何か「清祓行為」について曖昧なことをゴチャゴチャ言っているとしか思えず、急速に興味が失せていくのだが、再度読み返し、吉本の理論構想が見えてくると、俄然、面白くなる。
つまり吉本は、<対幻想>を根源とする特異な倫理観によって、古代史を書き直しているのだ。それは一見、現在の私たちには何の関係もないように見えるが、時局問題よりもさらに一層大きな問題に取り組んでいるとも言える。
佐々木中著『夜戦と永遠』によると、中世解釈者革命とは、ローマ法学者による法典の書き直しであり、それは政治革命の陰に隠れて見えにくいのだが、それこそが近代を切り開いた革命であり、政治革命はむしろ副次的だとしている。つまり文学革命が政治革命に先行するのである。(佐々木中は法典や文書一般を「文学」に含め、「文学」に広い定義を与えている)してみると本書こそ、まさに吉本による文学革命であると言える。
ただ本書は吉本の理論構想が表立って述べられていない。それは推測するしかないのだが、一つ確かなことは、本書は吉本の動機と理論構想に関連づけて読まない限り、興味深いものとはならないということ、これである。
そうした視点で、本章の最もキモとなる部分を抜き出すなら、次の部分であり、これを中心として本章全体を読み直すことができる。
この引用部分には<対幻想>が一言も出てこないので、何を言っているのか意味不明なのだが、「家族集団的な<掟>、<伝習>、<習俗>、<家内信仰>」が<対幻想>であることは明らかである。よって、この文章は<共同幻想>の中にある前段階的な<共同幻想>を<対幻想>へと分離することによって、残余の<共同幻想>が法的規範になると読み直すことができる。
つまり吉本は法的規範が生じるのは<対幻想>を媒介にしているのであって、ただ単に共同幻想の古層と新層が、<国つ罪>と<天つ罪>へと漫然と分離すると言っているのではない。吉本が続いて「清祓行為」を問題とするのは、その分離が<対幻想>を媒介とすることを示すためである。つまり<対幻想>を根源とする倫理観によって「清祓行為」を書き直しているのである。吉本の錯綜した文章とイキの長い論述からは見えにくいのだが、入口と出口を抑えれば、言っていることの意味は明瞭である。
吉本は「清祓行為」を①身体からの分離、②洗い落とし、③禍いを払う、④身体を清める、に分類して、あたかも「清祓行為」それ自体が単独で<宗教>と<法>へ分離していくかのような説明をしているので混乱するのだが、その後で、なぜその分離が「清祓行為」となるのかを捉え直している。
吉本によると「穢れ」とは、自然からの原初の疎外であり、共同体と個人が未分離の状態で自然を対象としてみたとき、それは「穢れ」として受けとめられたという。それは『古事記』を読んだ詩人の直観でしかないため、吉本は仮定形で次のように述べている。
文章としては仮定形だが、要するに自然からの原初の疎外である「共同幻想」と「対幻想」の未分離の状態は「穢れ」であったということだ。ここに「家族の<性>的な共同性」という言葉で<対幻想>が含まれていることを見落としてはならない。
それが未分離であるのは、「かれらはまず<醜悪な穢れ>をプリミティブな<共同幻想>として天上にあずけた」からである。
そして前章の<罪責論>の論理は、ここで繰り返されるのである。つまり共同幻想から対幻想が分離したとき<倫理>が生じたように、共同幻想が<宗教>と<法>に分離するのは、この「穢れ」を清祓することによってである。
だが吉本はそこで論述を停止している。やはり文献としてはそれ以上のことは言えないのであろう。そこが本章の難解なところだが、ここまで<対幻想>と「清祓行為」との関連が示されているからには、続行して自ら考えねばならない。
吉本の論理を続行すると、「清祓行為」の二重性、共同規範(法)にむかう要素は、共同幻想から対幻想が分離したときの軋轢を祓うものとしてであり、宗教にむかう要素は、対幻想を分離したあとの残余の共同幻想を示している。
「水に流す」というのは、対人間の軋轢を祓うことであり、それは共同規範の原初かもしれない。それは現代では個人と個人の関係だが、原初では家族間の関係であろう。これに対し神社でのお祓いには、当然ながら対人的な軋轢を解消する意味は含まれていない。
<起源論>
他の章と比べて、本章は最終章であるにも関わらず、奇妙に論理が停滞しているようだ。「魏志倭人伝」についての言及はあるが、相変わらず共同幻想の上層が宗教的であり、下層が政治的である。それが例えば邪馬台国の卑弥呼と弟との関係であり、「古事記」ではアマテラスとスサノオの関係となることが繰り返されている。すると宗教と国家とは、どこがどう違うのか、それは共同幻想と対幻想との関係からどうなるのか、吉本は説明しないのである。昔、本書を読んだときも肩すかしというか、尻切れトンボのような感じがしたのだが、今回もそうである。
つまり<規範論>では、共同幻想から対幻想が<家族>として分離することで、共同幻想に宗教的権力が疎外されることになるのだが、すると政治的国家はどうなるのか?
