広島③◆福山市の神社仏閣/鞆の浦ブラリ(33年に一度の秘仏公開&福山の仏像集合)
広島県福山市の「明王院」で33年に一度の御開帳があり、福山市の神社仏閣の宝物が一気に集まる展示会があった!!ということで行きました。吉備津神社や素戔嗚神社などパワスポが多い地域でもあり、そして、観光地でも有名な「鞆の浦」をブラリ!!
▼ルートと見どころ
台風発生!台風は温暖低気圧になり大雨予測・・・ということで、当初の旅行計画と異なる部分があります。
▽2024年11月01日(金):福山駅周辺
|→ #明王院 (中道山円光寺明王院):33年に一度の御開帳
2日目に行く予定でしたが、大雨で中止されても困るので初日に持ってきました。金曜日だが初日は人が多いと思っていたので2日目の朝一にしたのだが、予想通り車の多さに待つなと覚悟した。
神社仏閣周辺は車の進入禁止でしたね。
秘仏公開の模様は『★秘仏公開★33年に1度「明王院」★仏像展★「ふくやまの仏さま-国宝明王院本堂本尊33年ぶり特別公開記念」|やんまあ』参照ください。
寺の詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開なので箇条書きで簡単に説明しておきます。
国宝の本堂に安置されている「十一面観世音菩薩立像@重文」は、33年に一度の公開!五重塔と本堂は国宝!!ここより古い五重塔は法隆寺(私のNOTE)、室生寺(私のNOTE)、醍醐寺(私のNOTE)、海住山寺(私のNOTE)ですという感じの古寺である。
愛宕山中腹近くにあり、眼下に草戸千軒町遺跡を見渡す位置にある
正式名を「中道山円光寺明王院」と称すが、創建当時は「常福寺」だった
国宝の「本堂」「五重塔」を有する真言宗大覚寺派の古刹
807年、弘法大師の開基
鎌倉時代末期、本堂再建
室町時代前期、五重塔を建立
1619年、福山藩主・水野勝成の庇護を受ける
三代目福山藩主・水野勝貞は常福寺と明王院を合併
合併後の明王院は、本山として末寺四十八寺を擁していたとされる
|→ #草戸稲荷神社
明王院とセットですね。徒歩5分以内です。
す、少ない・・・有名な神社なんですがね・・・珍しいマンション型本殿で有名です。地元の方は、大晦日や初詣で来るのでスルーなんですかね・・・。
詳細は次のNOTE参照ですが、公開は2025年桜の時期以降なので、箇条書きで説明します。
日本稲荷5社の中の1つに数えられ、日本三大稲荷の一つに数えられることもある。境内には二十社近くの稲荷神社と八幡神社が存在し、毎年30万人から50万人の初詣の参拝客が訪れ、広島県内では広島護国神社についで2番目に多い。太鼓橋から望む朱塗りの社殿は、荘厳な雰囲気を醸し出し、本殿の展望台からは福山市中心部や岡山県笠岡市の山々が一望できる。
807年、明王院の開基・空海が同寺の鎮守社として創建
熊野本宮大社(私のNOTE)と同じく、社殿は古くは川の中州に鎮座されたが、洪水の厄により社殿が流失破損した
1633年、福山藩主・水野勝成が再建
1655年、水野勝貞が父である父の病気平癒を祈願し今の地に社殿を遷した
同年に、福山城下の円光寺を古刹・常福寺に合併させ、寺名を明王院(私のNOTE)と改めている
|→ #福山ニューキャッスルホテル
宿泊するホテルの駐車場に車を置いて、福山城周辺をブラリします。
|→ #お好み焼き田吾
12:50頃に来店した方へ「はい終了で~す」とのこと。。閉める早い・・(^-^;
|→ #福山城
|→ #三蔵稲荷神社
福山の開祖・水野勝成が福山城を築城する時に、守護神として祀った
勝成の祖父・忠政が京都・伏見稲荷大社(私のNOTE)より受けられたご神体を授かる
