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こんな恋にあこがれる。

「淳之介さんのこと」     宮城まり子著

最近ニュースで先日亡くなった宮城まり子さんと「ねむの木学園」のことが出ていたので、書こうと想ってこの本を取り出した。この本は、吉行さんが亡くなった後に出版されたもので、たまたま眼に入り購入したものである。

吉行さんと宮城さんのことを知っている人は知っているのだろうが、高校生の頃の僕には意外であった。なにせ病気と酒と女性に耽溺する作家と片や女優であり身障者の貢献に人生を捧げる孤高の人だったからである。

もちろん、前回「私の文学放浪」でも書いたが、その中にも宮城さんのことは出てくる。

売れっ子のアイドルの時に知り合い、互いに惹かれあい終生のパートナーとなる。この本にはその出会いから、吉行さんの娘さんを引取りお嫁に出し、吉行さんを看取る処までのことが詳細に書かれている。「ねむの木学園」を始める話も出てくる。

先の「私の文学放浪」と対(つい)にして読むとその経緯や心象までが本当に良くわかる。なぜ僕がここまで読むかと言うと、その頃の吉行さんは僕にとって憧れのひとであったが、まさに宮城さんも同じであった。

宮城さんも心のひだというか感じ方が良く似ていた。吉行さんのように病気こそして居なかったが、劣等感のかたまりで、何一つ自信のない弱い人間である。

僕は運動がダメであったし、人前ではまともに喋れなかった。家族や友人との違和感もあるし、どこにいても疎外感があった。そうした僕がこうして生きて来られたのも、吉行さんの侍のような生き方に惹かれたからである。

彼の書物に救われたのも1度や2度ではない。辛いことがあった折には、まるで聖書のように本を開き、救いを求めた。

宮城さんが吉行さんと初めて接するのは、1957年の雑誌の対談である。売れっ子のアイドルと小説を書き出したばかりの作家との出会いであった。

彼女はその折に彼の小説を2,3読んでいた。その頃の彼はようやく病気から元気になり始めた頃である。それまでは起き上がれず、米塩を得るために、腹這いになって原稿を書いていた。少し元気になると原稿に向かうという毎日であった。

彼女は文章から想像して、どんな年配の人かと思ったらしいが、若いのに驚いたという。吉行は33才、彼女は30才であった。

彼女は売れない女優だった頃、電車の一駅分を歩いてせっせと古本屋で書物を買って読んでいた。それは梶井基次郎 だったり、島尾俊雄や佐藤春夫、太宰治や萩原朔太郎、中原中也や立原道造だった。

これらの人々は、吉行と同じく感受性が強く、健康とは言えない人びとばかりである。彼が初めて彼女の本棚を見た時驚いたのだ。「これ、全て君の本?」「はい、もっと他の本を読まないといけない?」「いや、僕の持っている本と全く同じなんだ」

情景が浮かんでくる。彼らが惹かれあわない訳がない。

彼女は30才を過ぎて、生まれて初めて恋をした。その頃の彼は結婚をしていたのだが、その後終生のパートナーとなったのは彼女である。

宮城さんが、ねむの木学園を始める時も彼に相談をした。「身障者の施設を作りたいのですが、賛成して貰えますか?」

吉行の答えはこうであった。「この話は10年も前から言っていたね」「あなたと知り合った頃からね」「昨日今日言い出したのならやめなさいと言うけど、ずっと前から思い続けていたみたいだから、いいでしょう。その代り約束」

「 ①途中でやめると言わないこと。②愚痴はこぼさないこと。③お金がナイと言わないこと。これを守って下さい。君を信じて来る人に、途中でやめたと言うのは大変無礼だからね」

「うん」と答えた彼女は、涙で前が見えなくっていた。

彼女は言う。この言葉の支えがあったからこそ、これまで続けて来られたという。収入は当時売れっ子の彼女の方が大きく、彼からお金の支援は受けていない。

彼女が、吉行さんとの収入の開きを気遣い、仕事を減らしたことがある。その時、作家の有吉佐和子さんから、まりちゃんダメだよ仕事を減らしちゃあ。みんなまりちゃんのことを待っているんだよと教えられたという。

こうした心遣いや相手を思いやる気持ちは、吉行さんと同じものである。

しかし、一方でこの三つの約束のように自分に対して厳しく律することも忘れない。同じように吉行も「戦中少数派の発言」の中で戦争に対して強く憎み、友人に対しても厳しく発言をしている。

僕も、こうした吉行の生き方に魅力を感じると同時に、強く惹かれるのである。

吉行淳之介のことを書いたのはこちらです。


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