しらふ

町田康『しらふで生きる』を読んで、分断社会を思う。

この本の発売を知って、最初の感想は「なんでや!」だった。疑問というよりは非難に近い「なんでや!」である。
というのは、16歳くらいにヴィレヴァン(ヴィレッジ・ヴァンガード)で町田康の本を手にとってから、10代の時はそこそこ夢中に読んだ人間からすると、町田康の断酒宣言はちょっとした裏切り行為のように思えたからだ。

町田康の小説・エッセイ・詩には酒が出てくる。美味そうに飲んだりするわけではない。小説の登場人物やエッセイの本人のどちらも逃避や中毒のようにくわっと酒を飲む。一杯飲んだらもう一杯というように、完全に駄目な感じで杯を重ねていって、最終的には酩酊、泥酔となる。何も格好良くはないのである。けど、その有様は理解できる。
なぜか? 10代の私も酒を飲みまくっていたのか? だから理解できるのか? 全然違う。飲んでない。だが小説の登場人物が酒に走る理由が理解できた。彼らは何もかも偶然や自分の怠けによって、最悪の方向に進んでいく。何が悪いわけでもなく、本人たちは真面目に生きようとしているのだが世間がそれを阻む……。そしてそんな彼らは「ぼだら!」と唱えて、酒屋に飛び込む。借金をしてまで飲んだりする。
それは理解できた。なぜならそれは青春期に抱える世の中の理不尽さへの反感と似ていたからだ。
そして、町田康の小説には考えても考えても納得のいかない世間の無情さから逃げる手段として酒があった。ほとんどフィクションの機能としてあった。だからこそ「なんでや!」となったのだ。
あと、私が酒を飲んで、飲まれて、吐いて、記憶を失うという体たらくを続けているのは、ほとんど町田康とブコウスキーのせいだと思っているので、ちょっとした勝ち逃げされたような気分になっている。
ちなみに、町田康、ブコウスキー、ピンチョンなんかを読んで、文章ってなにやってもいいんだ、という印象にはなったので、こんな変な文章を書いているところもある。真面目に書くとポール・オースターみたいなったりするけど。

というわけで、そうした個人的な興味から『しらふで生きる』をすぐに購入して読んだ。
相変わらずの面白おかしい文章の中で、著者は30年間飲み続けたある日、酒を止めようと思った。だが著者はそれを狂気に陥ったと表現している。
酒を飲まないことこそが狂気だと言っているのだ。
そもそも人はなぜ酒を飲むのか。それについては、概ねこんなことを書いている。
自分は他人より優れており、そんな自分がそれほど幸せではない。それを取り戻すために酒を飲んで一時的な快楽をえているのだ、と。
これは上記したように、著者のほとんどの小説で描かれているテーマである。そして酒はそれを解消するフィクションの機能、言ってみればデウス・エクス・マキナである。
デウス・エクス・マキナとはギリシャ悲劇の中で、物語の悲劇性が極まったところで、「そんなんもうええですやん」とばかりに神様が出てきて、解決してしまうことである。ちなみに、実際のギリシャ悲劇では作り物の神様が登場してきたらしい。だからデウス・エクス・マキナ=機械じかけの神と呼ばれている。
それはともかく、そんな便利なものを失ったら、人はどうすればいいのか?
そう思わざるを得ない。
著者はこう書く。認識を改造しろ、と。

では、どのように改造するのか。というと。
自分は平均以下のアホだと思え、と書いている。
自分が他人よりも優れていると思うから、幸せを求め、その理想像に叶っていない現実との差を取り戻そうと、酒を飲むなら、自分はアホでそれほど幸せである必要はないのだと思うようにするということらしい。
アホだから年収差も仕方ないと思う。モテなくても仕方がないと思う。それにクヨクヨせずに、酒に逃げない。ということらしい。
それによって、社会の理不尽さを解消(無化)し、著者は断酒を4年以上続けているらしい。
そして注意すべきなのは、酒をやめられた自分を「酒をやめられた偉大な人間」とは考えてはいけないということらしい。それによってすぐに解消したはずの世の理不尽の元凶である「自分=平均以上」という思考が蘇ってくる。思考に上下や善と悪の階層的な原則が蘇るのだ。それを避けるために、常に自分は「平均以下のアホ」だと設定し直す必要がある。そんな絶えざる闘争のようのものがあるのだ。
ここまで読んで、果たしてこれは断酒の話なのだろうか、と思った。
どういうことか?