勝成は、四国・九州での戦においてもご神体を肌身離さず持ち続け、お稲荷さんのご加護を受けることができた
1619年、この福山の地に城を築き、城内の北側(鬼門)に備後の国の守護神としたのが、三蔵稲荷神社の起源
以来、代々の福山城主が直祭し、藩内には多くの分社があった
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開です。
|→ #福山八幡宮
2つの総門があり、それぞれ「東御宮」、「西御宮」と墨書きした木札が掛けられている。これは東西の八幡宮が合祀造営した歴史からである。以前の鎮座地から西は野上八幡宮、東は延広八幡宮と呼ばれている。鳥居、随身門、拝殿、本殿が東西に並ぶ面白い神社。
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開なので箇条書きで簡単に説明しておきます。
神辺城主・杉原氏や毛利輝元、福島正則等の信仰も篤かった
1074年、宇佐八幡宮からの勧請して「惣堂八幡」「延広八幡」と呼ばれた東御宮が出来る
1429年、鶴岡八幡宮からの勧請して「若宮八幡」「野上八幡」と呼ばれた西御宮が出来る
古く「穴の海」と呼ばれていた波静かな内海の近く現福山城址に、二つのお宮が別々に奉祀されていたと伝わる
1532年~1555年、杉原播磨守が新に社殿を造営
1619年、水野勝成が備後に転封され、西国鎮衛の新たな城を築き、福山と名付けて領内を整えて
1683年、4代藩主勝種により、備後福山総鎮守の社として松廼尾山に藩を挙げて建立
1872年、東御宮を「延広八幡神社」、西御宮を「野上八幡神社」と改称
終戦後、神社本庁所属の宗教法人「延広八幡神社」・宗教法人「野上八幡神社」とする
1969年、両社合併し、社名も「福山八幡宮」にした
|→ #艮神社 #観音寺 #妙政寺
「艮神社(うしとらじんじゃ)」と「観音寺」は江戸時代には福山城の鬼門を守る役割を得て「艮神社」と改名され長く崇敬されてきた。祭神はスサノオとイザナギで、地域の氏神として人々に親しまれている。2022年に開運スポットとしてメディアに紹介され注目を集めたようだ。TV番組『マツコの知らない世界』で、『2022年一番オススメの開運神社』として紹介されたようです。
艮神社の横に観音寺です。元神宮寺なので仲良く並んでいます。
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開なので箇条書きで簡単に説明しておきます。
艮神社
1100年頃に創建
福山地方一円の鬼門守護神、厄除神として崇敬されています
藤原家の荘園として栄えた福山でスサノオを祀る「牛頭天王社」として創始
1334年、イザナギを併祀の上遷座、当時の集落の中心地の産土神 「秋津洲神社(あきつしまじんじゃ)」と改称
1619年、初代福山藩主・水野勝成の福山城築城に際して、城郭の鬼門・艮の方位を鎮める守護神「秋津艮大明神(アキツウシトラダイミョウジン)]と称えられた
1683年、水野勝種の緒社殿の寄進を始め、度々造営、修復がなされた
明治以降に「艮神社」となり、広く福山地方一円の鬼門守護神、厄除神として崇敬されている
2022年には『マツコの知らない世界』で紹介された
|→ #備後護国神社 /阿部神社
福山城北側にあるのは「備後神社」と「阿部神社」が合併して「備後護国神社」である。
1813年に福山藩主が歴代の祖霊を祀って建てた「阿部神社」と、1868年に福山藩主・阿部正垣公が戦死者の霊を祀る為に創設した「招魂社」から1957年に合併して「備後護国神社」と改称した歴史がある。
そんな歴史なので、備後護国神社の御朱印は、その歴史を反映した二つの印が押される。