吉本は考える材料を最終章で提示したのだから、後は自分で考えてみることにしよう。私のこれまでの理解では、政治的国家のイメージはこうなる。
すなわち共同幻想を一つの時空世界と捉えると、そこから対幻想が<家族>として分離するとき、その分離は完全には分離せず共同幻想と接した状態で結合している。
日本における<国家>は共同幻想における対幻想との接合面で成立するのであり、共同幻想の他の部分が純度100%の共同幻想として<宗教>となるのである。ただ、これはあまりにも思弁的であり、文献重視の吉本としてはそこまで主張できなかったのであろう。
だが私の見方は突飛であろうか?
よく現状の国家を観てみよう。それはあたかも私たちの社会の外枠であり、私たちの共同生活は国家と緊密に結びついている。国家なしでは私たちの市民社会は成り立たないのである。
これに対しヘーゲルやマルクスの時代のヨーロッパでは市民社会を結合させていたのは教会参加が習慣となっていたキリスト教であり、国家は市民社会と対立するものとして捉えられていた。
日本とは事情が逆なのである。
日本の市民社会は神道宗教でまとまっているのではない。むしろ天皇を中心とする神道宗教が私たちと無縁であり、私たちを結びつける役割を果たしていないからこそ、共同体は代わりに国家を求心力として必要とするのである。神道は信者の祭式参加を強制しないが、キリスト教は信者である限り教会参加を義務づけている。国家とは別に十分の一税も徴収していたらしく、れっきとした世俗的権力でもある。宗教と国家との関係がヨーロッパと日本では逆転している。
戦前は天皇を家長と看做し神社参拝するなど、あたかも天皇を中心としてまとまっていたように見えるが、その実態は現在以上に天皇を現人神として高く疎外していたのであり、それだけ逆に国家の求心力が強く求められたのである。それが日本型ファシズムの本質だ。
したがって、たとえ共同幻想としての国家が消滅したとしても、宗教としての天皇制が存続する限り、共同幻想が消滅することにはならない。
象徴天皇制とは、超国家的権威である。その権威は主権の存否という次元の低い事柄に基づくものではなく、日本民族の赤心(国民の総意)に基づいている、とされている。
幻想三部作の後、吉本が国家論よりも宗教論へ相対的に傾斜していったのは、それが理由ではないかと私は思う。
もちろん、これは吉本の見解ではなく、その幻想論を延長すれば、そうした国家像に導かれるだろうという私の推測にすぎない。
確か吉本は、本書を執筆した動機が、ヨーロッパと我が国の「国家概念」の違いに驚いたことにある、と述べていたが、奇妙にもその驚きの原因が示されていない。そこで以上のように、私は推測してみた。
はあ、それにしてもなあ、これはなんじゃろか、マジメか、と我ながらツッコミ入れたくなる。酒でも呑んで寝る。