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大神神社だけでは片詣り「村屋坐彌冨都比賣神社(村屋神社)」妃神ミホツヒメ【田原本町シリーズ】
大神神社の別宮!大神神社だけでは片詣りとも言われ、ここも参拝して初めて意味があるとされる。詳しい創建年代は不明だが「延喜式」によると、673年の壬申の乱のとき村屋神が「わが杜の中を敵が来る。社の中つ道を防げ」と大海人皇子方の大伴連吹負将軍に軍備の助言をした。壬申の乱の功績によって神社として初めて位を天皇から賜ったと『日本書紀』に記されていることから、673年には創建されていると考えられている。
ちなみに「むらやにいます みふつひめ じんじゃ」と読む。大物主と三穂津姫(ミホツヒメ)の夫婦神を祀る。ってオオモノヌシはオオクニヌシでもあるので、やはりこの周辺は出雲(私のNOTE)なんだなと思う。そして,、出雲大社(私のNOTE)から出雲大神宮(私のNOTE)経由のココとの繋がりもあるなと思ったり。。
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変更履歴
2024/02/22 初版
▼HP
▼アクセス
奈良県磯城郡田原本町藏堂426( 奈良県磯城郡田原本町蔵堂423)
▼祭神・本尊と脇時
三穂津姫命(ミホツヒメ)
別名:彌富都比賣神。タカミムスビの姫神。
高天原から3本の稲穂を持って降臨し、稲作を広め国を豊かにした神
大物主命
▼見どころ
正式名は「村屋坐彌冨都比賣神社」で通称「村屋神社」で「むらやにいますふつひめ」と読む。「参拝者駐車場」もある。
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鎮守の杜という感じです。公式HPの神社紹介です。
村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)は大物主(おおものぬし)と三穂津姫(みほつひめ)の夫婦神を祭る「縁結びの神」「内助の功の神」で知られ、大神神社(おおみわじんじゃ)の妃神(きさきがみ)を祀っていることから大神神社の別宮(※)とも称され、大神神社と合わせてお詣りされるとさらにご利益が増すといわれております。また、イチイガシが群生する照葉樹林の樹そうは植物学上極めて貴重なもので、県の天然記念物にも指定されています。
※厳密には異なりますが、古来より氏子崇敬者から親しみを込めていわれてきました。
『日本書紀』では、主祭神・ミホツヒメはタカムスヒの姫で、オオクニヌシ(オオモノヌシ)の国譲りで、謀反や裏切りなどがないように、自身の娘を嫁がせたとのこと
延喜式に載り、オオモノヌシも祀られたことより「大神神社の別宮」とも
摂社も軒並み「延喜式」である
673年の壬申の乱のとき村屋神が活躍し、功績によって神社として初めて位を天皇から賜った
村屋神社、久須々美神社、森市神社の3社で、壬申の乱の活躍を後世に伝えるために例祭がはじまったとさ
1580年頃、戦火により社地を奪われ、財政難に・・
1599年、氏子により小さいながらも再興がはじまる
ということで、オオモノヌシとミホツヒメとなれば、オオクニヌシとミホツヒメですね。京都にある出雲と出雲大社とも繋がっているのか??