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開です。
|→ #ふくやま美術館 「ふくやまの仏像」
2024年は、国宝明王院本堂の本尊「十一面観音菩薩立像@重文」が33年に1度の御開帳を迎える特別な年。これを記念して鞆町安国寺「木造阿弥陀如来及び両脇侍立像@重文」など、福山市内に安置されている仏像・仏画・法具など約80件の宝物を展示。
前期:10月12日(土)~11月10日(日)
後期:11月12日(火)~12月15日(日):明王院の仏像たち集合
詳細は次のNOTE参照。
|→ #さんすて
「 #虎屋本舗 」ですね。ギミック系の御菓子があるところですが、この地域では老舗のようです。
創業400年の和菓子屋 虎屋本舗-老舗のどら焼き
そのお菓子が笑顔に変わる!お取り寄せ「おもしろスイーツ」特集
お土産を先に買いつつ、もみじ饅頭を食す。
購入したお土産たち。広島だけど岡山のきびだんごを買う。桃太郎=岡山=吉備津神社・吉備津彦神社とすると、広島にも吉備津神社・吉備津彦神社はあるのでOKだろう。(写真は2日後の鞆の浦で買ったやつも入っていますが)
|→ #福山ニューキャッスルホテル
駐車場:https://www.new-castle.net/access/images/hotel_map.pdf#zoom=20
次のプランにしました。
【2食】夕食ビュッフェ・選べる朝食付プラン:コンフォートツインルーム【禁煙】
平日 18:00~21:00
23平米
ベッド幅は120センチ×2台
朝食付(洋食と和食のチョイス)
部屋はグレードアップしていただいた模様です。
福山城が見えますね。
腹減った。「薔薇とピーチのもみじ」は薔薇ですね!?シンプルイズベストでベーシックなのが美味しいです。
そろそろ夕食だな~。
夕食はビュッフェ。アルコール1杯無料ですが、この1杯で食べられなくなった気がする・・。南蛮と最古るステーキが美味しかったですね。
アワビかなにかのパイ包みは1人1個で頂けます。
朝です。前日に詰め込んだので朝はゆっくりめです。朝食は朝食ビュッフェと和食があります。テレビで込み具合が分かります。
最近の旅行はビュッフェが多く、ビュッフェ疲れしたので和食を頂きました。1週間前に『◆愛知⑦◆豊川と岡崎の神社仏閣と名古屋港水族館【愛知シリーズ/三河シリーズ/名古屋シリーズ】|やんまあ@旅行記』はビュッフェ、その前の週は『滋賀湖北⑥◆元伊勢だ!長浜ブラリ旅|やんまあ@旅行記』はアルコールもデフォルトで飲み放題ビュッフェで、その前の週は『京都の宇治ブラリ&岡崎周辺でレアもの見仏【京都シリーズ/京都浄土宗特別開扉】京都左京⑰宇治②|やんまあ@旅行記』は日帰りだから関係ないが、その1週間前は『熊野詣!鯨と海豚とマンボウとウミガメ戯れて食す旅!?◆和歌山⑮三重⑫◆|やんまあ@旅行記』でマグロ三昧ビュッフェ、朝食に干物バイキングでした。2024年ですが、特別公開など多すぎませんかね。。。毎週、どこか行っているのですが・・・。
テレビでは広島のほとんどが「大雨警報・強風警報」だったが、福山周辺は注意報だった。確かに岡山に近く、岡山と言えば晴れの国だからかな??
11:00ぐらいから大雨のようだ。それまでに外せないところは行こうと思う。
▽2024年11月02日(土):福山市
台風は無くなったが、大雨注意報があったので、計画変更した。
|→ #素盞嗚神社
祇園祭&茅の輪くぐり発祥!蘇民将来伝説!!スサノオといえば廣峯神社と八坂神社(私のNOTE)だが、素盞嗚神社から廣峯神社に遷座させたとする。だから備後一宮なのか?
