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秋津島の由来は誠の実

前話「神生み最初の神に忠の亮」いかがだったでしょうか。イザナギとイザナミが神生みで最初に生んだ神に、太安萬侶は神明を懸けるため自らを神と称しました。嘘偽りのない証しですが、古事記も全て真実ではありません。なぜなら原作の稗田阿礼が、天武天皇から帝紀と本辭の誦習を命じられたのは672年の壬申の乱の翌年673年。太安萬侶が元明天皇に、古事記の編纂を命じられたのはなんと28年後の711年、翌712年に完成します。

天武天皇の崩御後、後を継いだ皇后の持統天皇、初の女性天皇誕生のため、大キャンペーンがありました。古事記の骨子は持統天皇の御代にできていたでしょう。神生み最初の神の「大事忍男神」何も説明がありません。神生みの他の神はある程度説明もあり解釈もできますが、大事忍男神を熊野本宮大社に祀られる事解之男神、本来は黄泉から帰還したイザナギの禊祓に現れるべき神を誤って神産みの最初に入れたと、古事記伝は解釈する。

練りに練った日本神話、そんなミスをするはずがありません。大事忍男神の事は古事記の「事」、ふることふみの「こと」。太安萬侶でないとしても、古事記を忍んだ男は必ずいます。日本神話最大の目的は日本団結、各氏族の神様を登場させて、みんな仲間だよと盛り上げる。正確な記録や伝承はないから、魏志倭人伝通りにシナリオを書き重要な神様を配役した。

一見全ての神を受け入れる神道の寛容を表現しますが、国生みの次に神生みを述べるのは、神道最強と謳っています。大事忍男神の次に生まれるのは、家宅六神と解釈されていて、石土毘古神は土を石巣比売神は砂を司る神としていますが、伊予の高嶺とも呼ばれる石槌山は石土山とも記すのです。剣山も名を刻まない日本七霊山、西日本最高峰の修験道の山。

ちなみに剣山は西日本代二位、隋書倭国伝に記される阿蘇山。阿蘇の蘇を中国人は「ソ」ではなく「ス」と発音します。「アスゥ」と発音したのを、「阿蘇」と漢字表記しました。分けもなく天まで届く火を放つのは、光柱のことでしょう。阿波の崇める山の火で「阿崇火」が明日香のルーツですが、修験場にもできない、世界の聖地だったのでしょうか、

伊曽乃の女の神が、石鎚山の男の神に求婚した際に、「修行するから、山から石を投げる、落ちたところで待て」。その石の落ちたところが伊曽乃神社の伝説が残る。石鎚山には女の神もいてそれは石巣比売神なのでしょうか。延喜式神名帳には「石鉄神社」、石鉄山とも表記されます。家屋の材料として、石だけでなく鉄も利用されました。

家宅六神の三番目は大戸日別神、戸は出入口にて門の神です。四神目は天之吹男神、名前から「大祓詞」に登場する気吹戸主と同一神と解釈されますが、どうでしょうか。神道において祓を司どる祓戸四神は、皇室には身内の神です。ただでさえ皆の神を登場させるのに大変なシナリオになる。大祓詞で唱える瀬織津姫をわざわざ神話に役は振らない。

一神ニ神が家屋の礎の石、三神が住居の門なら四神もそう、天之吹男神の「吹」は茅葺きや瓦葺きの「葺き」でしょう。五神は大屋毘古神、単純に「屋」は、屋根の屋ではなく、禍津日神の異名を持つ五十猛神、大屋毘古神の別名も有り、イザナギとイザナミが生んだ大屋毘古神は大綾津日神、「大綾」から「あ」が取れ「大屋」になったの解釈がある。

大綾津日神は大禍津日神、イザナギが黄泉から帰還し穢れを祓った時に生まれた神が、八十禍津日神と大禍津日神。大屋毘古神は大禍津日神と同一神格も、五十猛神とは別神格。木国の大屋毘古神の元へ、大穴牟遅神が逃げ込んだと古事記が語るから、五十猛神は大屋毘古神と同一神とされる。

主祭神に五十猛命を祀る、紀伊国 一宮の伊太祁曽神社、御由緒にイソタケルは誤りでイタケルだと明記している。五十ではなく「伊」、「伊国」を中国史は「倭国」と記す。「五十猛」は「倭建」、鵠から白鳥になって「日本武尊」、ヤマトタケルはイタケルからもらっていますね。

紀伊国はかつて木の国と言われ、五十猛神の神格は草木の神。木材は住居の原材料ですが、木の神は風木津別之忍男神、家宅六神の最後を飾ります。風から風水が脳裏に浮かびます。風水は「気の流れを物の位置で制御する」という思想。

日本においては、風水が完全に成立する唐代以前の一部の理論のみが、陰陽道や家相として取り入れられ中国本土とは別の形で、独自の発展を遂げています。風水の名称は古く、晋の郭璞に仮託された葬書に記されます。神道を司る家宅六神も、道教と同様に中国の影響を受ける。

次に生まれる神は大物、「わだつみ」は転じて海そのもの「大綿津見神」、別名が海神豊玉彦なのは、神様仲間づくり。神武天皇の父方の祖母、豊玉毘売は大綿津見神の子供。瓊瓊杵尊の子の火折尊と結婚し、鸕鶿草葺不合尊を生む。豊玉毘売の妹の玉依毘売が育て、二人の子供が神武天皇。神武天皇の皇后と第二代綏靖天皇の皇后に同様の話があり、豊玉毘売の焼き直しと言われるが実体はその逆だろう。山幸彦や海幸彦、竜宮城が出てきたら、それはおとぎ話。

スサノオが海原を治めよとイザナミから命じられる。大綿津見神と被るのはスサノオが海幸彦の祖神だからだ。次がわざわざ水戸の神と語る、速秋津比古神・速秋津比売神。大祓詞が謳う速開津比売と読みは完全に一致するが、川上にいる瀬織津比売神によって、海に流された罪・穢が、港の神が飲み込んでは大変だ。そう秋津の津は港の意味。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち
国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ
うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

舒明天皇の国見歌、蜻蛉はとんぼ、とんぼは古来秋津と呼ばれていました。阿波における天の香具山は、日峰神社が鎮座する日峰山、日峰神社の主祭神は大日霊貴神、秋津は小松島港にて阿岐津。国生みは大倭豊秋津島、大倭にある即ち奈良にある秋津島。神武天皇が見た蜻蛉の臀呫は、完全に日本書紀の創作です。

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