→参道鳥居から拝殿
鳥居をくぐると参道の両脇を青々とした木々に挟まれている。
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→拝殿・本殿
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『日本書記』によると、高皇産霊命(タカミムスビノミコト)は、オオクニヌシから国譲りを受けた時、その功に報いるため、そして裏切られないために、娘である三穂津姫命を大物主命に娶らせたようです。
その際、三穂津姫命は天神が住んでいた高天原から3本の稲穂を持って降り、稲作を広めて国を豊かにしたとされる。そのため内助の功にあたる神とも言われ、「縁結びの神」「家内安全の神」「商売繁盛の神」として信仰されている。
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本殿は、二棟並んだ朱塗りで、通称「守屋の宮」や「森屋の宮」、「森屋明神」と呼ばれている。
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→拝殿左「久須々美神社」
祭神は「天之久之比命(アメノクシヒノカミ)」と「コトシロヌシ」。天之久之比命は倭鍛冶の祖である。田原本町の鏡作系の神社とも繋がりを感じる。
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→本殿左「服部神社」
境内摂社「服部神社」の祭神は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、天之御鉾神(アメノミホコノカミ)。元は「大安寺(私のNOTE)」の波津里神にあったが、天正の兵火で焼失して現在地に遷座したよう。大安寺に服部氏が居住しており、その祖神を祀ったもののようだ。
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天之御鉾神
天之御中主神の13世孫で服部連の祖。さらには、「天照大神が高天原にて、天之御鉾を司とし、八千々姫を織女として織物を作らせた」という伝承がある。服部連が織物の神として祖神と遠祖を祀ったものと考えられる。
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この地域の謎である。保食神、なぜかトヨウケ、アメノミナカと、よく言われる「トヨウケ=アメノミナカ=かぐや姫」説も、この地域を見ているとわかる気がする。そして地味に海部氏の匂いもするのだが・・。
→拝殿右「村屋神社」
祭神は、フツヌシ、タケミカヅチと出雲を平定した、いやヤマトに出雲を譲らせた神様。ヒメカミも祀られており、アメノコヤネがいたら春日大明神コンプリートであるが1柱足らない。また、室屋大連神と大伴健持大連も祀る。
室屋大連神と大伴健持大連神
室屋大連も大伴大連も、天武天皇の即位に直結する壬申の乱において、天武天皇(大海人皇子)軍の将軍として大活躍したことから、軍神タケミカヅチとフツヌシに合祀される栄誉を得たようだ
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元は東の宮山に鎮座していたが、天正の兵火にかかり焼失して現在地に遷座。本来の祭神は、タケミカヅチとフツヌシの二座であったらしい。多くの神社はアメノコヤネとヒメガミをセットで祀るのだが、ここは2柱なので、もしかしたら純粋に中臣氏と石上氏(物部氏)の祭神なのかな。
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あと、ここも神仏習合していたようですね。ここは鐘楼があったようだ。
→「万葉歌碑」、「社務所」で御朱印
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シンプルな御朱印を頂いた。しかし、ここも長く続くよう、映える御朱印をされていますね。御朱印帳もなかなか凝っていますね。2000円だけど・・・。
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673年、壬申の乱の時には 村屋神が天武天皇を勝利に導く神託を下し、神社として初めて位階を皇室から賜った
式内社、「大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)」である
1183年、火災にあって衰退
1330年頃、社家はすべて社地に住居を移し、これを村屋垣内、村屋村といい、通称「森屋」あるいは「森屋の宮」と呼ばれた
1573年頃、神領・社地を没収され、社家・社坊も廃絶したのだが・・・
1573年、服部神社が境内に遷された
1580年、戦火により社地を奪われ財源がなくなり、一時は衰退
1584年、村屋神社も境内に遷された
1584年、久須須美神社も森屋垣内に遷される
1599年に再興し現在に至る
1866年、久須須美神社も境内に遷された
2023年、境内摂社の「物部神社」、「久須須美神社」、「服部神社」の社殿の改修工事が終了
→社務所から拝殿
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→「物部神社」「市杵島神社」
池があり社殿があるということはイチキシマを祭神とする神社!というのは鉄板なのだが、ここは物部神社がある。
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物部神社の御祭神は、ニギハヤヒの妻「炊屋姫命」と子「宇麻志摩遲命(ウマシマジノミコト)」で、「物部守屋連」を配祀する。その由緒は不詳で、神主の祖神を祀ったものと伝えられている。
御炊屋姫命
大和国葛城の事代主の娘で、長髄彦の妹。天孫「饒速日尊」の妻となり、物部氏の祖「宇麻志摩遲命」を生んだ。
一方、『但馬故事記』では、ニギハヤヒが長髄彦の妹・御炊屋姫命を娶り、宇麻志摩遅命を生んだとしている。
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この神社の祭神は出雲の神が多いが、物部が祭祀をしたことなら不思議な話に感じる・・。島根・物部神社(私のNOTE)は出雲大社と北九州を分断すべく見張っていた認識だが、これはどういう意味なのか・・。祟る出雲を物部が鎮めるために丁重に祀ったのか??もしくは出雲を裏切ったものがいたとか・・・。
物部氏の祖・ウマシマジを祀る。神武天皇よりも早く大和に入り、神武天皇の祖であるニニギの兄弟・饒速日命(ニギハヤヒ)の息子。祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定し、天香具山命は新潟・弥彦神社に鎮座する。
→境外摂社「岐多志太神社」
本NOTE翌日公開。
▼メディア情報
2月11日は「祈年祭」と「御田祭(御田植祭)」
6月30日は「夏越大祓」
10月9日に「宵宮祭」、翌10日に「本宮祭」
これ以降は本NOTEの下にあるコメント欄で追記します。
▼旅行記
初版以降の参拝は以下の旅行記の纏めで参照です。
▼セットで行くところ
▼仏像展
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