備後一宮は、この後にNOTEする「吉備津神社」もある。この2社は優劣がつけられないのだろうか。と思ったが、謎の「無言の神事」があるようだ。無言の神事は、備後国一宮・吉備津神社の神官が神霊を乗せた神馬を率いて来社し、幣帛・神饌を供えて祝詞を奏上、引受神官には無言のまま礼をして帰社するというもの。。和睦したのか?出雲大社(私のNOTE)と熊野大社(私のNOTE)と同じような関係なのか??もしくは廣田神社と西宮神社(私のNOTE)の関係か??あと、愛知県の豊川市にも「素盞嗚神社」が多く、出雲っているんだな。
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開なので箇条書きで簡単に説明しておきます。
713年編纂の『備後風土記』に「蘇民将来伝説」の舞台の古社だが、「疫隈国社」とある
備後國一の宮
古来から「戸手の天王さん(てんのうさん)」として親しまれてきた
679年、創建
733年、広峰神社(私のNOTE)曰く
吉備真備は唐より帰朝して、この地に異神を見る
真備はその旨を京都(私のNOTE)に帰って奏上
翌年、神社を造営したのが創祀
初めは、白幣山に所在していたと伝えられる
734年、吉備真備が素盞嗚神社から播磨・広峯神社(私のNOTE)に勧請
927年編纂の『延喜式』には、深津郡一座の「須佐能袁神社」となっている
神仏習合で、神社名も祇園社、天王社、江熊祇園牛頭天王社とも称されていたようだ
ここは、元々はスサノオで、仏教系の神・牛頭天王を後で祭神としたようだ
古社に神宮寺が出来たように、「早苗山天竜院天王寺」という真言系の別当寺が作られた
1583年、相方城主・有地元盛の外護により社殿の葺替が行われた
江戸時代の初めには福山藩主・水野氏の援助によって社殿の造営が行われた
1868年、神仏分離令で、現在の「素盞嗚神社」となる
(これを言い出すと、本来はスサノオではなくて牛頭天王だ!という話になるが、歴史的にはスサノオ=牛頭天王で良いと思う。本地垂迹が本来の日本の考えだろうと思うので。)7月に行われる例大祭「祇園祭」はけんか神輿で有名だが、神輿が還御した後には「無言の神事」が行われる
無言の神事は、備後国一宮・吉備津神社の神官が神霊を乗せた神馬を率いて来社し、幣帛・神饌を供えて祝詞を奏上、引受神官には無言のまま礼をして帰社するというもので、その由来は不詳だが、吉備津神社の深い関わりを示すもの
※出雲大社(私のNOTE)と熊野大社(私のNOTE)の関係に感じるのは私だけ??
|→ #吉備津神社
11月は神無月はなく神有月!!出雲に集まるのを断固拒否!!その代わり七月に無言で、オオクニヌシの父であるスサノオを祀る「素戔嗚神社」へ!!
随身門×2、楽所など唯一無二な神社ともいえる。鎌倉時代末期より室町時代にかけて、この地は吉備津神社を中心に政治・経済・軍事・文化、そして宗教などの機能を集約した地として発展した。
吉備津神社と聞けば岡山・吉備津神社のほうを思う人は多いと思うが、広島にもある。両方一宮なところにキビツヒコの力を感じる。私の岡山・吉備津神社NOTEは次の通り。
では広島の吉備津神社です。
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開なので箇条書きで簡単に説明しておきます。
近世までは「吉備津宮(きびつのみや)」、「吉備津彦神社」などとも称されていた
地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と呼ばれている
689年、吉備国が「備前」「備中」「備後」に分割した時に吉備津神を分祀したようで『延喜式』には記載がない
806年、備中・吉備津神社より勧請し、備後国品治郡宮内(現在の福山市新市町宮内)の地に創建し、備後国の一宮となった
現在の岡山一宮備前国一宮 岡山市北区一宮 吉備津彦神社
備中国一宮 岡山市北区吉備津 吉備津神社
備後国一宮 広島県福山市新市町 吉備津神社
美作国一宮 岡山県津山市一宮 中山神社
鳥居から本殿まで一直線に4段にわたって随身門が2つ、楽所、神楽殿、拝殿となっている
1148年、八坂神社の記録『社家条々記録』にはこの神社の事が記録されている
