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読書感想文 宇野常寛 著 「庭の話」 発信から制作へ

「庭の本」は無力な本だ。これはけなしているわけではない。ささやかな本というべきかもしれない。

この本でハンナ・アーレントの「人間の条件」を取り上げている。人間の条件では有名な「労働」「仕事」「活動」という三つの行為が出てくる。「人間の条件」は1958年の出版で、まだまだマルクス主義が力を持っていた時代の話だ。「労働」が大きく力を持った時代に「活動」を盛り上げなければならないと考えた。

「労働」とは人間の生命活動を支える行為であり、端的に言えば消費と直接結びついたもののことである。床屋のようなものや、レストラン、食料品の販売など日々の生活に必要なものである。生きていく上で大切なものの提供を労働と結びつけている。ハンナ・アーレントはこの「労働」が史上かつてないほど大きくなったのが現代と考えている。

「仕事」とは制作することである。陶芸で壺を作るような行為をイメージしてもらえればいい。世界に作品を付け加える行為、それが「仕事」だ。

「活動」とは端的に言えば政治的行為のことである。「活動」は、私的な空間ではなく、他者と出会い、意見を交わし、共同体を作る公的な領域で行われる。例えば「活動」は時に法律として共同体の形をつくる行為でもある。法律とは制度を作ることであり、そういう意味で共同体に形を付け加えることに他ならない。

SNS上で政治がエンタメとなり、だれでも発信する時代をハンナ・アーレントなら「活動」といったかどうかは怪しいと思う。ただ「活動」が自己の承認に対する快楽と結びつくことによって、大きくなったことも確かでしょう。つまり「活動」も大きな燃料をもって、発信に対する推進力を得ている。

ここで「庭の本」はささやかながら、作ることを推している。何かを作ることを欲望として持つのはほんの少数だ。欲望と書いたのは、文字どうり自ら欲することだからだ。「庭の本」では例として、漫画「スラムダンク」の登場人物の二人がボーイズラブの関係性を妄想し、そういうものがこの世に存在しないがゆえに自分で作ることになる人物があげられている。

私の考えるに、初期のライトノベルは文章も下手であった。それでも漫画やゲームの世界につかった人間が自分で物語をどうしても作りたかったからだと思う。絵も描けないプログラムも組めない、でも作りたいという欲望がライトノベルを産んだのだ。やがて一大ジャンルになった。

自分の望むものがこの世にないから自分で作るしかない。「庭の本」はそういうものがこの世にあるのだということを後押ししようとする。そうしてできた制作物は誰からも必要とされないかもしれない。だからこれは作ることに対するささやかな応援なのだ。「労働」や「活動」に対するよりも動機は弱い。すぐに消えてしまう欲望なのだ。

これからもみんなが制作を始める世界は来ないでしょう。でも作るという行為に希望をたくしたのだ。妄想する人間を肯定したのだ。

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