自分は平均以下のアホであると設定することで、世の理不尽の元凶である人との比較や社会的な善性と悪性の優越を無化し、自分が人より幸せではない、虐げられているという思考をリセットする。
それがこの断酒の構造である。
つまり要約すると、マウントをとろうとするな。マウントをとれなくてもクヨクヨするな、ということである。
あれ? これって所謂、分断社会に対する思考なんじゃないのか? と思った。
善悪や優越の主義主張によって、常に意見を対立させて、分断する社会。その社会で生きるときに、自分を平均以下のアホだと設定して生きればどうだろうか? アホなので、人より劣っていても気にしない。アホなので、自分が正しいと主張しない。アホなので、幸せでなくてもクヨクヨしない。アホなので。アホなので。

カート・ヴォネガットという作家が炭鉱インコのエピソードをあげて、作家とはそうあるべきだと書いていた。
炭鉱インコは炭鉱でガスが出た時、すぐに作業員が察知できるように存在している。インコはガスが辺りに充満してきたら、すぐに死ぬ。それを見て、作業員は退避したりするのだ。
このことを、作家は良くないことが起こっている時に、一番最初に反応しなければいけないという意味でヴォネガットは書いている。
町田康は自分は狂ったので酒をやめたと書いている。
自分を人と比べて幸せであるとか、正しいとか設定することは、一種の快楽だと思う。マウントを取るのはやっぱり楽しい。ぶっちゃけ弱者に対しておれつえーするのは快楽である。ゲームとかだと全然やっていいと思う。
4年前の町田康は、徐々に現れてきたおれつえー的な快楽を享受する社会というガスを浴びて狂ってしまったのではないか。そんなふうに思う。
著者はもともとパンクロッカーである。そして作家となった後も、「自分が幸せになれない、社会に虐げられている。理不尽だ。と考えてしまう自分」というテーマを書き続けていた。だから、酒という快楽に逃げる。一連のサイクルは、著者にとっては正しいサイクルだとしても、世間的にはまったくもって狂ったサイクルである。そしてそれが、パンクロッカーから始まった町田康という人物の社会との距離のとり方である。
しかし社会が徐々に「自分が幸せになれない、社会に虐げられている。理不尽だ。だからもっと快楽よこせ!」というサイクルで平常運転し始めると、自分と社会が急接近してきて、突然、著者の酔いが醒めてしまったと想像することは難しくない。
だから町田康はまた狂った。そして今度は酒をやめた。アホになり、社会とまた距離をとったのだろう。かもしれない。個人的な考えだ。
だがこの考えによって、私は最初の「なんでや!」から「そうなんや!」へと納得することができた。

「自分が幸せになれない。社会に虐げられている。理不尽だ。だからもっと快楽よこせ!」という社会において、カウンターカルチャー、無頼派、アウトサイダー、というものがどうなるのだろうか?
町田康、ブコウスキー、セリーヌなどの、社会のアウトサイダーを描いた小説が、激しい怒りの中にも、寂しさと美しさのある小説だったのは、彼らが孤独で、常に迷い続けていたからである。しかし彼らの怒りはもはやひとりのものではない。快楽として社会が消費し始めた。その中でもう一度、孤独であろうとするためには、もう一度狂わなければいけない。この社会から離脱しなければいけない。そしてまた迷わなければいけない。自分と社会との距離に。
しらふで生きる。それが町田康にとって、この社会で孤独を守る方法だった。のかもしれない。たぶん。もしかして。ぞなもし。

私も酒をやめたい。

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