境内の発掘調査でも12世紀以降のものしか出土していないようだ
1165年、神祗官年貢進納諸社注文写で、備後国では「吉備津宮」が記されている
1287年、時宗の開祖「一遍上人」が参詣し、聖人供養の為として秦皇破陣楽という舞楽を鑑賞している様子が社殿配置とともに描かれている
『百錬抄』によると寛喜元年(1229年)、また『日本史列伝』では元弘2年(1332年)に火災で本殿が焼失
再三火災にあっており、これらの多くは近世に建てられた
1346年、高師泰が備後国守護に神人の横暴を止めるよう命じている
1376年、小野宮左近将監により再建
1648年、初代福山藩主水野勝成公が現在の社殿を造営
神社境内や隣接する櫻山城跡・鳶尾城跡は国の史跡
2022年4月、屋根、柱、亀腹を大規模改修完了させ、当時の彩色に戻したようだ
2048年、本殿・拝殿・神楽殿などの主要建築物の造営400年を節目として、国宝に指定されることを目指しているとか・・・
|→ #ジョイフル
最近の天気予報などはよく当たる。そして、最近よく行くようになったジョイフルで大雨が通り過ぎるのを待つ。
満足だな~。でも食べ過ぎだよな~。
|→備後国分寺:広島県福山市神辺町下御領1454/下御領八幡神社(深安神社):広島県福山市神辺町下御領1073/吉備津彦神社:広島県福山市神辺町上御領/美保神社
雨天中止です。昨日から雨なのと狭い道を攻めつつ山に入るので、またの機会に行きます。
なんか14:00チェックインプランなので、早く温泉に入りたくなっていた。
|→ #天別豊姫神社 (#深安神社)
「あまわけとよひめ」と読み、延喜式にも載る古社。海の神・トヨタマヒメは珍しい気がするな。ここは入江となっており海であったようだ。確かに岡山の吉備津神社なども近くまで海だったとされており、福井・三方五湖の年縞から今よりも平均気温が15℃も高かった時期はあり、今より日本の本州の陸は小さかった。出雲大社は陸続きではなく島の時代もあったので。ここも海を見張る要素もあったのだろう。
妻がギブアップ!一人で突撃します。
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開なので箇条書きで簡単に説明しておきます。
創立年代不詳
上古当地方が穴の海と称せられていた頃、綱付岩上に斎祀されていた
崇神天皇の時代に、この地を神戸として本社の神地とされた
『延喜式』に記されている古社
海神・豊玉姫命を磯神社として祀ったことに始まるとされる
古くは「神辺大明神(かんなべだいみょうじん)」や「甘濃厳大明神(かんのびだいみょうじん)」とも称されていた
1335年、備後守浅山条就が城を黄葉山に築城した際、城郭の守護神として、黄葉山中腹の現在地に遷座したと伝えられる
1335年、浅山備前守が備後守護職となり、黄葉山に城を築き、鎮護の神とした
その後、水野勝成により城が福山に移されたが、歴代藩主の崇敬は続いた
1869年、神辺大明神から天別豊姫神社と改称
1914年、川北村・吉備津神社を合祀
※この地域は、吉備津神社/吉備津彦神社がもっとあったのかもしれない・・時代とともに合祀されたのかも
|→ #福山県立美術館
時間が余った・・・。1日目の明王院と草戸稲荷神社の川の真ん中にあった遺跡を勉強すべく、福山県立美術館へ!
|→ #鞆の浦
|→ #鞆の浦温泉 #景勝館漣亭
【じゃらんスペシャルウィーク】<景勝館ファミリープラン♪> 鞆の浦で思い出作り☆ 嬉しい5大特典付き!
<和室‐ツインベッド(別館)> 快適な安らぎの設え
14:00チェックインは無理だったが一番乗りだったと思う。即効、温泉へ!!大きな船が停泊しているので、妻は露天風呂は入れなかったようだ。内風呂と露天があり、大きいとは言えないが、部屋の数からすると大丈夫かなと。シャワーが弱いのが残念・・・。
朝です。5:00に目が覚めて朝温泉へGO。おかげで帰りの車の運転は眠さとの戦いだった。。
朝食です。温泉卵、朝から烏賊の造り、この後に、何かが来た記憶があるが忘れたな・・ごはんとみそ汁はおかわり自由。
3日目は鞆の浦観光です。宿に車を停めたまま歩きました。まずは、観光案内所へ!!
▽2024年11月03日(日):鞆の浦ブラリ
|→ #鞆の浦観光情報センター
|→ #鞆の浦へ
|→ #福禅寺 #対潮楼
対潮楼を訪れた朝鮮通信使は、対潮楼からの絶景を「日本一すばらしい景観」と感動したようだ。幕末には「いろは丸事件」の賠償の談判(交渉)場所となり、坂本龍馬が対潮楼を訪れている場所。
なお、対潮楼はあくまでも福禅寺にある建物で、福禅寺の別名なんだそうです。
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開なので箇条書きで簡単に説明しておきます。
海岸山千手院福禅寺の本堂に隣接する対潮楼が有名
平安時代から続く古寺
947〜957年、空也上人によって建立
当時は観音堂だった
1558年から1570年、火災に遭い衰退
1610年、再建
1638年、後陽成天皇の第三皇子によって、真言宗大覚寺(私のNOTE)の末寺になる
その際に、寺号が「観音堂」から「福禅寺」に改められた
1690年頃、対潮楼は寺の客殿として創建
1694年、本堂が改築された際に、客殿で朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきた
座敷からの海の眺めは素晴らしい
1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛したそうな
1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残している
「いろは丸事件」の際、坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所
2012年、秋篠宮文仁親王・同妃が参拝した
2017年10月31日、「ユネスコ記憶遺産」に指定
|→ #鞆てらす
|→ #地蔵院
1日目の「ふくやまの仏様」にも出店していたので行きました。
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開なので箇条書きで簡単に説明しておきます。
廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された
1408年、宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所となった
本堂の本尊は秘仏・地蔵菩薩が安置されている
また、歯をのぞかせている「十一面観音立像」が安置されており、左足を一歩前に踏み出し、苦しむ人々を救い出る姿が素晴らしい
|→ #常夜燈周辺
鞆の浦のシンボル。店は10:00ぐらいから徐々に開きます。11:00以降に来るのが良いかとい思います。
|→ #鞆の浦 -力石
|→ #鞆の浦 -アイス
魚入れ食いでしたね。
|→ #円福寺
当初は1番初めに行く予定だったところ。猫好き集合かな??鞆の浦穴場で猫と鞆の浦一望。紀州藩の宿舎でもあったそうな。
|→ #円福寺 →常夜燈
|→ #常夜燈 (2回目)
10:45ぐらいだと思います。お目当ての店は11:00からで、もう行かなくて良いかと話していたので。
先ほど若者が食べていたピザはここのだな。
姫嶋神社、医王寺コースになります。その前に面白い蔵かなと思ったら警察でした。
|→ #渡守神社 →淀媛神社
「わたすじんじゃ」と読む。神功皇后が三韓征伐のため西国下向の際、鞆の浦の地に寄泊。「鞆」を奉納し、海神・大綿津見命を祀った際に、妹君の淀媛命を祭主として任せた。祭主になったのが「渡守神社」なんだそうな。
|→ #淀媛神社
沼名前神社の境外社のよう。神功皇后が三韓征伐のため西国下向の際、鞆の浦の地に寄泊。「鞆」を奉納し、海神・大綿津見命を祀った際に、妹君の淀媛命を祭主として任せた。
車でも行けるようだが道は狭く融合が難しいので思い切って歩きましょう!町並みが古き良き日本という感じで、京都・伊根町にも似ている気がするな~。
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開なので箇条書きで簡単に説明しておきます。
平町の高台に位置する淀媛神社
石段を上りきった先の丘の頂上に拝殿がある
祭神は淀姫命(よどひめのみこと)
淀媛は別名「虚空津姫命(コクツヒメノミコト)」で、神功皇后の妹に当たる
神功皇后と共に三韓征伐された際に武功を挙げられ、凱旋の時にこの浦に船を停めて泊り、 やがて皇后の仰せを受けて渡守神社の祭主となる
はじめは、海神・大綿津見命(オオワタツミノミコト)を祀った沼名前神社(渡守神社)の祭主を務める身だった
後世、その徳が偲ばれて氏神として奉斎され、鞆湾の入口を守護神となる
以降、この高台に鎮座し続け、現在に至る
8月(旧暦7月7日)の例祭では氏子が、太鼓と祭囃子のリズムに乗って、神輿を威勢良く廻す「平の投げ神輿」がある
|→ #淀媛神社 →医王寺
|→ #医王寺
温泉あるとこ薬師如来を安置する寺があり、概ね高台に鎮座する。しかし、この寺は坂がキツイ!そして仁王門の表参道は入口がメチャ狭く分かりにくい。
急な坂道です・・・。
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開なので箇条書きで簡単に説明しておきます。
眺望の良さが有名
裏山の中腹にある「太子殿」からは、鞆のまちと瀬戸内の景観を一望できる
太子殿へは、医王寺から更に583段の石段を登る
826年、弘法大師・空海による開基と伝えられている
1560年、火災で焼失する
1596年から1615年、再興
1685年、本堂は藩主・水野勝種の再建といわれている
本尊の木造薬師如来立像は室町時代中期の作で秘仏
1826年、シーボルトもツツジや松の観察のために参拝している
|→ #医王寺 →沼名前神社「 #明園寺 #阿弥陀寺 #南禅坊 #法宣寺 #静観寺 #妙蓮寺 #顕政寺 #大観寺 」
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開です。
|→ #沼名前神社
鞆の浦参拝必須!京都の伏見城の移築物がある!備後三大祇園宮に手火神事と弓神事!!
「ぬなくまじんじゃ」と読む。秀吉が愛した伏見城の「組立式能舞台@重文」がある神社で、ここしかない唯一無二のもの。神功皇后ゆかりの神社であり、たぶんね海運時代に潮の流れで停泊する場所で栄えたのだと思う。鞆の浦では「淀媛神社」「渡守神社」が関係するのでセットで行くべきかと。あとは「天別豊姫神社」もセットで参拝すべきです。
神社は本殿を回ると何かがあることが多い。
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開なので箇条書きで簡単に説明しておきます。
祭神は、海神・大綿津見命(オオワタツミ)とスサノオを祀る
スサノオから「鞆祗園社」ともいう
『延喜式』にも載る古社で、旧社として渡守神社と祇園社があった
神功皇后が、西へ向かう際に寄泊したとき、綿津見命を祀り、海路の安全を祈ったのが始まり
御還幸のときに再び寄り、綿津見神に、弓を射る時に使う武具を奉納したことから、この地が「鞆」と呼ばれるようになたそうな
スサノオがいるので、鞆祇園宮(祇園社)と称され、今でも「鞆の祇園さん」と呼ばれているようだ
祇園社は浜辺に鎮座していたが、平安時代に移転、その後も造営が繰り返された
1599年、渡守神社は渡札の辻という坂に鎮座していたが焼失
福島正則が祇園社と並べて再興
1625年、2代目藩主・勝重は石鳥居を寄進し、3代目勝貞は、山城伏見城にあった能舞台を入手したなど崇敬が篤い神社
1648年、藩主・水野勝成が現在地に再建
その後の修理が繰り返される毎に位置を上方へ移して境内を拡張
歴代領主の尊崇を受けた
1685年、現在地に遷った
境内には、豊臣秀吉が愛用したといわれる能舞台がある
国内に残っているものでは唯一持ち運びできる組み立て式で、国の重要文化財に指定
1875年、渡守神社を沼名前神社と認め、翌年に渡守神社の祭神である大綿津見命を合祀し、スサノオは相殿神となった
境内には仲士たちが力自慢を競った力石がある
|→ #沼名前神社 →小烏神社
左に安国寺がありますが、お腹が減ったし1日目に見仏したのでスルーします。この仏像ですね。
元に戻ります。
|→ #小烏神社
祭神・小烏大明神とあるので、八咫烏こと下鴨神社の祭神・賀茂建角身命(下鴨神社のブログ)かなと思ったのだが、明記はされていないなと。(小烏大明神=賀茂建角身命とする神社があるが、この神社ではスルーである。ただ、福山市加茂町に賀茂神社があることは記しておく。)
ふと思ったが、賀茂氏の祖・アジスキタカヒコネは鉄の要素もあるなと。
詳細は次のNOTE参照ですが、まだ未公開なので箇条書きで簡単に説明しておきます。
祭神は、小烏大神と天目一箇神
地元の人たちから「こがらっさん」の愛称で親しまれている
創建は不詳で概ね以下の通り
三原刀匠の流れをくむ子孫が氏神として祀ったのが始まり
福島正則が鞆の浦の城下町を整備した際に、鍛冶工をこの地域に集めて鍛冶屋町を作り、その中心にあるのが小烏神社
室町時代の後期に、鍛冶を生業とする人たちが、氏神様として祀ったのが起源ではないかといわれている
12月には例祭である「ふいご祭り(鉄鋼祭)」がある
1350年、足利直冬に対して、高師直は、宮兼信、杉原利孝等に討伐を命じた為、この付近で合戦「小烏の森の合戦」となった
1864年、現在の神社の境内を整地された
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写真は載せていませんが、やっぱ人気ありますね~。
▼旅行記一覧▼じゃらん(簡易版&ルート確認)
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2024年◆広島②◆宮島「厳島神社」朝昼夜×干潮/弥山制覇/美味スイーツ体重増に要注意【宮島特集シリーズ】
厳島神社は次です。
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